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夢切り絵【ショッピングモールの死闘】

見た夢を切り絵にしました、13枚目でございます。

三が日は外には出ず、昨日になって、近所の神社にお参りをするつもりで出向いたのですが、小さな神社だからそれほど混まないだろうという考えは間違いでございました。

神社の外まで延々続く行列が見え、最後尾は確認できませんでしたので、一旦諦め、今年の初詣は1月中のどこかで行けたらと思っております。
去年は「病気平癒」のお守りを買いまして、1年間机の隅っこで埃をかぶっておりましたが、身体はすっかり良くなり、ちゃんと御利益があったことをひしひしと感じております。

病気を経験された方ほど、健康が第一であり、健康であればそれでいいと仰る方をよく見かけますが、健康になればなるほど、つくづく健康であればそれでいい訳ではなくて、健康は最低限の状態なのだろうと、感じるようになっております。
病気のときとは違い、今は生活や行動に大きな制限もなく、強く注意が必要なことも特にはなく、適切な睡眠と食事を欠かさないだけで、平穏が手に入っている状態とも言えますが、それで満足というよりは、この状態がニュートラルで、ここからやっとプラスの人生が歩めるような気が致します。

うつ病などの診断を受けると、その日から「頑張らなくていい」「無理しなくていい」「いい加減でもいい」というような励ましや慰めの言葉を、多くの人からかけられる生活になり、いろんな人たちに言われているうちに、それがだんだん自分自身の口癖にもなっている人を多く見かけております。

「そんなに頑張らなくていいんだよ」
「できなくたっていいんだよ」
「一生懸命にやらなくたっていいんだよ」
そう言って、相手にも自分自身に言い聞かせている人が周りにはたくさんいらっしゃいますが、そう言い聞かせている人はまだ健康ではないのかもしれないと思うことがございます。

病気の人には、たくさんの労りの言葉が必要で、人によってはどれだけかけてあげても足りないくらいの人もいると思いますが、うつ病を経験したからといって、ずっと「頑張らなくていい」訳ではないと私は思っております。

今年から仕事を再開する予定の私は、頑張れることが嬉しくてたまらない心境でございます。

頑張りすぎたことで、うつ病を患ってしまった人は、頑張り続けてきた生活から大きく舵を切り、治療に伴って「怠けること」や「自分を甘やかすこと」を少しずつ教わり、自分を労わることを癖付けるようになっていくと、その考え方を中心に生活が様変わりしていきます。
年数をかけて自分を労わる生活に慣れてきた頃、ある程度心身が回復してくると同時に、普通の生活に戻すには「少しずつ頑張っていく」という方向にまた舵を切らなくてはならないとき、いつからか心の支えにしてきた「甘やかすこと」や「怠けること」などから抜けられなくなっている自分を見つけてしまって、上手く舵を切れないでだらだらとした時間だけが経っていく状態を招くことがあるような気が致します。

うつ自体は、短期で治る方もいらっしゃいますから、薬のおかげである程度までは回復しやすい印象がありますが、一種の依存症のような感覚を私は持っておりました。

私が診断されたとき、双極性障害は「低め安定」を意識するべしとよく言われたのですが、やりすぎの原因になるため過集中を出来るだけしないように最初の頃は心掛けておりました。
低めを意識してやる気を一定量削ぐようにすると、過集中は防げても、行動しないことでのフラストレーションが少しずつ溜まっていき、それがのちに躁転の引き金となり、その後結局鬱にもなるため、過集中は止めず、我慢せずやりたいことはやるということに、落ち着いております。
そうなると、どうしても行動が多めになっていくので、あまり静かな毎日は送れず、未だに「低め安定」は出来ておりませんが、自分なりの平常運転が出来ていれば良いのだと思います。

時には一般的なセオリーに固執してしまったり、ずっと続けてきた習慣を変えることが出来なくなっていたりすることもございますが、良くなったり悪くなったりしていく今の体調に合わせて、こまめに方針転換していくことが大事なのだと思います。

発達障害だからなのか、性格なのか、病気によるものなのか分かりませんが、こまめな方針転換が苦手だということは日々実感するものでございます。

重症だった頃、お医者さんに対してあれほど藁をもすがるような気持ちでずっと頼ってきたのに、もう今では私の体のことは先生より、私の方がよく知っているように思います。
たまに会う相談相手のような関係性に変わっていき、病気が遠のくとお医者さんとの関係は、途端に変化してしまうものなのだと感慨深さもございます。
快方に向かうに伴って一つ一つの変化を眺めながら、これからの時間を大事にして参ります。

皆さんにはどんなお話に見えるでしょうか。
題名は「ショッピングモールの死闘」です。

子供の頃、挙動不審さと、独り言の多さが目立ち、一部の人から二重人格なのではないかと何度か疑われていた経験があるのですが、二重人格という訳ではなく、自分の中にもう一人の自分を作り出して会話をしていた時期が私にはございました。

二重人格なのではないかと人から言われる度に、自分はそうなのかなと思っていた時期もございましたが、記憶が無くなることや完全に自分と入れ替わる存在がいるわけではなかったので、どちらかと言うと一人芝居の感覚に近いものだったように思います。
大人になってからは、もう一人の自分に話しかける癖は無くなり、対話が無くなると同時にあくまで自分が作り出していただけだったのだと気付くことができました。

嫌なことがあったときや、落ち込んでいるときに、心の中にいた頼れるお姉さんが、いつも声をかけてくれました。
自分が作り出した存在であれば当たり前のことかもしれませんが、私が憧れとするお姉さん像に極めて近い人でございました。

そのお姉さんは物心ついたときにはすでにいたので、たとえ現実的に孤独であっても心細くはありませんでした。

思えばお姉さんとの会話が無くても生きていけるようになったのはいつ頃からだったのか、定かではありませんが、気が付いたら自然と心の中からいなくなっていて、今では稀に夢でしか会うことができません。
いつもの私の姿ではなく、お姉さんの視点で物語を体験する夢を、年に数回見ることがございます。

長髪でラフなスーツが似合うスマートな大人の女性像は、天然パーマでのんびりおっとりしている実際の私とはまるで違う、憧れの存在です。

大きなショッピングモール内で数人に追われている様子を見ながら、この自分とお姉さんの心がリンクしている、どこか懐かしい感覚に嬉しくなりました。
私は自分の動悸とは裏腹にお姉さんの心の冷静さが感じられて、追われているのに追い込まれていない状況が伝わって参りました。

広いスペースの真ん中に噴水がある広場にやってくると、フリフリのワンピースを着た大きなリボンの女の子と、その執事的な人物と対面しました。

女の子は拳銃をこちらに向けましたが、お姉さんは何も言わず、相手が引き金を引くのを待っていました。

何も言葉が交わされない中で、女の子が殺意を持っていること、お姉さんはそれを分かって打たせてあげる気持ちがあることが伝わって参りましたが、その光景を見ていた私は、なんとなく女の子が負けるような気がしてなりませんでした。

女の子とお姉さんは面識があるようでしたが、もはや女の子はお姉さんのよく知る人物ではなくなっていたようにも見えました。

一発の銃声が耳を劈いたとき、お姉さんは銃弾を吸収し、その場に倒れてみせました。
女の子はお姉さんがまだ死んでいないことを確認して、体を鎖につなぎ、拷問しようとしていました。
拷問開始の直前、お姉さんが強く念じると、一瞬で鎖が離れ、女の子と執事は消し飛びました。

私の憧れの人補正がそうさせているのでしょうか、お姉さんは相手に過度な同情をすることもなく、自分や自分の大事な人を傷つけてくる相手を一思いに切り捨てる強さを持っていて、私にはそれがすごく優しい人に見えていました。
傷ついたとき、もしくは傷つけられる前に、自分と自分の大切な人を守ってくれる人に信頼を寄せて、そんな人の傍にいたいという子供時代から、だんだん私自身がお姉さんのような人間になりたくて、時に相手を切り捨てる勇気を持つようになるにつれて、お姉さんとの接点は薄くなっていくものなのかもしれません。

戦いが一息ついたのち、軍服をした男性と遭遇しました。
ハガレンのヒューズ中佐によく似た人で、「なかなかやるな」という声が良すぎて、これは完全に私にとってのサービスシーンとなりました。

ショッピングモールの窓から、外の雪景色が見え、屋根を滑り降りていくと、いざかやの看板が見えました。
お化けたちが、お店をやっていて、人間のお客さんを快く思っているお化けさんと、人間なんて気に入らないというお化けさんたちの、雑談話を永遠聞き続けることになったのですが、居心地の悪くないお店でございました。

明らかに先ほどのショッピングモールのシリアスな場面が変わって、異なる風景の場所に飛ばされてきた感がございましたが、まだまだこの後もお話が続いてほしい、名残惜しい感覚で目が覚めてしまいました。

夢の中でしか会えない人に久しぶりに会うことが出来たからか、最近見た夢の中では、一番心に残る映像でございました。

自身が理想とする人物像に近づきたいという思いは、誰しもが持っているありきたりな感情かもしれませんが、私のように自分で作り出しているとはいえ、幼少期にずっと一緒にいたような感覚すらあるので、何かしらの霊的な存在が関与している場合もあるのかなと思わなくもございません。
それがもし何かに憑りつかれている類のものであったとしても、それはそれで良いかなとも思ってしまいます。
また一つ生きる活力をもらえたような気がしております。

次も見て頂けましたら、幸いでございます。

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