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切り絵【吸い取り紙】

B型作業所に通所が始まって、約5か月が経ちました。
様々な方に「もう慣れましたか?」と聞かれますが、その次に「仲の良い人などは出来ましたか?」と、よく聞かれます。

作業所の職員の方にも、地域活動支援センターの職員の方にも、今月に入って5人くらいの人に「話しやすい人や、仲良くなれそうな人、一緒に居て居心地の良い人は出来ましたか?」ということを聞かれました。

私が「出来ておりません」と答えると、「仲の良い人が欲しいという気持ち、人と積極的に交流したいという気持ちはありますか?」と聞かれるので、いつも正直に「今は人と交流したいとあまり思っておりません」とお伝えしております。

「困ったときに誰にも相談できない」や、作業や仕事をする上で「必要最低限の報連相ができない」などでなければ、特に人と積極的に交流しようとしなくても、そこは好き好きで良いと、言われたりもしますが、人によっては「他人に関心が無いのはどうしてなのかな?」「出来れば仲の良い人が作れるといいね」と心配して下さる方もいらっしゃいます。

人と積極的に交流したいと思っていない行動を日々とっている今の私は、他人に関心がないと思われて当然なのですが、実は、他人への関心がない瞬間なんておそらく無いと自分では思っております。

「空気を読む」という言葉がありますが、空気を読める人と読めない人がいるとするなら、空気を読めない人は、他人への関心が少ない、少なくとも空気を読める人よりは少ないと言えるのではないかと子供の頃感じておりました。
他人に関することへのアンテナがどれだけ立っているかというのは個人差があって、たくさんあっても、少なくても、どちらでも良いと思っております。

後天的に一つの処世術として、身につけたアンテナもあれば、生まれながらに、膨大なアンテナを備えている人もいるように思います。
ほぼ無意識的に、とても微細な部分まで他人を常に観察している人にとっては、対峙しただけでなんとなく相手の感情や意図が読めてしまうというようなこともよくあることだと思いますが、それは一般的な話ではないのかもしれません。
相手の心が読めるなんて、一見すると霊感やスピリチュアルな話のようで、明らかに怪訝な顔をする人もいれば、そんなことはあり得ないと信じられない人もいるかもしれません。

私は子供の頃から、他人をよく観察する子で「心の中を読まれている気がする」「すべてを見透かされている気がする」と、周囲の大人に不気味がられたり、怖がられたりすることがございました。

視界に入ったすべての人のことをよく観察していて、耳に入ってくる会話を聞き逃さない、どこにいてもどんな人の些細な情報も、ほぼ無意識的に吸収する、今思えば少し突出した能力だったかもしれません。

自分が他人の細部を観察しているということを、はっきり自覚できたのは、大人になってから、カウンセリングによってでございました。
発達障害の検査で、言葉の意味を理解する能力がとても低いことが分かったのですが、会話をしていて「相手の言っている意味がよくわからない」「コミュニケーションがうまくとれない」「相手の気持ちがわからない」ということがあるのではないかと心理士さんは仰いました。
結果から見ると、そういう傾向があるのに、逆になぜ「そうなっていないのか」ということも話して下さいました。

言語の理解力が低いとしても、観察力と状況察知の能力がとても高いために、低い項目を高い項目がカバーしている、すべての項目が相互に影響し合っていることが、凹凸を一見分かりにくくしているため、そこに発達障害の難しさがあるようにも思いました。

相手の発する言葉の意味を理解しているというのとは少し違い、相手の人物がどういう気持ちで私の前に立っていて、こういう感情で語りかけてきているということは、この言葉はこの人なりの配慮の言葉なのか、こちらに向けた暴言なのか、そして何を聞きたがっているのか、ということを読み取って質問の意図を汲んでいて、その上で、自分の意見の伝え方も、この人にはこういう言い方をすると伝わる、逆にこういう言い方には嫌悪感を抱くという傾向が分かるので、相手に合わせて伝え方も手段も変わっていきました。

言葉よりも意図を少々先読みしていることもあれば、嘘をついていることが分かってしまうこともあり、時にはこちらを貶めようとしている誘導の意図が含まれていたりするトラップ要素もあったりして、そんなとき、この人は関わってはいけない人だと感じます。

心という見えないもののことは基本的に分からなくて、分からないから、言葉で、気持ちや意志を伝えて生きるのが日常でございますが、必ずしも言葉の意味をそのまま受け取って良いときばかりではなく、中にはそもそも発言が軽はずみな人も、タブーな本音を言ってしまっている人も、よく嘘をつく人も、存在していて、言葉通りに受けとると振り回されてしまう人たちに、苦戦している人はたくさんいらっしゃるかもしれません。
逆にあまり本音を言葉にしない人たちからすれば、相手が本音を言っているということを信じられず、冗談と解釈しがちで、どれが本音なのか、誰を信じたら良いのか分かっていない状態で生きていて、その状態がどれだけ危険で、どれだけ騙されやすいかということを知らなかったりすることもあると、周囲の人を見て思ったことがございます。

「相手の言葉通りならば、伝わってくる感情とのつじつまが合わない」という違和感は、今でもよく感じますが、子供の頃はこの違和感が湧く度に「疲れる」と感じておりました。

「この人は私にこれを望んでいる」そんな思いに応えようと必死になることもあれば、辛い時、悲しい時、相手の痛みや苦しみがはっきりと分かってしまう私は、同じように苦しみ、痛みを味わい、一緒に泣くことはあっても、苦しんでいる人に必要なのは支援であり、相手を支えることができないなら、快方に向かわせてあげることはできないということを知ることもございました。

何も言葉にしていなくても心の中が苦しんでいる人を察知すると、私も勝手に同じ苦しみを感じてしまうので、そういった人を避けるようになったり、一見明るく周囲からの評判の良い人に、たくさんの嘘が見えると、その人を信じている人たちを見る度に暗い気持ちになることもございます。

評判の良い人を「良い人」だと信じ切っている人はたくさんいて、「本当はどんな人なのか」ということを見る能力が無い場合に、いわゆる「良い人」と思っていた人を好きになったり、結婚をしたりして、年数が経過してから実は「あまり良い人ではなかった」「思っていた人とは違った」という経験をした人が、私に「この人はあなたから見てどういう人に見える?」と、度々聞いてくるようになってしまったこともございました。
「人を見る目」に自信がなくなってしまった人が、私に相談をしてくることがよくあるのですが、私の見解は、そんな人たちの一つの基準になることがあるのかもしれません。

私はあくまで「吸い取り紙」のようなものなのかもしれないと、今では思っております。
「あの人のことどう思う?」「あの人と接してあなたはどう感じた?」という問いは、私が相手の色を吸収して、赤色に変化するか、青色に変化するかということを知りたがっているという構図に見えてきて、リトマス試験紙を思い出したので、そんな絵を描きました。

私は無口な性格なのですが、言葉を交わさずとも、通所している作業所の方々、地域活動支援センターの方々など、関わりを持っている人たちのことは、日々の会話や仕草、生活態度などをよく見ているので、知り尽くしている部分もございます。
だからこそ、私のような人間がいることを息苦しいと感じる人たちもいるので、こちらが観察していることを悟られないように、何も見ていない、聞いていないフリもだいぶ上達し、最近では私のことをよく知らない人からは、あまり人に関心がないという評価も受けるようになって参りました。

孤独になってしまうと、悪い環境や人に引っ張られやすく危機管理が心配されますが、良くない人を避けているので、トラブルなどに巻き込まれる心配はあまりなく、現時点では、人との交流に積極的でないくらいでちょうど良いと感じております。

出来れば、だんだん観察する能力が衰えていってくれたら良いと思っております。
大切な人を喜ばすことができたり、人の気持ちを分かってあげられる人間でよかったと思うこともあれば、知りたくもない人の本性や、表に出ていない負の気持ちが分かってしまう、苦しみの共有などの難点もございます。

一旦人との交流を少なめにして、人を観察することから離れる時間を多くしたら、他人への関心が少しずつ減っていくことを密かに期待している部分もあるのですが、もともと備わっている膨大なアンテナが何本か錆びてくれるだけでも少し生きやすくなるではないかと、思っております。

次もまた見て頂けましたら、幸いでございます。

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