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切り絵【クリーンエネルギー】

「絵、頑張ってね」と、最近声をかけられました。
ただの趣味で描いているだけの私とは違い、美術系の大学で絵を学んでいたというおばあちゃんがいらっしゃるのですが、大学時代にのめり込みすぎて疲れてしまい、今はもう絵を描くことが好きではないと、先日仰っていました。

一見いつも明るく見えるそのおばあちゃんですが、自身の過去を語るときは「人生、挫折ばかりよ」と、ため息交じりの話し方をしていました。
「自分は何をやっても、のめり込みすぎてしまう性格だから、ちょっとやりたいなと思っても、やらないようにしている」という話を、そのおばあちゃんだけではなく、いろいろな人から聞いたことがございました。

「あまりのめり込みすぎるのはよくない」「無理は良くない」ということを言っているように見えて、その方は、「自分はもっと頑張れたのではないか」という後悔を抱いているようにも見えました。
大きな失敗をしてしまっても、綺麗さっぱり忘れて、切り替えて生きていける人は、ポジティブで好まれますが、諦めが早い人もいれば、遅い人もいるのだと思います。
挫折してしまったことをずっと後悔しているということは、未だ諦めきれないというようにも見えるのですが、それだけ費やした時間だったり、労力だったり、頑張ってきたことが自分の中で大きいものならば、報われなかった悔しさも比例して大きなものになるのかもしれません。

「あまり無理しないでね」と言える人は、自分の中で一つやり切った感触がある余裕のある言葉のようにも見えますが、「頑張ってね」という人は、自らの後悔を吹き飛ばすための激励の言葉として口から次いで出てしまっているだけだったりするのかもしれません。

高校を卒業してもいない私には、大学で美術を習うなんてどんな感じなのだろうと、想像しかできないことでございますが、きっと楽しいことばかりではないのだろうなと、思ったり致します。
ただ絵を描くことが好きだから絵を描いているだけではいられなくなって、描きたくない絵を一生懸命描いているうちに、描きたかった絵を忘れてしまったり、人の感性に飲み込まれて自分の絵が嫌になったり、有名になりたい欲が出たり、私だったらそうなっていたかもしれないと思うこともございます。

生まれながらに絵の才能があって、小さい頃からそれを自覚して生きていたとしたら、美術系の大学に進学したいと思うこともあったかもしれませんが、私は小さい頃からそれほど絵が上手ではありませんでした。
絵を描くこと自体は好きでしたが、中学生くらいになっても、幼稚園の子が描くような絵を描いていましたし、高校生になっても棒人間に毛が生えたような絵を描くのがやっとでございました。

それでもコツコツ描いてきたせいか、30歳を超えた頃くらいから、ようやく少しは上達してきたようで、絵を褒めてもらえるようになって参りました。
昔は、才能がある訳でも、あまり上手な訳でもないのに、なぜ絵を描くのか、周囲の人に不思議に思われることもあったと思います。

私の場合は「生活に必要だったから」絵を描いていたのだろうと自分では思っております。
発達障害だからなのか、子供の頃、言葉を話すことに難があった私は、喋れない代わりに絵を描くことが多々ありました。
描いた絵を見せて、人に気持ちを伝えることもあれば、胸の内を誰にも話すことができない代わりに、絵に気持ちを吸ってもらっておりました。

もやもやしたときや、悲しい気持ちになったとき、絵を描くと、描き終わる頃には、心の中の暗い気持ちが紙に吸い取られて無くなってしまっていることを、幼い頃に発見しました。

仕事から帰ってきて、家に着いた瞬間や、恋人や家族に会うときなどの「幸せな気持ちになってストレスがスーッと無くなる」感覚、癒される感覚に近いものだったように思います。

昔、周囲の人にどれだけ「何でも話して」と言われても、話せなかった私は、話せるようになった今でも、人に話すことで楽になることは、実はあまりありません。
もやもやした気持ちは、こうして一方通行的に文章を書いたり、絵を描いて消化しております。
消化されて後ろ向きな気持ちが無くなると、自然に前向きなエネルギーが充電される感覚が好きで、つい絵を描いてしまうのかもしれません。

ネガティブな気持ちも、人に話すことで楽になるという人は多いのかもしれませんが、聞く側の人は、とても大変だろうと思います。
「そんなのはお互い様」だという思いもあるのですが、負の感情はとても重くて、その重さを許容できる量は、かなり個人差があるような気がしております。

自分の抱えている後ろ向きな考えや、もやもやした感情は、自分だから許容できているけど、目の前にいる人たち、自分の配偶者や友人、家族などが、そんな自分の抱えているものごと包容してくれるとは限らないこともあるように思います。
こちらが勇気を出して悩みを吐露したとしても、相手が共感してくれたり、受け止めてくれるためには、相手自身に余裕が必要でもあり、そもそも人の悩みに心を砕けるというのは、深い度量があるのではないかとも思います。

切り替えの早い人からしたら、いつもネガティブな人に対して「なんでそんなことをいつまでも引きずるのか」「嫌なことを考えなければいいのに」と切り替えられないことを、責めがちな態度を取ることがありますが、これは「自分は悩みたくない」「これ以上は悩めない」という許容量の限界という可能性もあるように思います。

普段から後ろ向きなことを考えがちな人からしたら、悩んでいることが当たり前で、そのことを本当に辛いと思っている人もいれば、少なからず、悩んでいることが好きで、ああでもないこうでもないと、うだうだしていることを心地よく感じている場合もあったりするように思います。

どれだけ悩めるかという、許容量は人それぞれで良いと思うのですが、悩むだけ悩んで自身で上手く発散できない人や、人に当たって解消しようとしてしまう人がいるとしたら、周囲の人に迷惑が掛かり、環境に優しくないエネルギーに変換しているようにも見えます。

先日、廃棄物から電気を作っているという会社の動画を見る機会があったのですが、レストランなどから廃棄された食品を肥料にしたり、エネルギーに変えることが出来るのだそうです。
環境問題にあまり詳しくない私は、近未来的だなぁと思いましたが、そんな会社や取り組みがこれからもっともっと増えていくのだろうと思いながら見ておりました。
私は何も携わってはおりませんが、そんなクリーンなエネルギーを、私も生み出しながら生きているのかもしれないと、少しだけ自分にも通ずるものがございました。
私が作れるのは、自分を動かすエネルギーだけですが、自分のエネルギーであっても、負の感情をポジティブなエネルギーへと変換することは、ゴミから電気を作ることと、少し似ているように感じました。

ネガティブな気持ちが増えすぎると、元気がなくなって、エネルギーの枯渇が起こるのは人類共通だからこそ、人によっては「悩まないようにする」「悩みぬく」「解決する」「人に任せる」など、消化発散させる方法を持っている人も、持っていない人もいると思いますが、自分のエネルギーを自分で作れることも大切なのかもしれません。

ゴミを埋め立てることも必要ですが、ゴミをエネルギーに変えることが出来るなら、それはより良い使い方なのだろうと思います。

私の絵が電気に変わることはありませんが、一人一人が自家発電するイメージと、動物たちがそれぞれ食べたものやゴミを電気に変えるため集まってくるみたいな絵を今回は描きました。

絵や芸術には、感情がこもっているように見えるのですが、もし、自らが重い感情を抱えていると感じたときは、芸術を始めどきなのかもしれません。
ときどき絵画の中に、共感というか「気持ち分かってくれた」と感じる絵があったりするのですが、そんな癒しもあれば、とても心が傷つく絵や「見てはいけないものを見てしまった」と感じるおぞましい絵もあったりします。

込めた感情はそれぞれですが、普段言葉のコミュニケーションを楽しむ多くの方々にも、たまには言葉なしのコミュニケーションを楽しむことも良いのではないかと、そんな人が増えてほしいなと密かに思っております。

また次も見て頂けましたら、幸いでございます。

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