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切り絵【親も子供も】

1月も半月が過ぎましたが、やっと神社にお参りに行くことが出来ました。
龍を祀っている近くの神社は、平日とは思えない行列で未だに賑わっておりましたが、その行列も日に日にだいぶ減って参りました。

多少並びましたが、お参りをして、去年同様、お守りを買いました。
去年は病気平癒の御利益か、みるみる体調が良くなった年となりました。
今年も健康のお守りにしようかどうか迷ったのですが、今年は復帰、再開の年としたい思いから、仕事運、技芸向上のお守りを買いました。

前の人たちが、二礼二拍一礼をしているのを見て、自分たちも同じようにやればいいんだと、自然に思うものですが、子供の頃、家族で参拝に来て、知的障害の妹と一緒にお参りをするとき、妹がいつもやり方がわからなくなってしまうので、私がいつも横で「礼をするんだよ」「ここで拍手だよ」と口で教えたりして、自分のお願い事を言いそびれるということがよくありました。
妹のことが気になって、作法をやるのに自分も必死で、肝心なことを何も言えず、お参りって何なんだろうと子供の頃は思っておりました。

毎年、母と妹と一緒に神社でお参りをしているのですが、今年もいつも通り3人でお参りに来ました。
今年32歳になる妹は、家事のエキスパートで、実家で母の代わりに家のことをやってくれています。
もっと上達したいと言うので、私と同じ技芸向上のお守りを買いました。
母のことが大好きで、ずっとママの面倒を見る!と介護を請け負ってくれる気満々のようです。
日々の成長を嬉しく思います。

あまりよく見たことが無かった神社の中には、龍の絵や彫り物の飾りがたくさん置かれていました。

大人になると目に見えてわかりやすい成長が少なくなるので、変わっていないように感じることもございますが、自分の生まれたばかりの時代を思い出すと物凄く変わったんだなと、改めて思います。
戻りたい時代は無いと思っている私には、幼かった頃を思い出すほどに、今ここにいる嬉しさが込みあげて参ります。

龍が、雲を突き抜け、天高く上へ上へと飛んでいく姿は、私には向上心や成長のイメージに映ります。
上へ行くときに、幼かった自分や、初心や原点も一緒に持っていってほしいという思いで絵を描きました。

生まれたばかりの頃は、誰にとっても初心だったり原点だったりすると思うので、忘れている人には思い出してもらいたい、次のステップに行こうとしている人には、忘れずに連れて行ってほしいと思います。
雲の上や天界にまで昇って、等身大の自分を思い出せなくなったとき、私のように原点が励みになることもあれば、あくまでも自分は、未熟で幼い人間でもあるという謙虚な気持ちを思い出す必要性もあるように思います。

大人になった自分が、生まれたばかりの頃の自分を持って、上へあがっていくという絵のつもりなので、親と子供という絵ではないのですが、お子さんがいらっしゃる方は、自分の子供を見て、昔の自分を思い出したりすることもきっとあるのだろうと思います。

昔の自分自身ではなくとも、自分の子供が自分に似ているから可愛いと思う気持ちは、自分を愛することにも繋がっていて、子供の前ではしっかりしないと、という親心は、子供がご自身の戒めとなってることもあるので、連れて行くのは自分の子供であっても良いのかもしれません。
親が子供を連れていくのは当たり前のことかもしれませんが、子供の成長は早く、いつかは巣立っていく子供たちですから、子供と自分を重ねてばかりはいられないとも思います。

生きている年数が少ないほど、過去を振り返る頻度は少ないと思うのですが、子供たちは、目の前の大人の背中や、前しか見ていないことも多く、そんな日々見ている光景が未来に希望を持てるかどうかに影響しているように思います。
自身の未来に希望が持てなければ、向上心は薄れていく傾向にありますが、子供であろうとも、幼かった自分を忘れずに、昨日より今日は一つ前進している意識を積み重ねて、大人になって欲しいと思っております。

個人的には、ゆりかごの赤ちゃんというのが、とても大事にされている、愛されている感じがあって、描いていてこそばゆかったです。
ここまで育ててもらって親に文句を言える立場ではございませんが、もし、自分が生まれたばかりの自分に会えたなら、自分で育てたくなってしまうかもと思います。
自分で自分を育てることができたら、経験しなくてよかった嫌なことを回避させることが出来たのかもとも思いますが、この親の元に生まれ、育ててもらうという人生は生まれた時点で決まっていることで、変えられないスタート地点から、いかに自分の好きな道をねじ込めるかという勝負なのだと思います。
スタート地点によっては、負け越すことが決まっていたり、かなり過酷な勝負をしなくてはならない人もいるかと思います。

親ガチャという言葉が生まれましたが、ガチャというよりは、一見、有利なスタート地点であっても、自分の望む人生を歩むということは、誰しもにとって大変なことだろうと思います。
苦労する人、しない人という差はあるかもしれませんが、それは、自分が生きたかった道を歩めたかという満足感や結果とは比例しない気もしております。
ガチャ性はあっても、どう変わっていくかわからないという点では、平等な部分もあるように思います。

たとえ苦労が多くても、病気になっても、障害があっても、良い人生だと私は思っております。
多くの人にとって、辰年らしい飛躍の年になればいいなと思っております。

また次も見て頂けましたら、幸いでございます。

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