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夢切り絵【滅びゆく世界で】

少しお久しぶりとなる投稿でございます。
1週間前に、B型作業所に通所する生活が始まりました。

私が高校を中退後、約13年行っていたマッサージのお仕事は、業務委託契約でございました。
働き始めて2~3年ほどは、その契約の意味がよくわかっておらず、就職したつもりでおりましたが、周囲の人の話を聞いたり、働く年数が経つほどに、私にもだんだん理解できるようになって参りました。

自営業に近い形態は、一般的に就職とは言わず、社会保障においては恩恵をあまり受けられないということを働きながら知ることになりましたが、そもそも規則的な勤務ができない私には正社員という選択肢はなかったということにも、働きながら気付くこととなりました。
正社員を目指そうと、出世しようと、躍起になっていた時期もございましたが、叶わなくとも、私が13年も一つの仕事を続けることが出来たということを、大事に思うことに今はしております。

自分で出勤日を決めて、働く時間を決めて、私がすることは、お客様をお出迎えして、ご案内して、マッサージをして、お話をして、会計をして、お見送りをする、だけでございました。
一日に何人のお客様を対応したかで、報酬額が変動し、季節によっても、お店の客層によっても、自分が働く時間によっても、頂けるお金が変わってくるのが当然のことでございました。

正社員のように、拘束時間が決められている訳でも、固定給が頂ける訳でもありませんが、どのように働くかを自身で決めることができるということが、私の気持ちを楽にしていたと同時に、ある時からオーバーワークを引き起こした要因でもあったように思います。

労働者ではない業務委託契約では、13時間労働や、半年間無欠の生活や、遠くの店舗への早朝出勤などが可能であるがために、自ら積極的に願い出ていた時期もございました。
そんな自分の体力を過信した生活が数年続いたことが病気の引き金の一つとなりましたが、逆に週5日で8時間勤務という規則的な就労を私は今までしたことがありませんでした。

今回、B型作業所の利用をするのは、初めてのことでございます。
規則的な就労の訓練をすることができる場所なのだそうです。

この1週間は、緊張と生活リズムが少しだけ変わったことでの疲れが出ていたように思います。

通所日はまだ数日でございますが、学校への適応が難しかった私が、集団行動に前向きになっている今の自分には、初めて出会っているような気が致します。

力みすぎず、これからの生活と、私の働き方やお仕事が少しずつ向上していくことを、今は静観していければと思っております。

見た夢を切り絵にしました、4枚目でございます。
皆さんにはどんなお話に見えるでしょうか。

題名は「滅びゆく世界で」です。

私は不注意なことが多く、何かにぶつかったり、転倒しやすい面があるので、お医者さんにも自転車に乗ることを止められていた時期がございまして、現在も乗らずに生活をしているのですが、夢の中だけは難なく自転車に乗れている自分を体験できております。
現実とは違い、とても上手に自転車に乗ることが出来ていると、まるで自分の体ではないような解離した感覚をいつも感じます。

障害物のない広い道を、悠々とこいでおりましたが、空には奇妙な雲が浮かんでおり、吹いている風がなんとも気持ちの悪いもので、周囲には人影一つ見つかりません。

本来なら美しいと感じるであろう広大な大地に、綺麗なものは何もなく、重い風が体に纏わりつく初めての感覚には、もしかしたら、この世界は滅びたのかも、もしくはこの場所は地球ではないのかもと、思わせる空気がございました。

私はここで、どうやって生きていこうかと、考えあぐね、そのうち食料を得なければと思い、近くにあったスーパーのような建物内に入りました。
中にはお店の人も、お客さんも、誰もいませんでした。

よく見るスーパーの陳列棚の中に、たくさんの食料が商品として並べられておりましたが、無人で、そもそもこの世界に他に人はいるのか、という答えが見つからないまま、私は簡単に食べれそうなものをいくつか、そのままもらうことにしました。

スーパーを後にし、道なりに進んでいくと、シェルター?のような場所を見つけました。
洞窟のようなものに見えましたが、中に入ると、とてもスペースがあり、そこにはたくさんの人がいて、明かりが焚かれ、床には絨毯のような?毛布のような?ものがたくさん丸まっていたようでした。

こんなに多くの人がいたことに安堵する気持ちもありながら、外には人影一つ見当たらないのならば、やはりここはシェルター的な場所で、なんらかの理由で避難をしているということなのでしょうか。
この世界の謎は分からないまま、シェルター内を歩き回っていると、多くの人たちの中に、私の妹を発見しました。

知的障害の妹は、母親といつも一緒にいるはずなのですが、両親が見当たらず一人でここにいたかと思うと、私は、この世界が荒廃している危機感をこの時強く感じました。
「何としてもこの子を守らなければ」と、私はやるべきことを見つけました。

私たちの両親はどこにいるのだろうかと、妹を連れ、シェルター内を探していると、高校時代に一番仲の良かった友達の顔がそこにいました。

久しぶりすぎて思わず、お互いに「久しぶり!」と言いました。

高校生の頃、90kgほどの体重があったその友達は、とても体が大きく、一度座るとなかなか動きたがらない人だったので、クッションの上でくつろいでいる姿を見て「変わってないなぁ」としみじみ思い、私は懐かしさを感じました。

もう何年も連絡とっておりませんでしたが、夢に出てきてくれて、久しぶりにお話が出来て率直に嬉しかったです。

シェルター内に両親の姿がないことが分かると、私は妹を連れて、両親を探しに、シェルターの外に行こうとしておりました。
本当に外の世界が危険だという感覚があれば、この場所を出ていく気にはならないのかもしれませんが、私には、なぜここにいる人たちはこの場所に避難してきたのか、なぜ外に出ていかないのか、その理由は分からずじまいでございました。

友達に「一緒に行く?」と聞くと、「やだぁーめんどくさいー」という返事があり、いかにも彼女らしい言葉に笑ってしまいました。

友達と話している間に、妹がうとうとして、眠ってしまったようです。

本来なら、私よりも体重が重い妹を、私が軽々持ち上げられる訳はないのですが、なぜか、ヒョイっと抱っこすることができました。

妹を抱っこしながら、シェルターを出て、歩き続けると、商店街のような、お店の密集地が見えてきますが、どこもシャッターが閉まっておりました。

やはり人が全くいません。
無人のお店と建物だけが取り残され、この世界に何が起きたのでしょうか。

何も分からないまま、妹を持ち上げる腕がだんだんと疲れてきました。

この子をどこか安全な場所で寝かせたいと思うあまり、ずっと歩き続けます。
この子を降ろす訳にはいかないと、強く強く思いながら、腕と脚の感覚が薄れてきたところで、目が覚めてしまいました。

知的障害に限らない事でございますが、障害を持っているお子さんがいらっしゃるご両親は、健常のお子さんを育てている親御さんよりも「この子は自分がいないと生きていけない」という子育てへのプレッシャーを重く感じてしまうことが多いのではないかと思います。
私たちの母親も、妹の障害が分かったとき、自分の人生をこの子に捧げるつもりで生きていく決意や、この子が死ぬまで私も死ねない、というような思いをよく口にしておりました。

親御さんはもちろんかもしれませんが、私は姉として、子供の頃、母と似たような思いを抱いておりました。
母が人生を費やすのなら、私も妹を守っていく人生なのだと、母亡き後は、私が引き継いでずっと守っていかなければと、背負い込む気持ちを共有していたような気が致します。

そこまで気負いながらも、必ずしも、重いと感じることばかりではなく、妹の存在は、家庭の明るさそのものでございました。
年をとっても、あどけなさ、可愛らしさが失われることはなく、いつまでも家族の中では、太陽のような子でございます。

私と母は、昔のように、自分たちだけで背負い込むことは、今はもうございません。

あまり関わりのない人から見れば、妹はずっと変わらないように見える部分もございますが、ゆっくりと成長し、ご飯を作ったり、洗濯物を畳んだり、掃除をしたり、買い物に行ったり、少しずつ自分のことが自分で出来るようになってきております。

31歳になりましたが、気が付いたら随分と自立していて、子ども扱いを嫌がるようにもなり、立派な大人になっているように思います。
そんな姿が、私たちが人生をかけて守らずとも、自分の力で十分に成長して生きていけるという本来当たり前のことを思い出させ、私たちの心配が杞憂であると、言ってくれているように日々感じております。
最近は、母が「私の方が子離れしなくては」と、言うようになりました。

私は母親ではございませんが、子供を持つ母親のような気持ちで、長年姉をやってきましたので、そんな経験が今回の夢を見せてくれたのでしょうか。

また次も見て頂けましたら、幸いでございます。

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