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世界一応援しあえるふたりになってきました

カバー写真はちょうど10年前、4泊5日で黒部五郎岳に行って下山した時に撮ったもの。5日間山にいてお風呂にも入ってない!けどそんなことは感じさせない、すごく達成感に満ちて清々しい仲良しの写真。こんな感じでSNSでよくダンナ選手や家族の写真をアップしてるので、ほんと仲良し家族よね!とか、咲ちゃんみたいな元気なママが家にいたらいいのになあ!とか、だんな選手の包容力すごくない?とか、そんなコメントをいただくことがある。

そう、確かに、仲がいいと思う。特に今、この10年前の写真の時よりも、きっと一番仲がいい。でも、いろいろあっての今、なんです。
そのいろいろをどうやって2人で越えてきたのか、一度記事にしてみようと思って赤裸々に書いてみます(ダンナ選手がこの記事を見たらひっくり返るかもしれない、ごめん)

同棲期 地獄の無職期間

彼と付き合い始めたのは大学を卒業する直前の2008年2月頃。
お互い新卒で入った会社の勤務地が東京で、彼は会社の寮からよりも私の家からのほうが会社に近かったので、ほどなくして一緒に暮らすように。
私は入社してすぐは仕事が楽しくて楽しくて、ほとんどずっと会社にいて仕事ばっかりしてた。一方の彼は、最初に入った会社が古き良き日本のメーカーで、全くカルチャーフィットせず、1年もたたず転職。そのあとも2社目、3社目、とそれぞれ1年も続かなくて、社会人3年目なのに3社経験。京大理学部出てぐちゃぐちゃの履歴書になって、3社目を退職した後、ぜんぜん転職先が決まらずそこから地獄の無職期間が始まる。

昼間はテレビで水戸黄門ずっと見てたり、スーパーのチラシを比べてちょっとでも安いところに買い物に行くような生活をする彼。
ちなみに私もこの時、会社の人間関係にめちゃくちゃ苦労していて、2人してそれぞれ地獄を見ていた。毎日「嫌だったらすぐ帰ってきていいよ」と彼に言ってもらって駅の近くまで見送ってもらって会社に行っていた。この時彼の存在が大きな支えだったことは間違いない。

彼の方は、転職活動してみるものの書類で落ちまくり、なかなか面接で見てもらえない。
友人に彼のことを話すとたいがいみんなこう言った。
「なんでそんなやつと一緒にいるの?別れちゃいなよ」って。
ある人には、
「行動しないのに一緒に暮らしてるなんて、彼はあなたのことを愛してないも同じ。愛していたらすぐ仕事を見つけてあなたのために行動するでしょう」
こんなクっっっっソみたいなアドバイスを受けたこともある(まじでぶん殴りたい)。

違うんだって、なんでみんな分からないの?
彼はこんなに才能にあふれてる。
飽きっぽいからこそ好奇心の幅が広い。
これと決めたことに対してはものすごく深く追求して本質的に思考できる。
決して饒舌なタイプではないけど遊び心があって、時々話すたった一言で相手を笑わせたり感動させられる。
会えばすぐにわかること。会ってもないくせに、ぐちゃぐちゃの履歴書といまの輪切りの失業状態で人間を評価する人たち、心が濁ってるよ。

と、付き合ってるからとか好きだからとかを超えて、人の本質を無視する社会に対してわたしは強い怒りを持ってた。

でも怒っていても出口は見えない。だからこそわたしたちは、山を登りながらとか、公園でバドミントンしながらとか、ことあるごとに、これからどうしたいのか?を何度も問い続けて一緒に言葉にしていった。

その後、意外とリクルート合うんじゃない?ってなって、当時3年限定の契約社員のポジションでたくさん採用していたのでたくさん受けて、内定をいただいて、10ヶ月の無職期間はやっと終わった。

内定をもらったのはじゃらんの営業の仕事で、福島県郡山市で働くポジション。当時拠点長が仙台にいたので、仙台で最終面接をしてその場で合格と聞いて、帰宅後、おみやげに買って帰ってくれた牛タン弁当を泣きながら食べた。

私も私で苦労していたし、文字通り出口の見えないトンネルにいるような日々だったけど、このプロセスがあったからこそ、この先どんなに苦しくてもこの人となら越えていきたいと確信したようにも思う。

新婚期 突然の遠距離婚

郡山への赴任はなんと、2011年の3月14日からを予定していて。
東日本大震災が起きた3月11日は、まだ東京にいて引っ越しの準備なんかをしていて、彼は福島にはいなかったのだけど、東北の拠点は新人を受け入れる余裕もなくなり、3月末までは自宅待機、そのあと4月から東京の本社に出社することに。
そうこうしているうちに、4月中旬ごろ彼は上司に呼び出され、こんな展開になる。

「木村、異動だ。福岡に行ってくれ。
お前、彼女と一緒に住んでるんだろ?
郡山ならまだ近かったけど、福岡だと飛行機代なんかも大変になる。
いま先に結婚してしまえば単身赴任扱いにできて、飛行機代とか色々会社持ちになるよ。
無職の期間も長かったし、少し落ち着いてからと思ってるかもしれないけど、いま先に籍入れたらどうだ?
単身赴任の申請の関係があるから、このタイミングで結婚するなら10日以内に決めてほしい」

みたいなことを上司に言われたと(上司ナイスwww)

そうして、両親に直接会いに行く暇もなく、電話で「結婚するわ!」と報告をしてわたしたちはクイックに夫婦になった。

新婚なのに遠距離婚。すごく寂しかったから、毎週末東京か福岡で集合して一緒に過ごした。ダンナ選手は飛行機乗りすぎてJALのダイアモンド会員になるくらい。

寂しかったけど、それぞれお互い仕事をすごく楽しんだ時期でもあった。お互いのやるべきことにまっすぐに向き合った時期でもあり、このとき頑張った仕事は彼にとっても私にとってもそれぞれ今の自分を助けてくれる大きな糧になった。

出産後 何度も爆発する私

遠距離婚から約4年を経て彼の東京への異動が決まりやっと一緒に暮らせるようになって、1人目の子どもを授かった。ずっと子どもが欲しかったからすごく嬉しかったけど、ここからまた夫婦の関係性は少し変わってくる。

産後、なぜだかダンナ選手がいつもいつもイライラしているように私には見えた。なんでそんなに怒ってるの?優しかった彼はどこに行っちゃったの?と思ってた。

いま冷静に考えると、多分、ずっと怒っていたのは私だったんじゃないかと思う。毎日朝5時前に起きて終わってない仕事をこなして、家事もやって、いいお母さんにならなきゃって毎日必死。助けてほしいと言えばいいのに言えない。別人になってしまったのは彼ではなくて、私の方だったんじゃないかと今は思う。

でもそんなふうに冷静には考えられなくて、情緒不安定で何度も爆発している。特に大きな爆発は2回。

1回目は、夫婦で行った鰻屋で。
産後、2人だけで話せる時間が減ったから、あえてちゃんと時間をつくろうと、子どもが保育園に行っている間、月1回、平日の仕事の合間にランチに行くことにしていて、その日は鰻屋さんを予約してあった。美味しいもの食べにいこう!と出かけたはずの鰻屋で感情が溢れて、号泣。

2回目はもっと酷くて、帰省中だったダンナの実家から、当時2歳0歳の子どもたちを連れて1人で新幹線で逃走。自宅からの家出なら夫婦間で完結するけど、義父にも事情を話して巻き込んだもんだから本当にタチが悪いというか本当に申し訳なかったと思うけど、止められなかった。朝5時くらいから義実家で荷物をまとめ始め、お義父さんにごめんなさい先に帰りますと挨拶をして、まだ話も通じない2歳0歳を連れて新幹線で東京まで帰った。ダンナ選手は車で追いかけてきてくれたけど相手にせずにその日は東京のホテルで一泊して、翌朝迎えにきてもらって帰宅した・・・という出来事。

日々少しずつ話して発散していればこんな大爆発には至らないはずなのに、とにかく当時の私は、ダンナがイライラしているように「見えている」から、本音を言ったら怒られるんじゃないかっていつも勝手に怯えていた。夕方ご飯を炊いてほしいとか、美容院に行きたいから子どもを見ててほしいとか、そんなような本当に小さなことだったと思うのだけど、言えなかった。

でもそうして何度も爆発してぶつかって、その度に本当はこうしたかった、という話をして、ちゃんと受け取ってもらった。
「本音を言ったら相手を怒らせる」
「自分のやりたいことより家族のことを優先しないといけない」
という思い込みが私の中に確かに存在していたけれど、こういうぶつかり合いを通して、なんだ、本当のことを言っても大丈夫だ、と思えるようになっていった。

ついでに、この爆発期の終盤頃に、幸福学で有名な前野隆司さんの記事をたまたま読んだことも、そういう思い込みを取っ払う大きなきっかけになった。

親自身が自分の幸せを追求してほしい。「子どものことを思えば、そんな勝手なことはできない」と考える人もいるかもしれません。でも、それは勝手なことなどではありません。むしろ、親自身が自分の幸せを追求することこそが子どものためになるのです。両親がしっかりコミュニケーションを取って幸せなカップルでいられたら、そんな両親の背中を見て育った子どもは、「自分もお父さんやお母さんみたいな家庭を築こう」と思うはずです。

前野隆司さんのコラム
「『子どもは宝物だ』という思考が危うい訳。子を思うなら親は“自らの幸せ”を追求すべき」
より

わたしは自分自身、とっても平和な家庭で育って、大人になったらお母さんみたいな女性になりたいしお父さんみたいな人と結婚したいと思って生きてきた。うちのお母さんとお父さんだっていろんなことがあったとは思うけど、それぞれ自分の人生を謳歌していて、夫婦で喧嘩するようなところはほとんど見たことがない。わたしも自分の子どもたちが大人になって大好きな人と一緒になったとき胸を張って幸せに暮らせるように、ギフトを渡したい。そのために今、自分の人生を楽しんでもいいんだ!と、この記事を読んで思ったこともすごくよく覚えている。

いま 世界一応援し合える関係へ

そんなこんなを経て、2022年は、私にとっては14年働いた会社を辞めて独立した上にピアニストを目指すという大きすぎる方向転換の年になった。

このキャリアチェンジにあたっても、ダンナ選手とは何度も何度も話をした。独立しても家計はちゃんと成り立つか、月ごとの売上とコストをシミュレーションしてみたり、1人で決めて報告するんじゃなくてチームなんだから相談してほしいとリクエストをもらって反省したりもした。

いま、私にはピアニストになりたいという夢があって、ダンナ選手もチェロや山やいろんな好きなことがあって、お互いにその好きなことをしてる時間を大事にしてほしいと思い合えているし、お互いの夢を一緒に見ていると思う。相手の人生が輝いたものであってほしいと世界で一番応援し合えていると思う。

本当にいろんなことがあったけど、どんな形であれ、率直に本音を伝えること、そのための時間をつくることだけはずっと積み重ねてきて、今がある(頻繁に爆発してるから常に理想の対話とは言えないけど)。

私たちの場合、

  • 山を歩く

  • 特別なお店で食事

  • 演奏会に行く

  • 一緒に楽器の練習

こういう時間が特に大切。山歩きは雑音のない自然の中で沈黙と対話を繰り返す時間だし、食事しながら同じような時間を過ごせる特別なお店もいくつかある。演奏会で感動を共有するとオープンマインドで話せる気がするし、楽器の練習は二人にとっての大切なプロジェクト。

別々の個性と別々の使命を持った人間同士が一緒に暮らすということだけでも奇跡的なこと。別々に暮らしたっていいのに、それでも毎日一緒にいることを選んでいる。その意味は私にとってはダンナ選手がやっぱり世界一応援し合える相手だからだし、この人がいればどんなに苦しいことも一緒に越えていけると思うから。

仕事と家庭とどっちが大事??という二元論の中にいる人には、その発想から離れてほしい。どっちも大事に決まってる。人生は全取り。徹底的に欲張りになっていい。

でもどうやって?と思う人へ。こうして悩みながらも最高のチームを目指してトライアンドエラーを繰り返してきた個人として、またプロコーチとして、最高のパートナーシップを築くための情報発信をこれからしていこうと思っています。興味ある人はぜひ、コンタクトください!

毎年必ず撮ってる家族写真。今年10月に撮ったもの。
だんだんいいチーム感が出てきた!

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