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子供のころは嫌いな食べ物がたくさんあった

 幼稚園のとき、お弁当の時間も給食の時間も、食べきれずにいつまでも口をもごもごさせている子供。それが私だった。
 同級生たちはとっとと食べて園庭で遊んでいるのに、私ばかりが居残りさせられて、休み時間の間中、大人からしたらちょっとしか量のないご飯を食べていた。全て食べ終わるのは休み時間が終わったあとで、やっと空になった牛乳瓶を、廊下の牛乳瓶の箱に置きに行くのはいつも一人だった。カチャン、と鳴る瓶の音が虚しかった。
 それが表すように、私は食べるのが非常に遅い子供だった。

 小学校に上がっても変わらず、私は食べるのが遅かった。幼稚園とは違い、一年生のときから先生は暴力ありの厳しい担任教師で、私は事あるごとに殴られていた。
 その先生が考えた「私の○○鬼を退治します」という企画が地獄だった。自分の欠点を発表するという内容で、まだ小学一年生なんて自分を客観視できない年齢なのに、先生は息巻いて誰かが挙手をして発表するのを待っていた。しかし誰も手を挙げない。
 しびれを切らした先生は、私を指さしこう言った。
「あんたはのろま鬼やろが!」
 衝撃の瞬間だった。今でも思い出せる。深く傷つくと同時に、そうか、わたしはのろまなのか、と思った。
 その先生とは中学高校でも年賀状をやり取りしていたが、なぜそんなことをしていたかが意味不明なくらいひどいことを言われたりされたりしたものだ。

 私は偏食もひどかった。肉も駄目、魚も駄目、野菜も駄目、チーズも駄目、納豆も駄目で、件の先生には「あんたは一体何ば食べられるとね!」と怒鳴られる始末だった。
 でも家では平気で肉も魚も野菜も食べていた。要は給食の低予算で出される食べ物が口に合わなかったのである。家で出る煮魚は目玉まで舐めるくらい好きだったし、よく出る牛肉は柔らかくてジューシーだった。それが給食では出ないのである。地獄だった。

 そのころは嫌いな給食がたくさんあったが、特に嫌いな食べ物がある。ほうれん草の白和えである。これが肉や野菜を押しのけてメインであるがごとくの量で出てくるときは辛かった。何だかよくわからないはっきりしない味に、何だかよくわからないはっきりしない食感。気持ちの悪い食べ物である。
 ほうれん草は昔から大好きである。バターでコーンと共に炒めたもの、醤油でおひたしにしたもの、ほうれん草に関しては好きな料理がたくさんある。
 ついでに言うと味噌は基本合わせ味噌で、赤味噌はけっこう好きだったので、白味噌が駄目だったような気がする。それがほうれん草のはっきりしない食感と味と合わさって、私からしたら最悪の食べ物となってしまったのである。

 給食を残してはいかない文化の中、小学校生活を送った私は、いつの間にか食べるのがかなり早くなっていた。
 私が六年生のときに特別支援学級の担任になっていた件の先生だが、私が普通学級との交流として特別支援学級の児童と食事を共にする当番のときに、彼女は私の食べっぷりを見た。先生はにっこり笑ってこう言った。
「早く食べらるーごとなったやんね」
 私は笑い返し、なぜか誇らしく思えた。今となっては食べるのが遅かろうが早かろうがよく、食べたくないものや無理なものは食べなくていいと思うのだが、先生に認められることが唯一の最適解であった子供時代は、なぜかいいことのように思えたのだ。

 今、私は食事を十分で終わらせる。好き嫌いもない。あるとしたらほうれん草の白和えだけ。これだけが絶対に駄目で、あとは何でも食べられる。近年話題のコオロギ食もある程度平気でできるだろうし、姿のままの昆虫食も覚悟があれば可能だろう。私は何でも食べる女だ。

 しかし、なぜだか寂しいのだ。精一杯のペースでゆっくりと食べていたあのころ、繊細に選り好みし、嫌いなものを食べられなかったあの頃。あのナイーブさや神経の尖った感覚を忘れた今は、子供時代を失ったも同然に思えるのである。

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