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小説:初恋×初恋(その3)


第二章 バス停


 九時五十分。私は大通りに面したバス停のベンチから立ち上がり小さく手を振った。相川さんの運転する白いSUVが私の横で停まった。昨日のスーツ姿とは違いラフな格好で、スタバで見た時よりも幾分若く見えた。そして私の隣に置いてあったキャリーバックを持ち「昨日は何処に泊まったんだ」と聞いた。私は「ビジネスホテル」と答えた。
「来ると思ったよ」と相川さんは言った。
「約束の時間の十分前ね」と私は言った。


 相川さんは私を助手席に座らせ、荷物をリアシートに詰め込み、運転席に乗り込んだ。車の中は整然としていて余計な物は何もなかった。振り向くと、私の真っ赤なキャリーバックの横に相川さんのボストンバックが並んでいた。それは黒くて大きな年季の入ったボストンバックなんだけど、二つ並ぶと妙にちぐはぐで、客観的に見た今の私達なのかもしれないと思った。

「運転、代わりましょうか?」と私は聞いた。相川さんは「まだいい」と言った。車は静かに動き出した。バス停がサイドミラーの中で小さくなり、やがて消えていった。始まったんだと思った。行き先のわからない旅が。お金で買われた私は何か大切なものをあのバス停に置き去りにしてきた気がした。そして二度と同じ場所には戻れない。それでも後悔はなかった。昨日から誰かに背中を押され続けている。そんな気がしていた。


 車はしばらくの間、市街地の中の大きな国道を走った。相川さんの運転はとても丁寧だった。信号で急停車する事も急発進する事もなかった。人柄が出ているのだと思った。心の表面のもう一枚奥にある二番目の心。人は色んな顔を持つ。本当はどんな人なのだろう?私は前を見続けた。顔を見ても心が透けて見える訳ではない。そう思っていると車はゆっくりと減速し、ガソリンスタンドに入って行った。
 給油が始まると、窓を拭くスタッフのお兄さんから私達のバックをじろじろと見られている気がした。このお兄さんは私達の事をどう思っているのだろう。まさか私が昨日知り合ったばかりの男と行き先の解らない車に乗っているなんて夢にも思わないだろう。歳の離れたカップル?もしかして愛人?もしくは歳の近い親子?
「私達って、どう見えるのかしら?」と私は相川さんに聞いてみた。相川さんは私の顔をじっと見て「外から中は見えない」と乾いた声で言った。私は自分の置かれている立場を突き付けられた気がして、助手席の窓に映る買われた自分の顔をずっと見ていた。

 給油が終わると、相川さんの運転する車は海の方に向かった。そして都市高速道路の北天神ランプを一気に駆け上がり料金所を抜けると、右方向に進路を取った。左手に玄界灘。右手には天神の街並み。センセイとよくドライブした私の好きな風景。でも相川さんは、あれからずっと黙ったままだ。心が二つに分かれて何処かへ行ってしまったみたいに。誰かと一緒に居て独りだと感じる事なんて初めてだ。一人に慣れてしまった昨日までよりも孤独。それでも馴れ合いの中で私はいつも孤独だったのかもしれない。相川さんの運転する車は、最初の分岐点を右に曲がり、しばらく走ると左手に福岡空港が見えた。

「飛行機」私は離陸しようとする飛行機に向かってつぶやいてみた。相川さんは無反応だった。「未だに乗った事が無いんですよね」と更に言った。やっぱり無反応だ。私は今までの人生の事を思った。埼玉の田舎で産まれた。親の事情で父親の実家である福岡市に引っ越してきた。物心着いた時は福岡の記憶しかなかった。賑やかな商店街で育った。近所の人が皆、知り合いだった。地元の中学、高校に進んだ。高校一年生の時両親が亡くなった。交通事故だった。私だけが助かった。そして兄弟の居ない私は一人、祖母に引き取られた。決して裕福ではなかったけど、大学に進学出来ないほどではなかった。進学を期に、祖母の家をシェアハウスに改築した。そして私は改装された部屋の一室に住んだ。祖母がやるハウスの管理の手伝いをずっとしていたから、旅行に行く、などという事は一度しかなかった。真っ赤なキャリーバックの中はそれ以来ずっと空のままだった。大学は歩いて五分の所にあった。狭い世界を繰り返し生きて来た。それが私の二十五年間の全てだった。


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