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短編小説:定点観測(朝霧)

長い通勤電車生活の中で一度だけ、乗り合わせた女の子とデートをしたことがある。
もう忘れそうなくらい昔の話だ。

彼女は僕が電車の中程で吊り革に捕まっていると、途中の駅から乗車してきた。
きっと始まりはあるんだろうけど、いつからなのかはわからない(寒かったから冬だと思う)。
朝のぼんやりとした頭でいると、明確な線が引きづらいんだ。
でもいつしか意識するようになり、楽しみになった。

それはひとえに彼女の顔が美しかったからではあるけれど、もう一つ、吊り革を握る手が魅力的だったからだ。

その手はいつも軽く握られ、電車の速度が急に変化すると強く握られた。
その度に浮かび上がる握り拳のツヤツヤした角質に僕は見惚れていた。

いつからか、彼女は通勤カバンとは別にもう一つ花柄の紙袋を持つようになった。
その柄は都度変化したけど、一貫して花柄だった。
彼女はカバンを肩からかけ、花柄の紙袋を手に下げ、もう片方の手で吊り革を握った。
それと前後して、彼女は僕と同じ駅で下車するようになった。
駅の出口も同じだった。

僕はいつも彼女の後ろを歩いた。
後から乗ってくる彼女の方が先に出るだけの話だけど、僕の目のやり場はもっぱらその紙袋だった。
最初は彼女の細い足首やそこからなだらかに隆起するふくらはぎに目がいったけれど(と言うか釘付けだった)人の目もあるので、その紙袋に落ち着いたのである。

美しい女性を毎日見る事はひとつの喜びである。
彼女はいつもワンピースを着ていた。
ベルトも毎日変化したけど(細いタイプや幅広のタイプのものだ)彼女の細さを表現するのにはどれも十分だった。
そして綺麗な手と引き締まった脚を所有しており優雅にリズミカルに動かしていた。
それは朝のショータイムで、霧のように消えたけど、次の日にはちゃんとやってきた。

とは言え当時の僕は、大きなプロジェクトを抱えていて、朝霧が消え現実が始まると、時間のほとんどを仕事に費やしていた。
転職して初めて任された仕事だったし、楽しさもやりがいもあった。
プライベートも充実していた。
仕事が終わると仲の良い同僚や古い友人と飲みに行った。
仕事を通して何人かの女の子とも知り合いにもなった。
ショールームの女の子や居酒屋の女の子、入社前に受けた結構診断で知り合った女の子(彼女はダンサー志望だった)。
当時、必死に生きているつもりだったけど平和だったのである。
冷静に振り返ってみると。

ある日の昼休み。
公園の近くで日向ぼっこをしていると、電車の彼女を見かけた。
季節は春。
彼女はベンチに座り気持ちよさそうに青い空に向かって白い煙を吐いていた。
その姿は眩しく、細い指に挟まれたたばこは特別にしつらえた白い筒に見えた。
彼女の唇から吐き出された甘い息はやがて消えていった。
細い指はどこまでも細かった。
青い空にくっきりと映えた。

その日の夜、飲み会の帰り道、駅のホームで彼女を見かけた。
夜、彼女を見るのは初めてだった。
遅い時間だったし周りに人は居なかった。
僕は彼女の隣に立った。
「公園で吸うたばこは美味しかった?」と僕は話しかけた。
酔っていたせいなのか緊張はしなかった。
彼女も少し酔っているらしくうっとりとした目をしていた。
そして
「あの公園に居たんだ」と言って上目づかいに僕を見て小さく笑った。
初めて笑顔を見た。
通勤途中の無表情の表情しか知らなかった僕は不思議なくらい心打たれた。初恋のようにときめいた。
それは魔法のように美しかったんだ。


~機会というものは必ず巡ってくる。その時の為に準備を怠ってはならない~
これは今まで生きてきた中で得た教訓のひとつだ。
でも僕は何の準備もせずにその機会を得て成功した。
運が良かった、と言えばそれまでだけど声をかけた事が全てだとも言える。今の状態を維持するために何も言わずやり過ごす事だって出来た。
これまでの僕のように。

それから僕達は電車の中で少しずつ話すようになった。
彼女は金融関係の会社に派遣で通っていた。
職場は割と近くだった(いつも僕が先に職場に到着してしまいその後の彼女の行先は謎だった)人の目があるからと駅を降りてから話す事はなかったけど、それでも電車の中の僅かな会話で食事の約束を取り付けた。


数日後、僕たちは世界のビールが飲める店でスペアリブをほおばりながら、ハイネケンとバドワイザーを飲んでいた。
小さなテーブルをはさみ顔を突き合わせながら。
彼女は申し訳なさそうに、でも迷わずにたばこを吸った。
「辞められないのよ。そのつもりもないけどね」と彼女は言った。
その時初めて本当の彼女の声を聞いた気がする。
いつも電車の中では小声で話していたからだ。
少しハスキーな声が色っぽさを増した。
彼女のくちびるから吐き出される白い煙はしばらくの間、僕にまとわりつき、やがて名残惜しそうに消えていった。

「花柄のバック、好きなの?」と僕は聞いた。
ずっと感じていた素朴な疑問だった。
特に流行っている訳でもないのに何種類もの統一した柄をいくつも所有していたからだ。
「ああ、あれ?妹が好きなの。たくさんあるけど特に意味はないのよ。職場からもらってくるみたい。馬鹿みたいに色んな種類がたくさんあるの。ただね、女三姉妹だと色んなもの使いまわせるのよ。他にも服とかバックとか」
「妹さんは何をしてる人?」
「一番下の妹はモデルをしている。真ん中の妹はデザイナーでさっき話した紙袋のデザインも彼女がしたの。アメリカ人と結婚して近所に住んでいるわ」
三人で写っている写真を見せてもらった。
それぞれがゴージャスだったけど僕は彼女が一番美しいと思った。
そして今、目の前にいる。

正面から間近で見る彼女はやっぱり綺麗だった。
瞼や目頭やまつげやまゆげがいちいち。
美の法則によって計画された完璧な配置。
そういうものを目の当たりにすると神様は本当に存在するのかもしれないと思う。
彼女の手はスペアリブの油でべとべとに光っていた。
彼女の細い指が肉の両端をつまんだ。
それをほおばり芸術的な顔で咀嚼し唇を濡らした。
僕たちは淡い欲望の中に居た。
彼女は僕と寝ても良いと思っている。
少なくとも同じ方向を向いている。
流れに身を任せても良いと思っている。
僕らは酔い始めていた。
濡れた手拭きで彼女の唇をぬぐった。
飼い犬みたいに素直に応じた。
大人しく目を瞑り僕に身を任せた。
そしてありがとうと言った。

彼女は目を開けると手をふきながら
「どうして声をかけてきたの」と僕に聞いた。
ハスキーな声は色っぽさを増した。
「いつでも誰にでも言っている?」
僕は首を横に振った。
「まさか。本当に偶然だった。よく行く公園なんだ。そして夜、たままた駅で会った。一日のうちに二度、朝もだから正確には三度、これってただの偶然ではないと思った。毎日、同じ電車に乗り合わせていたの、知っていたよね?」
彼女は再び目を瞑り、やがてゆっくりと開けると大きな瞳で僕の目を見た。
「見られてると思った」
「見ずにはいられなかったんだ」


僕たちは店を後にすると、川沿いの桜並木の下を歩いた。
彼女の腕を取り、やがて手を繋いだ。
彼女の手は小鳥のように細く僕の手の中にすっぽりと納まった。
強く握ると甘く握り返してきた。
「今の職場の前は何をしてたの?」ただの世間話だった。
「ダンス、やってたの。チームを組んで」と彼女は言った。
「本格的だったんだ」と僕は言った。
引き締まった脚。訓練された足首。
「随分頑張ったのよ。毎日、先生に付いて練習したの。友達とね。いつかニューヨークに行くのが夢だった。でも怪我しちゃって。泣いたわ。それで今の仕事を始めたの」
僕は彼女の手を強く握り、そのまま彼女の手の甲にキスをした。
でもそのあと何て言えばいいのかわからなかった。
彼女を励ます言葉が必要だった。
「そういえば、ちょっと前に知り合った女の子でダンスしてる人が居たなあ。今の会社に入る前に健康診断で知り合った」
彼女は握っていた手をそっと放した。
「もしかしたら、ゆかりかしら?」
「ああ、確かそんな名前」
「健康診断。聞いたことある。彼女は今、ニューヨークにいるのよ」
何かを踏み外した気がした。
言ってはいけない一言。
「私、もうすぐ結婚するの。養子に来てもらうのよ。三姉妹で私が長女だから。だから、彼に申し訳ないわ」
彼女の複雑な表情。
僕は何も準備ができていなかった。
「やっぱり帰るわ」と彼女は言った。
僕は彼女を引き留める言葉を持たなかった。
一言も。


彼女を駅まで見送ると一人で飲み直した。
そして彼女の事を考えた。
考えずには居られなかった。
僕は彼女の事が好きだった。
本気で好きだった。
本当の恋をしていた。
これからもっと好きになるだろうと思っていた。
彼女がどんな立場でも良かった。
結婚してようが、これから結婚する事になろうが関係なかった。
もっと彼女の事を知りたかった。彼女の事で埋め尽くしたかった。
僕は彼女と寝たかった。
僕を求めて欲しかった。
そして彼女の本当の声を聞きたかった。
僕を求める本当の声を。
でもそれは叶わなかった。
あのまま真っすぐ歩けば、そうなるはずだった。
でもならなかった。
僕が余計な事を持ち出した。
でもたった一言で変わるものとは何だろう。
僕はゆかりとは無関係でただの知り合いだった。
あの瞬間、そう弁明すれば良かったんだろうか。


次の日の朝、電車の中に彼女の姿は無かった。
次の日もその次の日も。
彼女は消えてしまった。
それでも僕は彼女を待ち続けた。
同じ路線の同じ時刻の電車に乗って。
ニューヨークに居るというゆかりに連絡が付いたのは一か月後の事だった。僕達が偶然知り合った事に驚いていたけど彼女の事は諦めた方が良いとゆかりは言った。
それ以上僕は言わなかったし言えなかった。

彼女は僕を消したのだ。
明確な強い意識を持って。
跡に何も残らないように。


それから僕はひとりでつり革を持ち、通勤するようになった。
やがて転職し違う時刻の同じ路線に乗り始めた。
それは今も変わらない。
時折隣のつり革を握る手を見る。
でも、あの繊細な彫刻家が丹精込めて完成させた完璧な手を見る事は二度と無かった。

彼女のあの時の複雑な表情は僕に何を求めていたんだろう?
それは永遠にわからない。
そして今も彼女は生きている。

たぶん、どこかで。


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