見出し画像

小説:初恋×初恋(その6)

第四章 高校生


「僕が中学を卒業したのは今から二十四年前だ
改めてその数字を口にすると随分時間が経った気がする。二十四年。干支が二回する。オリンピックが六順する。会社を起業し一時代を築き衰退させる事が出来る。
そんな天文学的昔、僕は高校進学を心待ちにしていた。中学の間におりのように定着した硬派で真面目というレッテルをはがし、僕の事を誰も知らない高校でこれまでとは違う自分になりたかったからだ。
四月。僕は新しい制服に袖を通し、春の風を頬に受け通学路を自転車に乗って走った。その時の風が頬に当たる感覚を今でもはっきりと思い出すことが出来る。月子の初恋の時に見た警備員の制服のように

私は相川さんを見た。さっきまでよりも穏やかな顔になっていた。それは恋する少年みたいに初々しく私を優しい気持ちにさせた。そして相川さんは三十九歳なんだと思った。

「僕は意気揚々と通学した。毎日が新しい。気分は良かった。今考えると、あの頃が一番幸せだったのかもしれない。僕の人生において穏やかで春の陽だまりのような日々。
そんな牧歌的な毎日の中、彼女に出会った。教室の前の廊下だった。気が付くと僕の目の前に居て、ゆっくりと通り過ぎ、振り返った時には既に恋に落ちていた。
もちろんこれまでに好意を寄せていた女の子が居たのかもしれない。いや、きっと居ただろう。でもそんなあやふやな感情ではなかった。手に取って触れるくらい、はっきりとしたものだった。心臓を鷲掴みにされたように胸が痛かった。これが恋なんだとはっきりと理解出来た。そしてその日から、その瞬間から、恋の苦しみが始まった。

それは今まで味わった事のない種類のものだった。肉体的痛みを伴った苦しみはじっと我慢していれば去っていく。でも恋の苦しみは時間が経てば経つほど増す。古典文学に出てくる恋煩いで亡くなった人の話しは本当だと思った。
僕は彼女の事を想った。想わずにはいられなかった。昼も夜も寝ているときも。一番厄介なのは、効果的な対処法が無いという事だ。純粋であればあるほど手の打ちようがない。誰も教えてはくれない。抜け出す方法は彼女を手に入れるしかないと思った。
告白。それが当時の僕がたどり着いた、この恋煩いから抜け出す唯一の方法だった」

「私と同じ。初めての恋が本物の恋だったのね。でも同じ高校ということは、同じ学年だったのかしら?」
「ああ。一組と八組。教室の端と端だった」
「名前は何て言うの?」
「くみこ。久しく、望む、子供と書いて久望子」

「久望子さんか。良い名前ね。日本的な感じがする。それで?」

「僕は彼女のクラスの親しくなった友人に、彼女との間に立ってもらうことにした。親しいと言っても高校に入って友達になったやつだったから、信用は出来なかった。でも他に選択肢がなかった。同級生の殆どは違う中学から進学してきたやつばかりだった。僕の事を誰も知らない高校に進学すると言う目論見が仇となった。でも仕方ない。そいつに頼んで久望子を渡り廊下へ呼び出すことにした。そこは教室棟と研究室棟を繋ぐ大きな通路で、めったに人が通らない。告白するには打ってつけの場所だ。
暑い夏だった。そして生まれて始めての経験だった。どんな言葉が正しいのか解らなかった。でも賽は投げられた。だから考えたよ。彼女を目の前にして言う台詞を。そして考えれば考えるほど僕はポジティブになっていった。彼女は僕を受け入れる、という確信に似た気持ちに。だって断る理由がどこにある?僕を知らないなら、もっと知ればいい。そのためにつきあうんだから」

「随分、前向きで自分勝手な考え方ね。失敗する事なんて考えたりしないのね。そういう時期があったのね、相川さんにも。そして初めての告白だったのね」

「彼女が現れた瞬間の事は今でもはっきりと思い出すことが出来る。それは頭の中のある部分にくっきりと残っていて、いつでも取り出す事が出来る。ゆっくりと彼女は扉を開けた。そして忍び込むように素早く中に入り、後ろ手でゆっくりと扉を閉めた。彼女は疑わしそうに僕を見た。真っ直ぐな視線。突き刺さるような、何かを責めているような眼差し。僕は深呼吸をしようとした。だけど息を吸う事も吐く事も強い意志が必要だった。そして用意していた台詞を全く思い出せなかった。あれだけ繰り返し覚えたのに。意識に映るのは彼女だけだった。僕は彼女の顔を真っ直ぐ見た。同じ空間に二人きりで居る。この空間に憧れ繰り返し夢見た。そして今、彼女が目の前にいる。手を伸ばせが届く距離に。でも僕の意識は何か他のものに支配された。誰かが僕の背後に周り、羽交い絞めにした。時間だけが悪戯に過ぎて行った。僕は諦めた。彼女を言葉で説得し、自分のものにするなんてことを。僕は必死で思い出した台詞を全部やぶりすてた。
そして一言、付き合って欲しいとだけ伝えた。彼女は去って行った。来た時と同じように、静かに。そして僕は一人、蒸し風呂のような渡り廊下に取り残された」
 
「ありがちなパターンね。世界中の高校生が同じような事をしているのよ」

「そうかも知れない。この手の事は、今も昔も変わらないのかもしれない。ただ達成感がそこにはあった。少なくとも昨日までの彼女の中に僕の存在はなかった。そして今、彼女の記憶に僕の存在が刻まれた。それだけで満足だった。僕はやっと一息つく事が出来た。その日の夜はぐっすりと眠る事が出来た。泥のように穏やかに。
次の日、僕は彼女からの返事を待った。休み時間になると用事もないのに彼女の教室の前の廊下を歩きまわった。学校を出る時は久望子が僕を探しているかもしれないと思い後ろ髪をひかれた。でも次の日もまた次の日も、久望子からの返事はなかった。じりじりとしたものが僕を支配した。そして前よりも更に深い穴に落ちていった。僕は彼女からの返事を待った。廊下ですれ違う彼女を視線の先で追ってはすがった。でも何の返事もなかった。僕は生きる屍となった。食事はのどを通らなかった。考える事は全て彼女の事だった。勉強も部活も何もかもが手に付かなかった。音楽さえ頭を素通りした。限界だった。このままでは壊れてしまいそうだった。僕はもう一度、友達に頼んで彼女を呼び出すことにした。そして彼女から直接、返事をもらった」

「結果は?」

「ダメだった。無理だと言われて、ああそうなのかと思ったよ。理由は聞かなかった。でも、何処かでホッとしたんだ。僕は悪魔のような片思いから、普通の片思いに変わることが出来た。出口にたどり着けた事で、救われたんだ」

「ハードな初恋だったのね」

「もしかしたらこれは初恋でなかったのかもしれない。もっと小さい時に、淡い想いを誰かに持っていたのかもしれない。でも僕はこの恋を自分の中で初恋と呼んでるんだ。僕はあの蒸し風呂のような渡り廊下で感じたんだと思う。彼女が僕にとって特別な存在だという事を。だけどその事を本当に理解出来たのは、ずっと後だった。当時の僕は何かを感じていたけど、その正体を上手く理解出来ずにいたんだ」

「わかるような気がする。特別なのよ。何もかもが。産まれて初めて心を震わせるんですもの。きっと最初の恋で本物の恋だったんだわ。でも意外と短かったのね。随分長い話しって言ってたから」

「まだ、続くんだ」相川さんはそう言うと、ハンドルをゆっくりと左に切った。正面を見ると鳥栖ジャンクションが見えた。
熊本、長崎、大分の分岐点だ。
そして左の車線は、大分、長崎方面。そしてさらに相川さんは左にハンドルを切る。私を乗せた行き先の解らない車は大分方面に向かっている。景色は増々殺風景になり、紅葉の終わりを告げる様に山々が赤く染まっていた。真っ直ぐな道が何処までも続いた。


この記事が参加している募集

#私の作品紹介

95,715件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?