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小説:初恋×初恋(その5)


第三章 初恋


初恋の話しをしよう。
この世に生を受けて初めて体験する不安定な心。未体験な甘い汁を毎日少しずつ吸い続ける快感。私がそんな感情に支配されたのは、小学校二年生になって通学路に歩道橋が設置された時だった。

「危ないよ」と肩をつかまれ振り向くと制服を着た若い警備員さんと目が合った。そして帽子のつばの奥の黒くて大きな瞳が私を覚醒させた。その日の夜、ベッドに入ると昨日までとは全く違う自分が居た。今まで感じた事のない心の中の違和感。胸の奥の息苦しさ。それが一晩中続いた。

朝、工事中の歩道橋の側に着くと、ゆっくりと歩いた。そして下を向きながら「おはようございます」と言った。警備員さんが私を見ながらにっこりと微笑んでいるところを想像した。ドロッとした液体が身体の奥の方からにじみ出て来るのを感じた。それは徐々に私の身体を満たし、うっとりとしてしまうほど甘いものが私を覆った。警備員さんの顔を見る事は恥ずかしくて出来なかった。

次の日も、また次の日も、私は朝を心待ちにした。警備員さんの側を通ると、身体の奥にあるものが疼き始めた。それは時に身体を締め付け、息が出来ない程だった。そしてその息苦しさの奥にある甘い塊に私は心を奪われた。それは日を追うごとに強くなった。私は舐めつくすように味わい、止めどもなく続け、いつしかその虜になった。

でもそれは突然終わった。歩道橋が完成し警備員さんが居なくなったからだ。あとにはひからびた感情だけが残った。夏の終わりに見かける蝉の抜け殻のように。これが私の初恋。そう、あれが初めての恋だったんだ。

あれ以来私はあの時の感情を超えるものを持たない。恋するという確かな実感が持てない。センセイに対しても、以前付き合ったハウスの住人に対しても、親切にされたり必要とされたりするうちに好きになった。たぶん好きだったのだろう。でも唐突で甘い蜜のような感情がふつふつと心の底から湧き出る危ない何かが私を支配することはもう、無かった。
 
「相川さん。初恋っていつでした?
私は流れる景色を見るのに飽きると藪から棒に聞いた。相川さんは物思いにふけりながら前を見ていた。そして目に一瞬生気が戻り「初恋?」と聞き直し、遠い目をして「高校生の時かな」と言った。私は耳を疑った。

「高校生?初恋ですよ。初恋。初めて人を好きになった時。初体験の話しをしてるんじゃないんですよ」と、ちょっと呆れた感じで言った。
「高校生の時だよ」相川さんはもう一度、ゆっくりと繰り返した。私は相川さんに私の初恋の話しをした。警備員さんという言葉が新鮮だったみたいで、どんな制服だったのか、事細かに聞いてきた。そして私は事細かに覚えていた。暑い夏だった。制服からのぞく黒くて太い腕。ギラギラ光る外国製の腕時計。白い手袋。長く伸びた脚。工事用の靴。そしてつばのついた帽子。

「とにかくカッコ良かったの。胸がキュンとなった。ざわついた声が耳から離れないような、絶え間なく押し寄せる波のような、得体の知れない塊に押さえつけられるような、解るかしら?未だに越えられないのよ。何なのかしらね。あの感情」

「わかる」と相川さんは言った。解る?理解出来る?あの感情が?
「本当に?」私の声は大きくなった。

人はいつか本物の恋に出会い人生を支配される。それは相手が誰であろうと、どんなタイミングであろうと唐突に起こる。ただしいつ起こるかは誰もわからない。一生巡り合えない事だってあるし、その気配さえない人だって居る。だけど初恋は多くの人が体験する。そしてその始まりは様々だ。淡い、いつ始まったのか解らない初恋もあれば、唐突に始まり嵐のように去っていく初恋もある。たまたま僕達の場合、本物の恋が最初の恋だった。ただそれだけの事だ」

相川さんの中に、私と同じものがある気がした。昨日から感じていた、初対面なのに側に居ると感じる居心地の良さは、そのせいなのかもしれないと思った。

「聞きたいな。相川さんの初恋の話し」と私は言った。相川さんは前を見ながら「それは長くなるけど良いかな?」と言った。「もちろん」と私は言った。

そして、相川さんの長い話しが始まった。


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