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小説:雷の道(日曜日)#33


「別に見せびらかすつもりじゃないのよ。あの子たちにせがまれて家から持ってきたの。懐かしくなって」

小夜子さんは厨房を出て僕の隣に座りアルバムをカウンターの上に置いた。一ページ目をめくると若い小夜子さんが現れた。

「これはね、二十歳の頃かな」
そのどれもがプロの撮った商業的な写真だった。ブランド物の服とキッチリとしたメイク。
背景には小夜子さん以外誰も写ってはいない。
完璧だった。
無いのは親近感だけだった。

「コマーシャルフォトですか?」
「そうね。どこかの。でもどこかは全部忘れたわ。こういう写真を何万枚も撮ったの。それが仕事だったから。こういうことを長い間やってるとね。本当の自分が無くなっていくのよね」
「本当の自分?」
「そう。最初から持っていたもの。育んできたもの。大事にしていたもの。そういうもの全部、置いてこないと生き残れない世界だった。ここにあるのは作りこまれた偽物の私。本当の私は別に居るのよ」
「個人的に撮ってもらった写真は無いんですか?」
「無いわ」と小夜子さんは言った。

そして無言で最後のページをめくった。
そこには一枚の写真が挟まっていた。
裏返しの写真を手に取った。
僕が写っていた。
僕と美沙岐が。
並んで何でもない顔をしていた。
上棟式の写真だ。
もちがまかれ大人たちは酒を酌み交わし、とりあえず弁当を食べ、並んで座っているときに誰かが撮ったんだろう。


「こういう写真の事を個人的な写真って言うんでしょうね。あんまり変わってないからすぐにわかったわ」

「これ、どうしたんですか?」
「持ってきたのよ。ミサが。隣に写ってる女の子は彼女の母親なのよ」
と小夜子さんは言った。
本当の自分。
真実は案外単純なんだと思った。

「どうしたの?」と小夜子さんは言った。
僕はコーヒーカップに視線を向けた。縁取りが青かった。

「ちょっと考え事をしてました」
「昔の想い出にひたってた?」僕は首を振った。
そしてコーヒーを飲んだ。
味がしなかった。

「ミサって何歳ですか?」
「十五歳のはずよ」
「いつから、ここに出入りしてるんですか?」
「最近よ。確か中学校の卒業の時じゃなかったかな。母親と一緒に。それからたまに来るようになったの」
「美沙岐に会ったことがあるんですね」
「一度だけね。ミサにはあまり似てなかったな。父親似なのね、きっと。美沙岐っていうのね。彼女」

そういうと、小夜子さんはさっきのスナップ写真を手に取ってじっくりと見た。
「二人とも若い。中学生ね。この写真の自分に何か言ってあげるとしたら何て言う?」

僕は小夜子さんの持っていたスナップを手に取った。
美沙岐に絶望的に恋をしていながら、なすすべもなくただ無力で戦うことを全放棄したような表情の僕。

「機会は巡ってくる。今じゃない、ですかね」

「今も彼女に恋をしてるのね」
「どうやらそうみたいです」
「遠くに来てしまったけど、それでも今、あるもの。それが全てよ」
「昔はとてもシンプルだったけど、今は状況も自分自身も複雑になりすぎて、どこから手をつけていいのか」

「状況はとても単純よ。目の前に女が居る。生身の生きてる女が。それだけよ」
「そうですね。彼女は生きている」

結局僕は、十五年という長い間、壁の外側に逃げ出していたんだ。
今更その中に入って、とやかく言う権利はない。
物事は絶え間なく動いていたって事さ。
僕抜きで。

外に出ると雷鳴が遠くから聞こえた。
僕はクルマを出した。
行くべき場所は一つしかない。
行くべき場所は最初から決まっていたんだ。




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