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小説:雷の道(日曜日)#26

朝、目が覚めると無性にコーヒーが飲みたくなったんだ。
東京では日課だった。
それが一日の始まりだった。
でもここにはコーヒー豆もミルもサーバーもペーパーフィルターさえもない。
まあ仕方ない。
僕は長い間帰省していなかったんだし、ここは僕の家ではないんだから。
今は宿代わりに息子のよしみで泊めてもらっているだけなんだ。
朝早く目覚め、突然、淹れたばかりのコーヒーが飲みたくなったらコンビニに行くしかない。
コンビニがあるだけまだマシなんだ。

僕は買ってきたドリップパックのコーヒーに湯を注いだ。
ヤカンしかなかったから細く注ぐのに苦労したけど、粉が蒸れてくると、コーヒーの香りが部屋全体に広がった。
黒い液体がカップに満たされると僕はそれを持って二階の部屋に戻った。
さて、と思った。
準備は整った。
何かを始めるには先ずコーヒーが必要なんだ。

僕は最初の一口を含み、苦みと酸味を味わい鼻腔に香りを満たし、ゆっくりと飲み込んだ。
自分で作ったコーヒーを飲むのは六日ぶりなんだと思った。
ここへ来てから六日経ったんだと。

そして今、加奈子に会う方法を考えている。
家は近くだ。
彼女はまだそこに住んでいる。
美沙岐がここに来たとき、加奈子の家に行った帰りだと言っていた。
徒歩で十分の距離。

でも突然訪ねて行くわけにはいかない。
彼女には子供がいる。という事は家庭があるということだ。
たとえ同級生だとしても独身の男が一人で訪ねて行く事は出来ない。
誰かと一緒に行く。

エリカが居るけど現実的ではない。
喫茶店の蛍にいたカップル。
オムライスとコーヒーを持って。
配達の場所を間違えたふりをして。
加奈子の家の様子を伺うには良いアイデアかもしれない。
でも知らない高校生カップルを巻き込む訳にはいかない。
もっとシンプルで現実的な方法はないか。

加奈子と僕が二人きりで会う、というのがゴールなんだけどなかなかたどりつけない。
そんな不毛な思考の繰り返しをしていたらコーヒーを飲み干してしまった。
からっぽになったコーヒーカップくらいみすぼらしいものはない。
僕は二杯目のコーヒーを淹れる為にキッチンへと降りて行った。
母親が朝食を作っていた。

「そう言えばさ、甲斐加奈子って覚えてない?昔、中学の頃、陸上やってた。小学生の時、たまに来ててさ、姉ちゃんと遊んでた加奈子。昨日、子供連れて歩いてるのを見たんだけどさ、今、何してるか」

「さあ、わからないわね。最近はすっかり近所づきあいってなくなったからね。子供が大きくなるとね、ゴミ出しの係くらいしか回ってこないのよね。それよりもさ、早起きしたんだったら、カヤの散歩に行ってきてよ」

カヤというのは僕がこの家を出てしばらくして飼い始められた雑種の犬だ。
小柄ながらよく動く。
いまどき珍しく外で飼われていて、時代に取り残された昔ながらの雑な扱いを受けている。

僕は多少の同情もしながら直ぐにカヤを連れて散歩をはじめた。
もちろん加奈子の家を偵察に行くためだ。

念のためスマホで検索した。
画面に地図が表示された。
川と川に挟まれた土地の真ん中に一本道がありその先端の三角地が加奈子の家なのだ。

果てしなく遠くに見える道の先端までカヤと歩いた。
単調でさびれた道だった。
誰一人すれ違わなかった。
敷地は門も塀もなく無防備に解放されていた。
壁は所々破れ瓦から草だか何かわからないものが突き出ていた。
朽ち果てるのを待っている。
そういう家だ。

軒先に真新しい釣り竿が立てかけられていた。
カヤを連れてその道路と敷地の境界と思われる場所に立つと、軒先に繋がれていた大きな犬が勢いよく吠えた。
僕はそれをしばらく、といっても三十秒くらいだけど眺めていた。
そのうちに犬も吠えるのに飽きると、静かになって寂しい目をした。

誰も居ない。
それが結論だった。

遠くから船のエンジンの音が聞こえた。
この先には大きな川がある。
でもここからは見えない。
そういう場所なのだ。

僕は来た道を帰っていった。
家の前に父が立っていた。
僕に気が付くと手をあげた。
年金暮らしの父は毎日自分の趣味に没頭している。
ゴルフに囲碁に釣りに。今朝も釣りにでかけていたらしく、たった今、帰ってきたようだ。
それっぽいジャケットを着てゴム長靴まではいている。
歳を取ることの美点は死ぬまで、病気になるまで自由だと言う事だ。

「おかえり。お母さんから聞いたぞ。さっきまで甲斐さんと一緒だった。遊んで帰るらしいから、今は誰もおらんぞ」




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