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短編小説:定点観測(英語話せますか)

 電車が駅のホームに滑り込み停車する寸前、左斜め四十五度に立っていた女の子が仰向けに倒れた。それは突然だったけど、朝早い通勤途中で音楽を聴きながら仕事の事を考えていたので、一瞬何が起こったのか理解するまで時間がかかった。

 隣に居た年配の男性が慌てて彼女を抱き起した。彼はいかにも老人で古いタイプの背広を着ていた。まるで活動写真を見ているようだった。次いで中年の女性も心配そうにかがみこんだ。その女性は初めて見る顔ではなく何度か電車で乗り合わせている名前は知らないけど顔は知っている一人だった。僕はというと、なす術もなく席に座ったままだった。ここで立ち上がる手も無くはなかったけど、今さら僕が立ったところで何が出来るわけでも無く、ただ様子を伺っていた。

 誰かの「緊急ボタン押してください」という声が聞こえ、目で探していたら他の誰かが押した。スピーカーから駅員と思われる男性の声で「どうしました?」という声が聞こえ「急病人です」とその誰かが叫んだ。


 電車で毎日通勤していると、稀にこのような事件に遭遇する。何年か前も隣に立っていた中年男性が突然倒れ痙攣し始めたので、緊急ボタンに一番近い僕が押す役割を担った。でも何故かそのボタンは無反応だった。当然、警報音が鳴るとばかり思っていた僕は焦って何度も強く押した。そのせいで親指を痛めてしまい血豆まで作って、その後何日か痛みが取れなかった。そういう意味で彼はスマートに、あるいはエレガントにボタンを押したことになる。

 抱き起された女性の横には大きなスーツケースが一つとバックが一つ転がっていた。どうやら旅行者のようだった。顔色は悪かったけど意識ははっきりとしていた。それでも起き上がれる気配はなかった。倒れた時に頭を打ったのか、後頭部を手で押さえていた。

 ベテラン風の駅員がやってきて、もう一人の若い駅員に「タンカ持ってきて」と言った。いかにも慣れている感じだった。「飛行機の時間は?」と旅行者の女の子に聞いた。それは簡潔で重要な質問だった。駅で治療するのか、このまま乗車するのかの判断に直結する。一刻の猶予も許されない。でも彼女は答えなかった。宙を仰ぎさっぱりわからないという顔をした。どうやら彼女は外国人のようだった。中年の女性がスマホを操作し画面を見せた。彼女はうなずき、左右の人差し指を立てて11時と表現した。細くて真っすぐな人差し指だった。

 駅員は中年の女性の方を見て「まだ時間はある」と言った。中年の女性は小さくうなずいた。二人は駅で治療をするという選択をしたようだった。

「日本語話せますか?」と駅員は言った。彼女は親指と人差し指を使ってCの文字を作った。ほんの少し。それは僕の座っている位置からも良く見えた。日本語が話せなくても日本を旅行することはできる。ハワイに行く日本人と同じだ。彼女の顔つきからすると中国人か韓国人か。それ以外には思いつけなかった。

「英語話せますか?」と駅員が言った。
彼女はにっこりと笑った。初めて見せる彼女の笑顔はとてもチャーミングだった。彼女は流暢な英語で駅員に何かを言った。一瞬、間があった。中年の女性が駅員の顔を見た。駅員は固まったままだった。女の子は駅員に向かって更に何かを言った。でも駅員は何も言わなかった。中年の女性は駅員を見つめたままだった。ほどなくして車いすが登場した。タンカではなく車いすだった。女の子は自力で立ち上がりゆっくりと車いすに座った。駅員は車いすを押してすごすごと車両から出ていった。中年の女性はそれを見送った。彼らの姿が見えなくなるまで。

 彼らの不在は朝の通勤ラッシュの車両に大きな空間を残した。そして次第に乗客に埋められ、何事もなかったような普段通りの混雑となった。中年の女性は窓際に立ち駅のホームを見ていた。電車が動き出すとゆっくりと目を閉じた。

 我々は日常に戻ろうとしていた。いつもだったら何事も起こらずやり過ごす駅のホーム。今日に限ってトラブルが起こり、ちょっとした出会いがあって、尊敬と失望があっただけだ。

 彼を責める事は出来ない。たとえ彼が英語を話す事が出来なかったとしても、たとえ彼が英語を話せなかったことを忘れてしまったとしても。
完璧な人は存在しない。彼はあと一歩だった。外国人の女の子からも中年の女性からも尊敬の念を集め、もしかしたら恋に発展するかもしれないくらいの事をやってのけた。最後の質問をするまでは。本当にあと一歩だったんだ。

 ただ、これは小さなきっかけに過ぎないけれど、大きな一歩でもある。日常という大きな波の狭間で見つけた奇跡的な出会いなのだ。機会はどこかで訪れる。明日なのか明後日なのかはわからない。でも願えば可能性はある。願わなければ叶わない。諦めさえしなければ。

だから立ち止まろう。日常の波に飲み込まれる前に。


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