伊達政宗㉓

長谷堂城を守備するのは、最上義光の重臣志村光安率いる1000の兵。
上杉方は直江兼続が指揮する18000。
長谷堂城が落ちれば、最上は須川のみが防衛線となり、上杉が須川を越えれば山形城までさえぎるものがなくなる。
慶長5年(1600年)9月15日から、上杉は長谷堂城を力攻めしたが、18倍もの兵力差がありながら、城は落ちない。
それどころか、光安は16日には200名の決死隊を率いて、春日元忠の陣に夜襲をかけた。
春日の陣は同士討ちを起こすほどに混乱し、光安は兼続の本陣の近くまで攻め入り、250もの首を取った。
直江兼続は苛立った。
攻めようにも、長谷堂城の周りは深田ばかりで、人馬が足を取られてしまう。
焦った兼続は田の稲を刈って挑発するが、光安は「笑止」と誘いに乗らない。
そうしている間に、21日に留守政景の3000の軍勢が小白川に到着、24日には沼木に布陣し、須川を挟んで上杉軍と対峙した。
最上義光も、ここにきて勝機を見いだし、山形城を出て稲荷塚に布陣した。最上勢は留守政景の軍勢と合わせて7000ほど。上杉には及ばないものの、そこそこ戦える兵力である。それに上杉勢が全軍最上に向かえば、わずか1000といえども、背後には長谷堂城の兵がいることになる。
戦況は一時膠着したが、兼続は29日、長谷堂城の総攻撃を命じた。
しかしそれでも城は落ちず、上杉勢は剣豪上泉信綱の孫、上泉泰綱が討ち取られた。

そしてこの29日に、関ヶ原での東軍の先勝が兼続の元にもたらされた。
これで長谷堂城の勝敗がどうなろうと、西軍の敗北は決定したことになる。
上杉軍には元浪人が多くいるが、その中には天下に名の知れた豪傑が多い。上泉泰綱も元浪人である。
その浪人衆の一人に、前田慶次郎利益がいた。
利益は前田利家の義理の甥だが、利益は本来嫡男であった、利家の兄の利久の養子であった。しかし織田信長が利久を廃嫡して利家に家督を継がせると、以来世を拗ねるようになり、利家の元を退散して天下の浪人となった。出奔する際に、利家を氷のように冷たい水風呂に入れたと伝わる。
身長6尺5寸(197cm)の大男で、戦えば天下無双の豪の者でありながら、和歌や漢詩に通じ、連歌師の里村紹巴、茶人の古田織部とも交流する文化人、風流人であった。
その利益が、上杉景勝が天下を敵に回して、豊臣家のために戦おうとしているのを見て、
「天下の大名は皆家康に尻尾を振る中で、景勝だけは漢だ」と言って上杉家に仕官した。
利益は「大ふへん者」と書いた旗指し物差していたが、
「なに?大武辺者だと?」
と、上杉家中の者が色めき立ち、利益に文句を言った。しかし利益は、
「貴殿はかなの清濁をご存知ないのですかな?これは大不便者と読むのですよ。拙者は浪人して貧乏ですからこのような旗指し物をしているのですよ」
と言ってやり込めた。
話を戻して、前田利益は長谷堂城の戦いにも従軍して手柄を立てていたが、関ヶ原での西軍の敗北を知った直江兼続は自害しようとした。しかし利益は、兼続を諌めて兼続に撤退を決断させた。
10月1日、上杉軍の撤退が開始された。
最上義光は留守政景の伊達勢と共に追撃戦を開始した。
富神山付近で、最上軍と上杉軍は激突した。
上杉軍は鉄砲で激しく応戦し、陣頭に立つ義光の兜に銃弾が当たるほどの激戦となった。
兼続は畑谷城に立て籠って殿を務め、3日に荒砥に退却、4日に米沢に戻った。
義光は3日に寒河江、白岩、左沢を回復すると、庄内方面へと攻め込んでいった。
(それでは儂も動くとするか)
と、関ヶ原での東軍の戦勝、長谷堂城での最上の勝利の報を聞いて、政宗は思った。
しかし、
「みだりに動くべからず」
と、家康からの命令が届いた。
家康としては、関ヶ原での勝利で大勢が決しており、後は時流に任せれば上杉は自ら屈することになると踏んでいる。
政宗は岩出山城に戻ったが、
(会津を切り取りたい)
という思いを抑えきれず、すぐに兵を動かし、6日には福島に押し寄せた。
福島では本庄繁長の軍勢と衝突、上杉勢を数で圧倒した。
本庄繁長は福島城に入って防戦した。
政宗は福島城を攻めたが、落とすことができない。
政宗は小十郎に相談した。
「福島城は数日攻めれば落とすことができますが、味方の損害も多うござる。ここは一旦兵を引くのがよろしかろうと存ずる」
と小十郎は言い、政宗もその進言を容れて国見山へと引いた。
上杉にとって会津は新しい領地であり、領民は上杉に懐いておらず、政宗に内応する者が続出していた。
梁川城からは横田大学という者が内応し、また斉藤兵部という者が、信夫、伊達二郡の百姓等4000人を伴い内通、さらに直江兼続の鉄砲頭極楽寺内匠という者も内通していた。
政宗は再度福島城攻めを検討したが、石川昭光が仙道、梁川方面から挟撃される怖れありと述べ、また梁川城の横田大学が変心して上杉に味方したため、政宗は北目城まで戻ることにした。
政宗の目論見は2つある。
ひとつは福島城が損害少なく抜けそうならば抜いてしまうことである。
もうひとつは、花巻での和賀和親の一揆は、家康の耳に入っているはずである。
家康としては、関ヶ原に勝った以上、上杉には厳しい態度で望みたいが、政宗の動き次第ではそれも難しくなる。
和賀一揆が成功すれば、政宗は和賀を伊達領に編入して、それを家康に認めさせるつもりでいた。
そのためには、下手に損害を出して上杉領を切り取るくらいなら、上杉の実力を温存させておいた方がいい。
(この様子なら、これからも上杉から内応する者が現れるじゃろう。上杉領はいつでも攻められる)
その頃、和賀忠親は岩崎城に籠城していた。
10月中旬には南部利直が軍勢を率いて花巻に到着したが、折から冬の到来により積雪が激しくなっていたため、城攻めは春を待って再開することとなった。

家康から、花巻での一揆について詰問がきた。
「花巻での一揆のために、南部利直が山形の守りから離れねばならなくなったというがはまことか」
と言う使者に対し、
「これは異なことを、もしそのようであっても、我らには一向に関わりのないことでござる。さりながら他領のことゆえはっきりとしたことはわかりませぬが、一揆は南部殿が盛岡に戻られてから起こったと聞き及んでおり申す」
政宗は答えた。
事実である。
政宗は何食わぬ顔でとぼけてみせたが、ここは重要なところで、いかに南部利直の留守が一揆の絶好の機会であっても、利直が山形にいる時に一揆を起こさせ、そのために利直が山形の陣を引き払うことになっては、さすがの政宗も何らかの咎めは避けられなかっただろう。
「それでは伊達殿が此度の一揆を煽動したというのはまことにござるか」
との使者の問いに、
「はっはっはっ!」
と政宗は大笑し、「そのようなこと、この政宗、天地神明にかけて、不埒な一揆になど少しも関わりはござらぬ」
とぬけぬけと言ってのけた。
「されど伊達殿が一揆に関与していたと申す者がござる」
「おう、ならば京でも大坂でも、この政宗どこにでも参上して申し開き致すであろう。ただし上洛するのは、上杉とのいくさにめどがついてからにはなり申すが」
と言いながら、
(南部利直が山形にいる時に一揆か起こったかの確認をとってきたということは、内大臣殿もこの件の落としどころを探っておるな)
と、政宗は思った。
「ーーお話は以上かな?ならば当方からもお願いがござる」
と、政宗は言った。
「ーーそれは、どのような?」
使者は、食えぬ政宗を相手に、警戒心を強めた。
「なんの!」
政宗はそんな使者の警戒心を笑い飛ばすように言った。「この岩出山は山の中でござって、何かと不便でござる。そこで千代という土地がござってな、そこに城を造って移りたいとかねがねから考えており申した」
大名が居城を決めるのに、本来許可は必要ない。
しかし秀吉の頃から、「ここを居城とするが良い」と言われれば、それが忠告程度の言葉でも、命令に等しいものになった。
そして主君が豊臣から徳川に変わろうとしている今でも、居城を移すには家康の許可がいるようになっている。
(なんだ、そんなことかーー)
と使者は思ったが、
(それにしても、改易にされてもおかしくないことをしでかしておいて図々しいことよ)
と、この点が使者にとって面憎いことであった。しかし、
「そのこと、殿にお伝え致しましょう」
と、使者は言った。

家康は、戻ってきた使者から報告を受け、
(なんだ、千代とやらに城を移すのが条件か)
と思った。しかしそれで政宗が大人しくなるなら安いもので、家康は上杉に処分を言い渡すことができる。
家康は、千代に居城を築くのを認めた。

一方、上杉景勝は、新しく手に入れた会津領を持て余していた。
伊達勢の圧迫により、伊達に内応する者が後を立たず、このままでは政宗に会津を奪われるという事態にもなりかねなかった。
(早く去就を決めねば)
と思った景勝は、12月に家康に降服を申し出た。

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