伊達政宗⑲

「何を言うか小十郎!儂が皆のことを考えておらぬと思うたか!」
政宗も怒鳴った。「弱みを見せれば、太閤につけこまれる。そのため今は領内のことも十分に手当てできないというのがわからんのか!」
「殿、殿はもはや小田原の陣以前の殿ではござらぬ」
小十郎は思わず言った。政宗は会津を攻め取った時のように、自分を高々と維持していたいのである。
政宗は顔色を変えた。しばらく黙っていたが、
「もう良い、小十郎、下がれ」
と言った。
小十郎は退出した。

茂庭綱元は、慶長2年に伊達家に復帰する。その際、綱元は香の前を綱元に差し出した。
政宗は香の前との間に亘理宗根と津多を生んだ。その後香の前は再び綱元の側室となった。
津多は原田宗資に嫁ぎ、原田甲斐を生む。
原田甲斐は、仙台藩4代藩主の綱村の時に、藩内の政争で政敵に幕府に上訴され、老中酒井忠清邸内で伊達政重を斬殺した。いわゆる伊達騒動の中心人物である。

(ーー政宗め、相当参っとるじゃろう、もう一押しかな)
と秀吉は思った。
政宗の荒肝をひしぐ、最大の手がある。
秀吉は内心、天下を甥の秀次でなく、実子の秀頼に譲ろうと思っていた。
秀吉は生まれたばかりの秀頼に、秀次の長女を婚約させて秀次から秀頼に天下を譲らせようと考えていた。
秀次は精神が不安定となり、喘息がひどくなった。
文禄の役では、秀次は秀吉に代わって渡海する予定だったが、喘息のせいで立ち消えになっていた。
黒田如水は秀次が秀吉に代わって名護屋城で指揮を取るべきだと秀次に説いたが、秀次は聞き入れず、日夜淫蕩に耽っていたという。
そして文禄4年6月に、秀次謀反の噂が持ち上がった。
秀次が鷹狩りと称して、山中で合議をして謀反を起こすという話だが、こんな噂を信じた者も少ないだろう。明らかに謀略である。
秀吉は石田三成、増田長盛、前田玄以、富田左近など奉行衆を聚楽第にやり、謀反の疑いがないことを誓紙を出して誓うように秀次に要求した。
秀次は7枚継ぎの起請文を提出し、逆心無きことを示した。
「とかく父子間で浮説が起こるのも、直談しないからだ」
と秀吉は言って、秀次に伏見城に出頭するように命じた。
秀次はすぐに動かなかった。
7月8日、山内一豊、前田玄以、宮部継潤、堀尾吉晴、中村一氏が聚楽第を訪れ、秀次に伏見に出頭するように促した。
秀次は伏見に向かったが、登城も拝謁も許されず、木下吉隆の屋敷に留め置かれた。そして「御対面及ばざる条、まず高野山に登山然るべし」と言われ、高野山に蟄居となった。
秀次の妻妾も捕らえられ、秀次の家臣も切腹、または大名に身柄を預けられ、中には遠流に処される者もいた。
7月15日、高野山を福島正則、池田秀雄、福原長堯ら3名が訪れ、秀次に切腹するように言い渡した。
この時、高野山の木食応其が「仏教寺院では罪人すら保護される」と言って抗議したが、福原正則は「太閤殿下に逆らえば、高野山の寺院そのものが失われるぞ」と恫喝し、高野山側も折れた。
こうして秀次は、28歳の生涯を閉じた。

この時期、秀吉はその生涯で最も苛烈な処断を行うことになる。
なぜ秀次切腹事件で秀吉がこれほど残忍だったかについて、多くの研究者は、秀吉の老衰にその原因を見ている。
しかしそうではない。
鳴り物入りでスタートした朝鮮出兵は、緒戦こそ快進撃を続けたが、はかばかしい戦果を挙げることなく休戦の運びとなった。
天下に秀吉に逆らう者はいないが、秀吉の威信は低下している。
和平交渉もまだ途中であり、秀吉としては、天下に自らの威信を誇示する機会が秀次事件しかなかったのである。
秀吉の目は、秀次の妻妾と子供達に向いた。
秀次の妻妾は、丹波亀山城に移送されていた。
秀次の妻妾達は京の徳永寿昌邸に移された。
(秀次の側室には、最上義光の娘がいたな)
政宗の叔父の最上義光の娘は、駒姫といった。政宗にとって従姉妹になる。
当時15歳で、側室といっても、まだ上京して間もないため秀次の手はついていなかった。
(これは良い)
狙いは政宗である。血縁の者が処刑されれば、政宗も恐れ怯えるだろう。
最上義光は秀次に側室を差し出した罪で咎められ、前田利家や徳川家康が駒姫の助命嘆願をしたがそれも聞き入れず、8月1日、妻妾も秀次の子らも三条河原で処刑すると言い渡した。
8月2日、三条河原に40メートル四方の穴を掘り、鹿垣を結んだ中で処刑が行われ、秀次の4人の子と妻妾、侍女、乳母ら39名が処刑された。
見物に来た者達からはあまりに酷いと。奉行に罵詈雑言を吐く者もおり、また見物に来たことを後悔する者もいたという。
秀吉は聚楽第と、秀次の居城の近江八幡城の破却を命じた。
これも秀吉が老いて感情の制御が利かなくなったことによるものと言われているが、関白を辞して太閤となった秀吉には、もはや宮仕えをする必要がないのである。
天皇を超えて日本の第一人者になろうとしている秀吉にとっては、不要になった聚楽第を残して天皇を尊崇する気持ちがあると思われても迷惑である。そのため秀次憎さのあまり、感情に任せて聚楽第の破却したように世間に思わせたまでのことだった。

秀次事件は、諸大名にも影響を及ぼした。
細川忠興は、秀次に黄金200枚の借金をしており、また秀次の家老の前野景定の舅だった。
それが秀次事件で、忠興は慌てて娘を前野景定から離縁させ、秀次に借金を返そうとしたが資金が用立てできず、徳川家康に頼んで黄金200枚を借りた。もっとも返済先の秀次家がなくなったので、借金は秀吉に返済した。
この時期、政宗も京にいたが、政宗も戦慄した。
(我が伊達家にも疑いがかかるやもしれぬ)
と思った政宗は、小十郎に相談した。
「うろたえず、泰然となさるがよろしゅうござりまする」
と小十郎は言った。
「どういうことじゃ」政宗は聞いた。
小十郎の見るところでは、政宗は秀次を粗略にせずに交際していたが、それだけのことである。特に疑われるような証拠もない。
むしろ弱気の方が問題である。弱気になったところを、秀吉に喰らいつかれて秀吉の言うがままにされてしまう。そういう意味のことを小十郎は言った。
「別段証拠無き以上、太閤殿下がどのように仰るかわかりませぬ。何を言ってくるかわからぬものに対応しようとしても無駄でござる。よって泰然と構え、相手の変ずるに応じて対応するのが寛容かと」小十郎が言うと、
「そのようなことを言っても、取り潰されてはなんにもならぬ」
「は……」
「だからどのようにすればこの場を逃れられるのかを聞いておるのじゃ」
「それはーー」
ない。
秀吉に狙われれば、取り潰される時は取り潰される。
だから泰然とし、秀吉の出方を見て、いざ秀吉が取り潰そうとした時には、毅然とした対応を取る。
それ以外にない。
「恐れながら、ここが唯一の切所にござりまする」小十郎が言った。
「どういうことじゃ?」政宗が問うと、小十郎は答えた。
秀吉の権力の中心にあるのは、その圧倒的な人気である。
本能寺の変の信長の横死以来、秀吉は明るく、華やかで、他人に優しく、敗者にも寛容で、ひとたび軍を動かせば、たちまち諸国が豊臣政権の傘下に入り、またたく間に天下が統一されていく。
そんな秀吉の強烈な個性が、圧倒的な人気となって秀吉を支えている。
だからこのような暴虐を今後秀吉が行うことはなく、この切所を乗り切れば後は安泰だと小十郎は言うのである。
「ーー小十郎、もう良い」政宗は言った。
「は?」
「太閤殿下が我らをお取り潰しにならぬよう精一杯配慮するのじゃ、精一杯じゃぞ」
(根は聡明なお方なのにーー)
秀吉に恭順する姿勢を示すなら、普段から徹底しておけば良い。
しかし政宗、大崎葛西一揆を煽動したり、朝鮮出兵で秀吉と派手さを競おうとするのだから、今さら平身低頭しても弱気になったと思われて喰らいつかれるだけなのである。
(殿は御自身でお考えにならぬ)
人の評価ばかり気にしているのが今の政宗で、「どうすれば人に認められるか」ばかり考えていると。困難な時に自分で正解に向かう能力が失われてしまう。
事実、政宗は何人もの家臣に去られて、「皆が太閤に仕えてからの儂を笑っておる」と常日頃から家臣の顔色を気にしている。
このことは、政宗をいじめる秀吉の方が、小十郎以上にわかっていた。
(政宗の荒肝をひしがねばならぬが、さりとて今の政宗では物の用に立つまい)
とも、秀吉は思っている。
(さて、どうするか)
秀吉は考えている。
とりあえず、施薬院全宗を上使として、政宗の元に使わした。
「大崎侍従殿はかねてから関白と昵懇にしていたが、大崎侍従も疑わしいところがある。関白と昵懇にしていたのは謀反を企んでいたからではないか?さもなくばなぜ関白と昵懇にしていたのか」と施薬院全宗は言った。
「それがしは関白殿下を太閤殿下の御後継ぎと思い、関白殿下に忠を尽くすことは太閤殿下に忠を尽くすことと思って関白殿下の元に参勤していたまでで、謀反の話などを関白殿下から持ちかけられたこともなければ、それがしから持ちかけたこともござりませぬ」
政宗は言った。そう言うしかなかった。
秀吉は報告を聞いて、
(政宗はいっそ小禄にしてそこから奮起させた方が、後々ものになるかもしれん)
秀吉は、政宗を伊予10万国に減転封させた上で、政宗に隠居させ、家督を政宗の長男の兵五郎(秀宗)に継がせると噂を流した。
正式に決定していたら、秀吉もその決定を変更できない。
(この噂で、政宗がどう反応するか)
秀吉は様子を見ることにした。

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