伊達政宗⑰

天正19年(1591年)1月、南部領で九戸政実が反乱を起こした。九戸政実の乱である。
秀吉は甥の秀次を総大将とし、60000の兵を奥州に派遣した。
政宗は京に呼ばれていたため参戦しなかったが、蒲生氏郷は参戦した。
米沢などを得たことで、その所領は91万石となり、伊達家を越えた氏郷は、奥州の鎮撫にふさわしい城を築き始めた。
この城には、7重の天守閣も築いた。江戸時代以前に天守閣のある城は、蒲生氏郷の会津若松城と宇喜多秀家の岡山城、毛利輝元の広島城、前田利家の金沢城などごくわずかである。
氏郷は、この城を家紋の舞鶴から鶴ヶ城と名付けた。
政宗の悔しさは一通りではない。
(会津も米沢も儂のものじゃ、その城も儂が建てる予定だったものじゃ)
という想いが、今も消えず燻り続けている。

政宗は、大崎葛西一揆の復興のための資金を出そうとしなかった。
「これからの舞台は京じゃ!」
と政宗は常に言っていた。
この間、少し嬉しいことがあった。
政宗に男子が生まれたのである。
生んだのは飯坂の局で、愛姫ではなかった。
(田村家再興のためには、めごが二人男子を生んでくれる必要があるのじゃがーー)
愛姫に子が生まれる兆しはない。
秀吉の奥州仕置により改易された田村家の知行権を、政宗は認めなかった。
そこにきて今回の減転封で、旧田村家家中の者は政宗の約束違反として、伊達家への出仕を拒み、蒲生家や上杉家、相馬家に仕官し、また多くの旧田村家臣は旧知行地に帰農した。
(田村の様子を見れば、同じことが伊達家で起こらぬとは言えぬ。今は復興に力を入れた方が良いのだが……)
と小十郎は思った。
結局田村家は、この後慶長4年(1600年)に生まれる嫡子忠宗の三男宗良が承応元年(1653年)に田村家の名跡を継ぎ、岩沼3万石を与えられることで再興する。
その京では、秀吉は秀次が九戸政実の乱を平定して戻ってくるのを待って、12月に関白職を秀次に譲り、自らは太閤となった。
秀吉は、関白職を譲っても隠居するつもりはさらさらない。
秀吉は信長の後継者となった当初は、信長同様、自らを権威の源泉とすることを目指したため、朝廷の力を借りるつもりはなかった。
しかし小牧・長久手の戦いで家康を屈伏させることができなかったため方針転換し、前代未聞の藤原氏出身以外の関白となって天下の統一を優先し、また古代律令国家的な中央集権的なイメージを打ち出すことで全国的な楽市楽座や検地を進めることにした。
そしてこれらのことは概ね成し遂げた秀吉は、関白職を辞して朝廷から自由になることで、より自分の権威を高めようとしたのである。
秀吉は京の近郊の伏見に城を築き、大明征伐を画策しようとしていた。
秀吉は既に8月に、来春大明征伐を行う旨を諸大名に布告していた。
そして政宗にも、朝鮮への出陣の命令が下った。
さて、当時は大明征伐とか唐入りと呼ばれる秀吉の朝鮮出兵だが、この朝鮮出兵、後の世には評判が悪いが、この企画の当初はそうでもない。
織田政権からの武将や加藤清正、福島正則などの秀吉子飼いの家臣達は、さらに所領が増えると意気盛んであった。
しかし草深い奥州では、秀吉に服して日も浅く、大明に討ち入るなど想像も及ばないことであった。そのため多くの者が、胡乱気で気の進まない表情をしていた。
家臣達のその気持ちは政宗にも伝わってきていた。
「その方達、太閤殿下の唐入りによってさらに知行が増えるぞ!今まで失った以上にじゃ!知行を倍にすることも3倍にすることも夢ではないぞ!」
と、政宗は家臣達を焚き付けた。
といって、政宗の思考はこの時期には海外にまで及んでいない。後にイスパニア(スペイン)との同盟を画策する政宗も、あくまで貿易と徳川幕府への対抗が目的で、海外進出を考えたことはなかった。
大明征伐については、政宗に定見はなく、本気で戦うかどうかも、
(まずは様子を見て)
と考えていた。
それでも政宗としては、秀吉と張り合うために、家臣達が大明征伐に消極的であっては困るのである。
政宗が弱気だと見たら、秀吉はその弱気につけこんで政宗の荒肝をひしぎにくる。
このような時もあろうと、政宗はひそかに企図していたことがあった。
年が明けて天正20年正月5日、政宗は1500の兵を率いて京へ向けて出立した。
2月13日に、京に到着。
すぐ肥前名護屋へ出立すぐ予定だったが、秀吉が病を発したために一月以上伸ばされ、3月17日、諸軍勢と共に出陣すぐことになった。
第一軍は前田利家、第二軍は徳川家康、政宗は三番手だった。
伊達勢が通ると、京の者達は皆どよめいた。
伊達軍は先頭に金の日の丸を描いた30本の幟を立て、兵士達は銀の鞘の脇差、朱鞘の太刀、そして金箔を貼った長さ3尺のとんがり帽子をかぶっていたのである。
「さすがは伊達の殿様じゃ、やることが派手だわい」
と、京の者達は盛んに持て囃した。
秀吉は聚楽第の桟敷から軍勢が通るのを見物していたが、もちろん秀吉も大喜びである。
「伊達侍従、あっぱれな武者振りぞ!その勢いで北京まで切り取るがよい!」
と桟敷から大声で叫んだ。
(見たか関白!この儂にどのような手を使ってくるか)
と、政宗は得意満面だった。
(一揆で荒廃した地の復興に金を使わぬと思ったら、このようなことに金をお使いであったか。しかし今回はこれで良かったかもしれぬ)
と小十郎は思った。
政宗が派手な出で立ちの軍勢を率いていけば、秀吉はその軍勢を敵と衝突させて損耗させたくないと思い、伊達勢を戦場には送らないだろうと、政宗は考えたのである。

伊達勢は4月下旬に名護屋に到着した。
まもなく秀吉も名護屋に到着した。
「伊達侍従の家臣の片倉小十郎というのは切れ者じゃの、伊達侍従は小田原征伐の前までは各地を切り取る荒大名じゃったが、小十郎がいなければ、その半分も切り取ることはできなかったじゃろう」
武将の評論が好きな秀吉は、御伽衆を相手に、そのように語った。
その話が巡り巡って、政宗の耳に入るのを計算に入れてのことである。
そしてその話は、小十郎の耳にも入った。
ある時、小十郎が政宗の元に伺候した時のこと。
政宗の表情が鈍い。
(ご不快なのだ)
長い付き合いだから小十郎に対し憎しみは持っていないが、それでも気分は良くないのだろう。
「世間とはとかく、くちさがなく噂をするもの、お気に病まれることのございませぬよう」
戦場では、わずかな言葉の齟齬が命取りになることがある。小十郎はこの点、しっかりと言上した。
「気にしてはおらぬ」
と政宗は笑った。
しかし小十郎も、秀吉に謁見せねばならなくなった。
(嫌な役目だ)
と思いながら、小十郎は秀吉の元に伺候した。
「ーーどうじゃ小十郎、そなた儂の直臣にならぬか?」
と秀吉は言った。
「ーーは?」
「そなたが儂に仕えるなら、まずは5万石をやろう。そなたの働き次第では50万石の大名にも取り立ててやろうぞ」
卑賎の身から天下を取った秀吉は、優秀な家臣に恵まれていない。そのため天下に人材を求めていた。
毛利輝元から小早川隆景を引き抜いて直臣にしたのもそうだし、長宗我部元親のようなかつては敵対していた大名も自分に懐くようにしようとし、九州征伐の戸次川の戦いで元親が嫡子の信親を失った時は、大隅国を与えて元親に報いようとした(もっとも元親はそれを固辞した)。
もっとも、優秀な家臣が欲しいだけではない。
秀吉の信条は、
(人間は序列化されることを望んでいる)
である。
後世、「人たらしの天才」と言われたほど人身集覧術に長けた秀吉だったが、相手を取り込む際、必ず相手を下位に置いてから取り込み、相手の反骨心をそのままにはしておかない。
真の狙いは、小十郎でなく政宗にある。
政宗にとって無二の家臣である小十郎を秀吉が取り上げることにより、
「小十郎にも身限られた」
と政宗に思わせ、自信を失くさせ、その猛気をひしいでから自らに忠実な家臣とする。それが秀吉のやり方だった。
(大名の家臣でなく、独立した大名か……確かに大名の地位に憧れた時もあった)
小十郎は思う。伊達家に仕官する前は、奥州を離れ上方に出て大いに自分の才能を発揮したいと思い、そのために伊達家への仕官を勧める姉の喜多の頼みに悩んだものだった。
「身に余るお言葉、恐悦至極に存じまするが、それがし大崎侍従の幼少の頃よりお仕えし、君臣の間柄と言えども兄弟のように思っており申した。今さら大崎侍従の元を離れるのは忍びがたいことにござりまする」
と小十郎は秀吉に言った。
(そうだ。それに今殿の元を離れる訳にはいかぬ。殿は自分を見失っておられる!)
若い頃より奥州最大の大名として四方を切り取りしてきた政宗は、ここにきて秀吉の天下という壁にぶち当たった。
(今回の大明征伐の軍勢の衣装のための出費もそうじゃ。太閤殿下に張り合うために金を湯水のように使い、領内の経営も棚に上げて足が地についておられぬ)
小十郎はそう思った。
「ーー伊達侍従は良い家臣を持った」
秀吉は少し寂しそうに言った。

戦国100年を戦い抜いた武士達を統率する秀吉の作り上げた新国家には、日の出の勢いがあった。
戦役の序盤において、この新国家の前では、老朽化した官僚国家の李氏朝鮮は敵ではなかった。
李氏朝鮮では讒言により良案、良臣が排斥され、野性に満ちた戦国武士の前に為す術がなかった。
加藤清正は朝鮮国境の豆満江を超えて、満州のオランカイにまで進出した。形勢を見ていた政宗も、
(これは、我らも朝鮮でいくさをした方が良いのではないか?)
と思うようになった。

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