伊達政宗⑱

政宗は、最前線に行こうと思った。
(この朝鮮で、少しでも領土の切り取りをして、失った分の所領を回復せねば)
政宗は、伊達勢が最前線に行くように秀吉に具申した。
「おう、さすが大崎侍従、豪儀である。儂も嬉しく思うぞ)
と秀吉は使者に口上を伝えさせたが、肝心の政宗がいくさに出ることについては否定した。
「我が軍は破竹の快進撃じゃ、この先良い折もあろう」
と秀吉は言ったが、秀吉は政宗がいくさに出れば負けると思っている。
(政宗め、自分が1500の兵しか率いていないのを忘れておる)
それをいえば加藤清正にしても、政宗の倍くらいしか兵を率いていないのだが、秀吉は政宗がいくさをすれば負けると思い、あえて前線でない場所に政宗を置いている。
(まさかあの豪華な兵装でいくさをすることもないと思うが)
宝物のような兵装を抱えていくさをすれば、それを失うのを気にしていくさに身が入らないだろうと思っている。
小十郎の見立てと同様で、政宗は自分を見失っていると、秀吉は踏んでいる。
だから新領地の回復に力を注ぐべきところを、あのような派手な兵装に資金を使ったりしている。
(ここで一向平気な振りをしておかねば、また儂につけこまれると思っておるのだ)
政宗も奥州では最大勢力の当主として、自分が一番だと思ってきたが、秀吉の登場により臣従せざるを得なかった。
政宗は未だ秀吉に心服していないが、このようにして秀吉に叩かれているうちに、秀吉を頂点とした序列の中に自分の位置を見いだすようになるだろう。

(殿が太閤殿下と渡り合っていくには、柳のような柔軟さが必要である)
政宗の朝鮮出兵に従軍しながら、小十郎は思った。
その柔軟さを、政宗はまだ持っていない。未だに政宗の心は、奥州一の大名のままである。
(そのお心を変えられないのが、殿が自分を見失っている原因である。そのことに殿は、自分からお気づきにならねばならぬ)
政宗の心が定まらない限り、伊達家の波乱は続くだろう。
(家中の何人かは出奔するやもしれぬ。それでも殿を諌めてはならぬ。殿が御自ら、心が頑なであることに気付かねばならぬのだ)
文禄2年(1593年)正月に、明、朝鮮連合軍50000が平壌を攻撃し、小西行長は平壌を撤退、次いで明、朝鮮連合軍は京城も奪還した。
このあたりから、朝鮮出兵は雲行きが怪しくなる。
そして3月、秀吉は明、朝鮮と講和すると決めた。
講和の交渉中、明、朝鮮が交渉を破って攻めてくるのを防ぐため、朝鮮の南岸に城を築くことになった。
政宗は、普請は免除されていた。
(ここで弱気なところは見せられぬ)
と政宗は思った。
「これでは何のために朝鮮まで出向いたのかわからぬ。ぜひそれがしにも普請を仰せつけられたい」
と政宗は、名護屋城にいる秀吉に申し送った。
「それは殊勝である。何かと物入りであろう。普請の間の兵糧を送って進ぜる」
と秀吉は言って寄越したが、
「無用でこざる。我らいくさをしておらぬゆえ、兵糧は有り余っており申す」
と政宗は、秀吉の言葉を突っぱねた。
(言うわ)
秀吉は内心ほくそえんだ。
約1年に渡る戦役で、朝鮮半島は荒廃しており、明軍などは兵糧の不足について、朝鮮の朝廷に不平を言っているほどである。
日本軍もまた明、朝鮮軍ほどでなくとも、兵糧が不足している。
(今頃伊達の家中では、政宗の突っ張りに不平不満が出ているであろう)
事実、伊達家の家中では不満が山積していた。
「一揆で荒廃した領内の再興もまだなのに、殿は朝鮮でのいくさにばかり銭を使っておられる」
「いくさも城普請も免除されておるのだから、これを幸い節約すれば良いものを」
「小田原の陣で改易された家の家中の者達は、未だに報われていない。殿はその者達をどうされるおつもりじゃ」
と影で言われていた。
秀吉の狙いがここにある。
政宗は前線に出ていないので、切り取った領地もない。
部署も朝鮮南部の占領地に当てられて、何もしなければ楽な従軍である。しかしだからこそ、政宗は「何かある」と勘繰って自分から負担を求めていくのである。
武士は見返りのない負担を嫌う。
こうして講和が成り、政宗が朝鮮から日本に戻ってくると伊達成実、国分盛重、遠藤宗信といった重臣達が相次いで出奔した。
(あの者達、儂を置いてーー)
政宗は思ったが、顔には出さなかった。
政宗は領内にいる時は、よく岩出山城から南の空を見た。
(蒲生氏郷が目障りじゃ)
戦国の頃、伊達家は奥州最大の大名だった。
しかし秀吉の世になり、政宗の所領の南により大きな大名家が出来た。
天下は泰平で、政宗が領地を増やす余地はない。
(いや、太閤が亡くなれば)
政宗は思った。秀吉が死ねば再び天下は乱れるだろう。
(その時じゃ、会津を取り戻すのは)
と思うが、はたしてそれができるか?
政宗の戦国期の功業は、伊達家の勢威があってこそである。
しかし政宗以上の大大名となった氏郷に勝利して、会津を切り取ることができるか。
(やるのじゃ!そのためには大名との交流じゃ。太閤の次に天下を取るのは徳川殿じゃ、徳川殿とは特に昵懇にせねばな)
政宗は京にいる時は、大名との交流に精を出した。
明、朝鮮との講和は、土壇場で秀吉が反故にし、再び戦争が始まった。
秀吉は先に愛児鶴松を亡くしていたが、ここにきて、秀吉はもう一人子をもうけた。豊臣秀頼である。
秀頼の誕生により、関白職を譲られていた秀次の立場は微妙なものになった。
秀次は早晩、秀吉の後継者の位置から外されるだろうというのが、世間の味方であった。
政宗は、この秀次とも交流を持った。
(関白殿下は、さほどの器量の御方とも思えぬが)
とも政宗は思ったが、
(さりとて、豊臣の天下が乱れれば、儂がこの関白殿下を担ぐということもあり得る。粗略には扱えぬ)
政宗は、こういうところがある。
普通なら人が距離を置くところを、政宗は権力者の目も気にせずに近づいてしまうのである。政宗のこの性格は、壮年になるまで変わらなかった。

(さて、次の仕掛けをするか)
と、秀吉は政宗の挙動を見ながら思った。
秀吉は政宗の家臣の中で、特に鬼庭綱元を可愛がった。
いや鬼庭ではない。
「良い武者振りじゃ、しかし鬼庭とは恐ろしすぎる。これからは茂庭と姓を改めるが良い」
と言って、秀吉は綱元に茂庭と改姓させていた。
秀吉から姓を賜るとは、陪臣としては破格の処遇である。
しかしこれは、秀吉による伏線である。
「石見(綱元の官位)は太閤殿下の直臣となるのではないか」
と、伊達家中ではもっぱらの噂だった。
(綱元も儂を捨てて?よりによって太閤に?)
と思うと、政宗は気が気でない。

香の前、という女性がいる。
秀吉の側室である。
ある時、秀吉は政宗に香の前を見せた。
「どうじゃ、香の前は」秀吉は言った。
「は、まさに天上の女人のごとく美しきお方にござりまする」
と政宗は言った。
秀吉は何度か香の前を政宗に合わせ、
(さては、殿下は儂に香の前をくださるのではあるまいな)
と政宗は思った。
ところがある時、秀吉は政宗の家臣の鬼庭綱元を呼び、同じ間に香の前を座らせた。
「どうじゃ、儂の側室の香の前じゃ」
と秀吉は、綱元に向かって言った。
「は、実に素晴らしく、美しい女性にござりまする」綱元は言った。
「そなたにやろう」
「は?」
「そなた、このおなごが欲しくはないか?」
綱元は固辞しようとしたが、結局香の前を賜ることにした。
政宗は、そのことを後で聞いた。
(殿下は儂に香の前をくださるのではなかったのか?)
と愕然とした。陪臣の綱元に、政宗を置いて香の前がくだされるとは、政宗にとって恥辱であった。
政宗は綱元を呼び、
「なぜ儂に断りもなく、太閤殿下から香の前を賜った」
と言った。
「ーー太閤殿下の御厚意である以上、拒みがたくござりました」と綱元は言った。
「そちは増長したな」
「は?」
「太閤殿下に気に入られ茂庭の姓を賜って、主をないがしろにしても構わぬと思ったのであろう」
「なんと申される!」
「石見、香の前を儂に寄越せ」
「何を……」
「太閤殿下の側室は、直臣である儂が賜るべきものじゃ。陪臣のそちが賜るべきではない」
「殿下はそれがしに賜ったのでござる!」
「それが間違いじゃ、儂に香の前を渡せ」
「お断り致す!」
このことがあって、文禄4年(1595年)、政宗は綱元に、嫡子の良綱に家督を譲り、隠居するように命じた。
政宗は綱元、わずか100石の隠居料しか与えなかった。
政宗の仕打ちに怒った綱元は、伊達家を出奔した。
政宗は、綱元を奉公構えにした。奉公構えになった武士は、他の大名家への仕官を禁じられる。
「ーーなぜそのように石見殿を追い詰められまする」
小十郎は政宗に諫言した。さすがに見ていられなくなったのだ。
「石見が儂を差し置いて太閤殿下から側室を賜ったりするからじゃ」
政宗は憮然として言った。
「伊達家中には小田原の陣以来、報われてない者が多うござる!そのことを考えられよ!」
とうとう小十郎は、大声で怒鳴った。

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