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安楽死合法化の議論を止めてはならない

安楽死は議論し続けなければならないテーマのひとつだと思います。
オランダのドリス・ファン・アグト元首相と妻のユージェニーさんが安楽死を選択し、映画『PLAN 75』(監督:早川千絵)では75歳を迎えたら自分の生死を選択できる制度が実現した仮想の日本を描きました。
【参考記事】『PLAN75』の地獄を希釈した社会
日本でも安楽死を合法化すべきかどうか考えてみたいと思います。

■安楽死と尊厳死

まずは安楽死と尊厳死の違いについて。

安楽死 苦痛から解放するために死を選択すること。死期の強制短縮。
尊厳死 延命中、回復する見込みが無い場合延命治療を中止すること。自然死。

尊厳死は寿命を全うしたと共感できるでしょう。
一方安楽死は自然死を待たずして自死か他者による殺害となるため議論の結論が出にくいです。

■安楽死の細分化

では安楽死の条件を細分化するのはどうでしょう。
「肉体的苦痛」と「精神的苦痛」と「解放期待値」を段階で分けてみるのはいかがでしょうか。
「取り去ることのできない肉体の痛み」と「解決不能な精神の痛み」について「解放を期待できる手段」を用いてみるのです。
極端な例を出します。
足がとてつもなく痛いとします。想像の10倍の痛みです。これを取り去るには足を切るか足の神経を取れば解決はするでしょう。ですが足を失うことになります。
「肉体的苦痛10ポイント」×「足を失う精神的苦痛10ポイント」×「最終手段による解放10ポイント」で1,000ポイントとなり安楽死が妥当と判断される、というような想定です。

これが効果的だと思えるのは、科学技術の発展により解決可能性が増えていくことです。
足を失うのは苦痛。だけど高性能な義足のおかげでこれまで以上に快適な生活を過ごせるようになった。この場合精神的苦痛を和らげることができ、安楽死を選ばなくても良くなるかも知れません。

ですが問題点もあります。
それは「心はポイント化できるのか」という哲学的問題です。

■心の痛みをポイント化できるか

失恋の痛みは何ポイントでしょうか。
何日も大泣きしてるから100ポイントで、普段通り仕事や学校に行けているから1ポイント、と選別できるものでしょうか。
心の中身は他人にはもちろん、自分にも正確に数値化することはできないでしょう。
物事は日によって、時代によってとらえ方が変わりますし、人生は今日1日だけではありません。過去があって未来があります。人生に必要な心の痛みと、必要じゃない心の痛みはどのように選別できるのでしょうか。

大胆な仮説ですが、僕は「精神的苦痛」は0ポイントにまで無効化できるのではないか、と思っています。
つまり安楽死したいという考え自体を取り去ることができるのではないかと。

■「生きているということ」について学ぶ

安楽死についての議論は、大前提として「生きているとはどういうことか」について考え抜いているかが大事です。
肉体的苦痛があり、かつ自ら命を絶つことが出来ない状況の場合、安楽死をお願いしたいというのは共感可能だと思います。ですが、精神的苦痛による安楽死については考え直してほしいと感じる方も多いのではないでしょうか。
人生は素晴らしいと感じている人は、安楽死を考えている人に対して「人生の素晴らしさに気付いていないだけでは」と考えます。
自殺も同じように、「まだ若いのに」「人生やり直しできる」などと考えます。

僕の場合はこのように考えます。
この広大な宇宙の中で、長い宇宙史の内、なぜか地球の中で生き、なぜか西暦2024年の今を過ごしています。
これまでのつらい経験も、それらがあったからこそ今の僕を形作っています。
そして膨大な物事が複雑に絡まり合って様々な事象を発生させていて、僕はそれら絶対的で巨大な何かに抗えることなど不可能です。
これらが僕の人生観です。
広大で、悠久で、不可逆です。
そのため出来るだけ自殺を選択したくないですし、安楽死も選択したくないと思うはずです。
当事者になってみなければわかりませんが。

■社会から自死を仕向けられるのって自己決定と呼べる?

安楽死は生や死についての考えを深め、熟慮の末に自ら決断を下さなければなりません。
もちろん延命治療を拒否するかどうかも、大切な人たちと話し合い、想いを託しておく必要があります。

僕が恐れているのは、安楽死が一般化した際に死に引きずられる人がいるのではないか、ということです。
安楽死した人の断片情報だけでその人すべてを理解したと思い込み、それならばと安易に安楽死を選び取ってしまう人がいるのではないかと。
世間も安楽死ブームの潮目を読んでしまい、否定することが悪いことであると。否定して生きることを選択させたことの責任など取れないと、そのような浅はかで偽善的な狂った配慮を押し付け合って人々を安楽死へと追いやってしまうのではないかと。
そんな社会な気がして、僕は安易に安楽死賛成とは言えないのです。

自らの生も死も他人にゆだねてはいけません。
漠然とした言い方になりますが、誇り高く選択していただきたいです。

■安楽死を決断した時の自分と、安楽死が実行される時の自分は同じ?

人生観をさらに抽象化してみます。そうすることで哲学性が増します。
それは「安楽死を決断した時の僕と、いざ安楽死が実行されるという瞬間の僕は同一か」という僕の人生観です。
先週は安楽死しか考えられなかった。だが決行当日の今まさにこの瞬間になぜか幸福が訪れている。安楽死したくない。
こんな状況が訪れる可能性があります。
その場合は医師が止めてくれると思いますが、そうではない場合はどうでしょう。
眠ったまま安楽死が実行され起きることは無いかも知れません。
しかも目覚めた時に安楽死のための筋弛緩剤を注入されていたら何も訴えられないまま死を迎えるのです。
ホラー過ぎます。

■議論をすることが大事

まとめます。
僕は安楽死について条件付きで賛成します。
懸念点は安楽死がファッション化することです。
生と死について熟慮すること。そして他者の尊厳を守り抜くこと。これらが伴う議論をし続けることが大事だと考えます。
死というのは戻すことができません。
そして人の想いは無数に存在します。
今後来るであろう安楽死合法化社会に向けて。そして合法化以降も、常に生と死について、安楽死について議論し続けることが大事だと思います。

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