31年目で全国大会へ導いた父の知られざる闘いを残しておきたい

ノーサイドの笛が響き、高校ラグビー界に衝撃が走った。

大分県で33年連続出場してきた大分舞鶴高校が、大分県予選でまさかの敗退。創部して41年、大分東明高校が初めて優勝を勝ち取った。「九州のオールブラックス」の座が崩れ落ちた瞬間だった。

晴れやかなお祝いムードから一歩ひいた場所で、その様子を笑顔で見つめていた人がいた。

30年間大分東明高校のラグビー部の監督を務め、今はもう監督から身を引き、部長の立場となった僕の父である。

父は5年ほど前に監督を退き、現在の監督が指揮を執るようになった。その後留学生がチームに大きな成長をもたらし、創部以来の悲願であった花園進出を達成した。

「新しい監督と留学生が来て東明は変わった」そう考える人は多いだろう。
もちろんそれは事実である。でも、その前の30年間東明ラグビーの火を絶やさずに着実に育て、成長の基盤を作ってきた父がいたことを、一体どれだけの人が知っているだろうか。

これは30年以上東明ラグビーの基礎を作ってきた父の歴史である。

父は、もうすぐ30になる僕が生まれる前からラグビー部の監督をしていた。平日はもちろん、土日もラグビー漬け。1年間の中で純粋に休んだ日は1週間もない年がほとんどだった。
そのため、僕は家族で旅行に行ったという記憶はほとんどない。

父の車がスパイクの泥だらけなのは当たり前だったし、家にいる時も常にラグビー。暇があれば、対戦校や自チームの試合をビデオで見直していた。
家にあるチラシの裏はいつも父が書くサインプレーや選手の動き方、スタメンのパターンなどでいっぱいで、父の字を思い出すと、きまってチラシの裏を思い出してしまう。
決してお遊びで部活の顧問をするのではなく、生活の時間のすべてをラグビーに使っていると言っても過言ではなかった。
高校時代、全国大会を準優勝したメンバーである父は、花園の地を生徒にも踏んでほしい、その思いで指導にあたっていたのだろう。

しかし父のチームは弱かった。強豪校が特待生で次々と優秀な選手を獲得する中、父のチームは15年以上特待生がゼロだった。
特待生がゼロということは、毎年入学してきた生徒の中からラグビーを始める子を探さなくてはいけないということだ。
ラグビーは中学でプレーしている人が少ないので、バスケ、サッカー、野球など、他のスポーツをしていた生徒に声をかけていくのである。
「強い体をつくりたい」などの中途半端な気概の生徒も主力として使わなければならない。ある年には入部生ゼロの年もあった。

15人でチームを作るラグビーは、選手層の厚さがもろに結果に現れる。そのようなチームが勝てるはずがない。
花園に行きたい。毎年生徒と目標を立て、そのたびに県内の強豪校に大差をつけて負け、涙する。そんな状態を15年以上続けたのである。

子どもだった僕は、毎年目標を立て、それに向けてエネルギーを注ぎ、しかし高い壁に阻まれ負け、それでもまた頑張り続ける、父のそんな姿が当たり前だと思っていた。

しかし大人になった今、改めて父の人生を考える。15年という途方も無く長い年月を使って1つの目標に何度破れても向かい続ける、そんなことが僕にできるか、どうしても考えてしまう。

チームの努力の甲斐あって、父がラグビー部を持ち始めて15年経過したこの頃になると県でベスト8の常連校となり、その結果を受けて特待生が1人、2人と取れるようになる。父が40を超えた頃である。
すると新しい問題が発生する。県外からラグビーのために高校に来る学生が増え、彼らの面倒を見る必要が出てきた。地元でない地域に息子を送り出すご家族のケアも必要になる。

父は生徒向けに寮を作った。自ら責任者となって契約を行い、家に帰らず泊まりがけで寮の番をするようになった。保護者会を作り、遠方にいるご両親のための連絡手段や日々の問題を解決する場所を整備した。
この頃、毎晩のように親御さんと電話で話していた父の姿を思い出し、仕事をするってのは大変なことなんだなと感じていた。
寮の整備によって県外からの学生も安心して入学できるようになっただけでなく、県内の学生もラグビーに集中できる環境が整い、より強いチームとなっていく。

それでも、数人上手い選手が居ただけでは、15人で試合をするラグビーは強豪校に勝つことはできない。県ベスト4というところまで行ったとしても、大分の最も高い壁、大分舞鶴高校に大差をつけて弾かれてしまう。そんな時間が数年続いた。
(ちょうど今から10年前の全国大会予選ではかろうじてベスト4に入っているが、決勝は50点以上の大差をつけて舞鶴高校が優勝している)

この頃、今から10年ほど前から、日本の高校ラグビーが徐々に変化を始める。日本でラグビーを学びたいという海外の学生が増えてきたのである。しかもフィジーやトンガ、オーストラリアなどの強豪国である。
海外留学生が入ってきたら強くなるに決まっている。かねてから海外との交流のあった大分の各高校は、留学生受入に名乗りを上げた。

しかし、海外留学生を受け入れるのは並大抵のことではない。語学の問題から、文化や生活の問題、何かあったときのサポート体制など、クリアすべきハードルは非常に多岐にわたる。
ましてやフィジーやトンガなどはラグビーを「国技」として扱っており、そのスター選手を海外に送り込むのだから、なにかあったとするとそれは国技の未来が危ぶまれるということで一段と慎重になるのである。
日本で言う、サッカー・野球の学生スター選手を海外に派遣するようなものである。

父の高校は受入する要請にいち早く向き合い、留学生のための基盤を整えるため、外務省などいろいろな方面と折衝を重ね、様々な条件をクリアした。
条件をクリアすることができた大分県の高校は父の高校1校だけだった。
そしてついに3年前、フィジーからの留学生を迎えることができるようになった。
父はもう50になっていた。

留学生の受け入れと同時に進めていたのは、指導者の拡充と若手の育成。
どんどん高齢化する指導者(ラグビー人口は年々減っており、受け皿がないため若い指導者が減少するのは当然のことである)の中で、自分より一回り若い指導者を引き入れ、さらに僕と同い年の新人教師を、次世代の育成のために学校と交渉して引き入れた。
定常的な強い学生の受け入れとバックアップ体制、そして指導力の強化を仕組みとして作ったのである。

この頃になると、父の学校での立場も大きくなっていた。
もちろんラグビーを指導するために雇われた教師ではないので、担任も受け持つし、教科も指導している。それだけでなく、年を重ねるごとに、教科主任、学年主任と責任が大きくなる。
ラグビーだけに割ける時間が減少する一方で、部活はどんどん強くなる。
より強いチームとなるため、留学生の制度が整ったと同時に、父は若手に監督を譲り、自分は部長として、一歩引いた立場から指導するようになった。

そして今年。毎年入ってくる特待生は10名を超え、その中にはフィジーからの留学生もいる。フォワード、バックスに指導者がそれぞれ着き、質の高い指導ができるようになった。それが今回の勝利に結び付いたのである。

記事に書かれているのは、「監督が交代し、留学生が増えたことでチームが一気に強くなり、強豪校を倒した」ということだろう。もちろん間違っていないし、優秀な監督であることは僕も知っている。ネットで書かれているのも、留学生がいたから勝った、などというものがほとんどである。

ただ、すべてのことはそんな表面的に捉えられるものではなく、そこまではとてつもなく長い道のりだったということを書きたかった。

これまで何度も花園という夢を掲げ、その度に敗れ、自分が監督の間には達成できず、後輩に監督を譲った後、31年目にしてようやく全国大会への切符を掴んだ父は、どんなことを考えてグラウンドで優勝を見つめていたのだろうか。
もちろん嬉しいだろうが、単純に「良かったね」では済まされない哀愁が詰まっていることは、僕ら家族しか知らないのかもしれない。

僕は今回の勝利で、何かを続けていくことの大切さ、そしてどんな勝利にも、その勝利を願って支える方々の努力があり、その上に成功が成り立っているのだと言うことを知った。

勝利に沸き立つグラウンドで、それを身を持って教えてくれた父に「お疲れ様」という言葉をかけて握手した。

先週、花園で大分東明高校は花園初勝利をあげ、また新しい歴史を作った。

これからの歴史を楽しみにしつつ、その歴史にも名が刻まれない多くの人が支えていることを忘れないようにしようと思った。

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