揺らぐ映画の境界線

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2011年、押井守さんと岡部いさくさんのトークイベント、「Howling in the Night ~押井守、《戦争》を語る」のパンフレット用に書いた、3度目の、そして最後の原稿。技術の進歩や興行上の要請によって、映画と演劇、そしてアトラクションとの境界線が揺らいできているのではないか、ということを考察しています。当時の『アバター』の衝撃の大きさが念頭にあったのですが、最終節に書いた疑問は、やはりキャメロン自身が『アバター』の続編を作り上げた時に答えが出るような気がします。

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 百年ちょっと前に誕生してから、映画は何度か技術的な変革期を迎えてきました。そのたびに、映画は劇的な変化を遂げ、それまでとは違う表現形式に生まれ変わってきたと言っても過言ではありません。原理こそ、その誕生時からなんら変わらないものの、技術革新が新たな表現を生み、新たな表現がそれに適した新たな演出を生み、というサイクルを繰り返しつつ、映画は進化してきたのです。
 それは、箱を一人でのぞき込む形式から、大スクリーンへの投写を大勢で見る上映形態への変化に始まり、長編化、音声の付加を経て、さらなる大画面化、ステレオ音声化、そして高画質&高音質化へと続いていったものでした。
 そして今、デジタル革命によって、映画は再び大きく変容しようとしています。しかも、その変容は「映画」という概念の揺らぎをももたらそうとしているようにも見受けられます。
 本稿では、そんな映画の現状を考察していきたいと思います。キーポイントは「映画とアトラクションの境界線、そして、映画と演劇の境界線の揺らぎ」でしょうか。
 さて、現在、映画を大きく変えようとしている技術的な変化は、以下の四点であろうかと思われます。

1)3D化 
2)大画面化(IMAX化) 
3)デジタル化1(グリーンマットによる背景の簡素化) 
4)デジタル化2(フィルムから高画質ビデオ撮影へ) 

 このうち最初の二点は、実はかつて一度試みられたものの、衰退したことのある技術への、再挑戦でもあります。
 一九五〇年代後半から、テレビの普及によって、映画は大きな岐路に立つことになります。家庭でテレビを見ているお客を、いかに劇場に連れ出すか。つまり、いかにテレビとの差違を人々に印象づけて劇場で映画を見てもらうかが、大きな命題となったのです。
 このため、それまで以上の大画面化や立体映画化の試みがおこなわれました。映画の画角が、シネスコだなんだと、どんどん横長になっていった時代ですね。それと同時に、高画質化のためにフィルムも大きくなって、70ミリなんてサイズのフィルムが登場したわけですが、フィルムが大きくなれば当然カメラも大きく重くなり、取り回しが面倒になってしまいます。結局、フィルムの性能が向上した結果、フィルム撮影はほとんど35ミリフィルムで撮影するようになりました。
 また、当時の立体映画は、まだまだ技術が未成熟で(特に初期は、アナグリフ式といって、左右のレンズの色が異なるメガネをかけて見る、白黒映画専用のものが主流でした)、メガネをかける面倒さに比べて効果に乏しく、結局はキワモノとして廃れてしまったのでした。
 今、再びこれらの技術に注目が集まっているのは、技術の進歩はもちろんですが、やはり、またもやテレビの進歩が大きなきっかけとなっていることは間違いありません。
 画角が4:3ではなく16:9の、より映画に近い大型で薄型のテレビの普及、DVDよりもさらに高画質なBRへのソフトの移行、テレビ放送のデジタル化、オンデマンド放送による映像配信の加速等々、家庭内での映像視聴環境がどんどん向上している今、いかにそれに対抗するかが、映画にとっての急務なのです。
 ただし、かつてと違うのは、今やアメリカの映画会社とテレビ会社は一つの巨大な複合企業として、系列化がおこなわれてしまっていることです。そして、ある一つのコンテンツに対して、映画公開からソフト販売、そしてテレビでの放送まで、一つのプロジェクトとして最大限の利益を上げるよう、一貫した戦略が組まれているのです。
 とはいえ、映画は映画館で公開されたとき、もっとも大きな収益を上げることが、大きな目標とされていることは、今も変わっていません。
 そのためには、「家庭では味わえないような映像体験」を映画館での上映で観客に提供することが、重要視されるようになっているわけです。
 こうしてアメリカではここ数年、子供向けのアニメ映画(今やアメリカ製のアニメはほとんどがフルCGであり、立体化に適しています)や、夏休みに集中的に公開されるいわゆるブロックバスター(巨額の製作費・宣伝費を投入、高収益をめざす作品のこと)映画などは、立体映画化やIMAXによる大画面化(皮肉なことに、IMAXは縦に画面が大きくなるため、その画角は従来のテレビの画角である4:3とほぼ同じだったりします)を推し進めてきているというわけです。
 超巨大なスクリーンに映し出される立体映像を見て楽しもうというさまは、物語のおもしろさや映像の美しさを楽しむというよりも、その「体験」をまるごと楽しむという、遊園地のアトラクションに近い感覚があります。
 また、大型のショッピングモール内に、もしくは隣接して建てられたシネコンに出かけていくという行為そのものが、遊園地に出かけるのと似た、「遊びに出かけていく」雰囲気を持っています。
 今や、映画館と遊園地、映画とアトラクションとの境界線が揺らぎ始めているのです。いや、元々、映画はまず「見世物」でありましたから、原点に向かって大きく回帰していると言ってもいいかもしれません。
 もっとも、その試みが常に成功しているとは必ずしも言えないのは、すでにIMAX版や3D版の映画を見たことのある人なら、おわかりでしょう。ぶっちゃけた話をしてしまえば、せっかくの大画面や立体画像が、効果的に使われていない映画があまりにも多いのです。
 映像体験としてのIMAXや3Dは、通常の横長画角の平面的な2D映像とは、まったく異なる映像設計を必要としているのに、今までと同じように撮っていたのでは、効果は半減してしまうというわけです。

 一方、残りの二点として指摘した映画のデジタル化は、撮影現場の側に大きな変化をもたらしつつあります。
 これまで映画は、「いかにリアルな映像を撮るか」を追求するため、精密なセット、大道具、小道具を作り、さらにはスタジオを飛び出してロケ撮影をおこない、現実の事物の中で俳優たちに芝居をさせる方向に進化してきました。舞台がニューヨークの街角なら、ニューヨークの街角で撮るのが一番だというわけです。
 ところが、デジタル合成技術の進化が、この常識を打ち破りつつあります。
 もはや、俳優たちは合成用のステージ上で演技するだけで、ニューヨークだろうが、(現実には存在しない)どこかの惑星上だろうが、背景は別に撮影するなりCGで作成するなりしたものを、あとから合成すれば、現実感満点のリアルな絵を作ることがいくらでも可能なのです。
 実際アメリカでは、大予算の劇場映画はもちろんのこと、今や多くのテレビドラマがこの手法を使っています。元々、俳優たちはロサンゼルスのスタジオから一歩も出ないまま、世界各地を舞台にしたドラマがどんどん作られていたのですが、デジタル合成を多用することで、それをより安価かつリアルに実現できるようになったのです。
 また、フィルム撮影からデジタル撮影へと、撮影の方法が移行し始めているのも、今の映画の大きな特徴です。
 まだまだ、その豊かな表現力と蓄積された膨大なノウハウに惹かれて、フィルム撮影を支持する監督やカメラマンが多数派ではありますが、年々デジタルカメラの性能が劇的な向上を遂げていることもあって、全編デジタル撮影の映画やテレビドラマが増えてきています。
 デジタルカメラを使った撮影には、簡便さや低コスト、撮影後の編集や合成の利便性といった長所があります。何よりも、フィルムの残数を気にすることなく、思う存分撮影を続けられるという点が、それまでのフィルム撮影と異なります。今までは残数を気にしながら、できるだけフィルムを使わないように撮影することが良しとされてきたわけですが、デジタル撮影ではそんなことは気にせず、どんどんカメラを回してもかまわなくなったというわけです。
 このような撮影環境下で、俳優に求められることは、何もないステージ上にあたかもいろんなモノが存在しているかのようにふるまい、一カットごとではなく、一シーンごとに演じきる演技力です。
 それは、ありとあらゆる大道具小道具に囲まれ、細かいカットごとに撮影を繰り返す従来の映画よりも、舞台劇のお芝居に近い演技を要求されるということなのです。
 つまり、今や俳優たちにとっては、映画と演劇の境界線が揺らぎ始めていると言ってもいいでしょう。
 実際、後述する映画「アバター」の出演者であるシガニー・ウィーバーやスティーヴン・ラングは、撮影現場では舞台での経験が大変役に立ったと、メイキング映像で語っています。

 ここまで話してきたすべての要素を兼ね備えた映画こそ、一昨年大ヒットを記録した、ジェームズ・キャメロン監督の「アバター」です。
 ストーリーやデザインの陳腐さはいかんともしがたいのですが、ここまで書いてきた四点を考えに考え抜いて作られたとおぼしき、その画面設計と演出スタイルは、映画館の大スクリーン(もちろん、IMAX&3Dという環境)で見たとき、圧倒的なまでの視聴「体験」を私たちに与えてくれるものでした。
 IMAXの縦に広い画面を存分に生かすため、上下にダイナミックな移動を繰り広げるメカやキャラたち。
 ほぼ全編パンフォーカス(画面の隅から隅までピントが合った状態のこと)で、最低でも三つ以上のレイヤー(遠景・中景・近景)が重ねて配置され、常に立体を意識させてくれる画面構成。
 背景などはCGで合成するため、合成用のグリーン・スクリーンで囲われている以外、ほとんど何もない倉庫のようなステージで、まさに舞台劇のように、自らの想像力を駆使して演技していた俳優たち。
 そして、独自に開発されたフュージョン・カメラ・システムと呼ばれる、3D撮影用のデジタルビデオカメラを使って、延々とおこなわれた撮影。
 それらはすべて、四つの技術革新に対応した、新しい映画作りのノウハウの集積です。そして、「アバター」の大ヒットによって雨後の竹の子の如く次々と作られている3D映画の多くが、上手に再現できてないものでもあります。

 映画のアトラクション化、そして演劇化は、映画の境界線がある意味「先祖返り」的な方向へと揺らいでいるのだとも言えます。
 それが、「アバター」を越えて、さらなる新しい映像表現を生んでいくのか、それともかつての大画面化や3D化と同じように、一時の流行として廃れていってしまうのか。私たちは今まさに映画史の転換点を目撃しようとしているのです。

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