シーゲルと007についての小文二つ

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 2001年に『ハヤカワミステリマガジン』に書いた原稿を2本。
 ドン・シーゲル作品と007という、ある意味両極端な「男の夢」について、まだまだ青臭いオヤジ(当時30代後半)が語っております。

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「シーゲルに憧れて」

 若い頃は、ドン・シーゲルの映画に出てくるような男、いやオヤジになりたかった。
「突撃隊」のスティーヴ・マックイーンはちょっと若すぎるとしても、たとえば「殺人者たち」のリー・マーヴィン、「刑事マディガン」のリチャード・ウィドマーク。「突破口!」のウォルター・マッソー。そして、「マンハッタン無宿」も「ダーティハリー」もいいが、なんといっても「アルカトラズからの脱出」のクリント・イーストウッド。ああいう男くさいオヤジになりたかったのだ。
 シーゲルの映画に出てくる男たちは皆、自らの執着した目的に向かって一直線に突っ走っていく。その執念たるや、尋常の人のものではない。

 特に「刑事マディガン」、「マンハッタン無宿」、「ダーティハリー」の刑事アクション三作は、犯人を追う主人公の執念が強烈に伝わってくる傑作であることに異論を唱える人は少ないだろう。今見ると、最近の刑事アクションのような派手なアクション・シーンが実に少ないのに驚かされるが、それでも物語に緊張感が持続しているのは、なにがなんでも犯人を追いつめようとする主人公の気迫と異様なまでの執着の凄まじさゆえである。
 三作品ともその後シリーズ化(「刑事マディガン」から「鬼刑事マディガン」、「マンハッタン無宿」から「警部マクロード」(性格にはこれは設定が似ているだけだが)がそれぞれTVシリーズ化され、「ダーティハリー」は続編映画が四作作られている)されているのも、主人公の強烈なキャラクターが受けたからだろう。

 だが、それらよりも強烈なのが「突破口!」や「アルカトラズからの脱出」などの主人公たちだ。マディガンやダーティハリーのような刑事たちには、正義という錦の御旗があるが、これらの作品の主人公はどちらも犯罪者であり、実のところその行動を正当化することはできなかったりする。なにせ、片や強盗、片や脱獄が目的なのだから。
 もっとも、だからこそこれらの作品の主人公たちの行動は、その一途さが際だっているのだ。ことの善悪に関わりなく、あくまでも目的を果たそうとする強固な意志に、筆者のような軟弱な男はただただ尊敬の念を抱いてしまっていたのだ。

 ただ、筆者も今や押しも押されもせぬ中年である。この歳になると、昔のように単純にシーゲルの描く男たちに憧れてばかりもいられなくなってきた。なぜなら、よくよく考え直してみると、彼らの人生はどれもあまり幸せなものとは言えないからだ。
「第十一監房の暴動」、「突撃隊」、「刑事マディガン」、「ラスト・シューティスト」などのように、最後に主人公が本当にひどい目に遭う話も多い。それに、まだ上記の作品の主人公たちは自分の執着を成就させるからいいようなものの、「ボディ・スナッチャー/恐怖の町」や「ガンファイターの最後」、「白い肌の異常な夜」となると、これはもうただただ不幸である。なにせ、皆、自らの規範も執着も理解しない周囲の人々に押しつぶされていくばかりなのだから(SFである「ボディ・スナッチャー/恐怖の町」では、宇宙から来た怪物が町の人々と入れ替わっていくが、これは理解しあえない隣人のメタファーそのものだ)。
 一方で、「ダーティ・ハリー」や「突破口!」のように、一見ハッピーエンドのように見える作品においても、主人公の人生がハッピーなものかどうかは、かなり疑わしい。ハリーは最後に警官のバッジを投げ捨ててしまうし、「突破口!」の主人公チャーリーは仲間を全て殺されて一人になってしまう。

 そう。ほとんど例外なく、シーゲル作品の主人公たちは孤独なのである。彼らは、自分の信念や規範にこだわるあまり、そして、なまじそれを実行できるほど能力が高いあまり、周囲から浮いてしまっているのだ。ごく少数の理解者をのぞけば、彼らはたいてい他の人々から拒絶されている。そして彼らの方もまた、おのれの規範からかけ離れた他者を拒絶している。彼らはまさに孤高の人なのだ。
 確かに、シーゲル作品の主人公たちはかっこいい。男の中の男だと言ってもいいだろう。だが、シーゲルは、そんな男たちのかっこよさと共に、それゆえに彼らが孤独であること、時として手痛いしっぺ返しを食らってしまうことも冷静に描いている。その冷静さ、情け容赦のなさが、これまた実にハードでかっこいい。それは、今時の甘口でハッピーなアクション映画にはない「本物」の味わいだ。

 さて、ではそんなシーゲル作品の主人公のようになってみたいと、今でも思っているかというと、筆者の本音は「ノー」だったりする。あんな人生、なかなか貫き通せるもんじゃないし、できたとしてもその達成感以外何も残らないし。それよりは、凡人として小さな幸せを感じていたいじゃないですか。ねえ。

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「ここが変だよ007」

 007とはつまりは男の夢の塊である。夢の塊であるがために、イメージのおもしろさを優先するあまり、時として大きく現実から逸脱することもある。たとえば映画版『サンダーボール作戦』の中で、海中からの潜入に成功したジェームズ・ボンドがウェットスーツを脱ぎ捨てると、皺一つない純白のスーツ姿になるという有名なシーンがある。あのスーツは形状記憶合金でできてたりするのだろうか(とか言っていると最近では本当に形状記憶シャツなるものを売っていたりするから世の中油断がならない)。

 007は基本的にはシリアスな語り口の冒険小説/アクション映画でもある。したがってこのような逸脱が過ぎると物語の真実味が薄れてしまう。かといってあまりにリアルでシリアスな方向に振れてしまうと、映画『消されたライセンス』のように他の冒険小説/アクション映画との差別化ができなくて埋没してしまう。だから、007(特に映画版)は常にリアル化とファンタジー化のあいだを揺れ動いているわけで、毎回のそういった「振れ」そのものを楽しむという見方も当然あり得る。

 とまあ熱烈な007マニアとしては、一応もっともらしい言い訳をしたうえで、007のおかしなところに言及していきたい。
 特に映画版に顕著なのはなんといっても敵味方が使用する新兵器・珍兵器の数々だろう。 一番でかくてバカげているのは、なんといっても映画版『ダイヤモンドは永遠に』に出てくるレーザー衛星だろう。大量のダイヤを組み合わせた巨大なレンズ状の物体を「レーザー」だと言われても。悪の秘密結社スペクターはこれを使って地上を攻撃すると各国を脅迫するのだが、こんなものに太陽光を通しても周囲に乱反射するだけで、レーザーのようなコヒーレントな光を作ることはおろか、レンズのように光を一点に集めることもできないはず。つまりはまったく役に立たない代物なのだ。

 ボンド自身の装備にもバカげたものが多い。映画版『私を愛したスパイ』に登場したエンジンつきホバークラフトつきゴンドラ(ベニスの運河を航行しているアレ)は百歩譲って許してもいい。だが映画版『オクトパシー』に出てきたワニの姿をした潜水ボートはいくらなんでもどうかと思う。見つかりたくなかったら潜ってりゃいいんだから、何もそんな格好しなくても。

 映画、小説を通して変なのは、ボンドの行動そのものだ。007は自国内でのみ活動する「スパイハンター」ではなく、あくまで他国で隠密理に活動(もちろんその中には暗殺も含まれる)する潜入工作員である。だからこそ毎回職業や出身地も偽るわけだが、そのくせほとんどの場合、名前だけは偽名を使ったりせず本名を名乗るのである。なるべく身元を隠すべき工作員にとって、これはまったく不自然な行動だ。確かに偽名を名乗ったりしたらお決まりの名セリフである「ボンド、ジェームズ・ボンド」という自己紹介ができなくなってしまうが。また、本来ボンドはユニバーサル貿易なる会社(00セクションの表の顔として設定されている)の社員ということになっている。本名を使うのであれば素性の方も毎回変えたりせずにこちらで通した方がより自然なはずだ。

 もっとも、007を巡る最大の謎は彼の年齢だろう。映画版の場合、初代のショーン・コネリーから三代目のロジャー・ムーアまではみな同世代なので、同一人物が整形でもしたの考えてもいいのだが、四代目のティモシー・ダルトンと五代目のピアース・ブロスナンは明らかに若返っている。
 ただ、映画においては役者が入れ替わったこともボンドの年齢についても一切言及しないことになっているので、とりあえずそのことについては忘れるということも出来るのだが、問題は小説版のほうである。

 フレミング没後、八〇年代に入ってジョン・ガードナーが書き始めた新ボンドシリーズ(九七年以降はレイモンド・ベンスンがガードナーの後を受けて執筆中)では、一応作品世界内の連続性は保たれており、007はフレミングが五三年に小説版『カジノロワイヤル』で初登場させたジェームズ・ボンドその人ということになっている。また、ガードナー版の何作かでは、ボンド自身が自分の年齢について「もう若くはない」というような言及もしている。それどころか小説『メルトダウン作戦』のヒロインは旧友であるFBI捜査官フェリックス・ライターの娘だったりするし、その後の作品では退役海軍中佐から現役の海軍大佐に復帰、一旦はMに00セクションの指揮を任せれるようになったりもする(そんな人物が一人で敵地に乗り込んで活躍するのもどうかと思うが、幸いこの設定はベンスンがライターになった時点で忘れさられてしまう)。

 しかし、フレミングの設定によればボンドは遅くとも一九二〇年代の生まれで、いまや八〇歳前後ということになってしまうのである。これでは現場の工作員はおろか、組織の長としてもとっくに引退の頃合いだ。
 小説版・映画版ともに一番合理的な説明は、パロディ映画版『カジノロワイヤル』で言われていたように、ジェームズ・ボンドという名前も007という番号同様のコードネームであり、そのときそのときのトップ・エージェントに代々受け継がれていくという考え方だと思うのだがどうだろう。

 バカな話を延々と書き連ねてしまったが、こんな揚げ足取りも又007を愛するが故。好きだからこそディティールが気になり、いちいちチェックしてしまうわけで、小説は新訳版(新ボンドシリーズの翻訳が止まってしまっているのは寂しいが)が、映画はDVD版が続々と発売されている今、読者諸兄もこのように少し意地の悪い観点から改めて楽しんでみられては?

《後記》
 今や小説も映画も、ボンドの年齢や来歴に関しては開き直っちゃったみたいで(笑)。
 映画のほうは、Mはジュディ・デンチのまま、ボンドをダニエル・クレイグにしたときに、時系列を一から巻き戻しちゃうし、小説のほうは、執筆者次第でボンドの経歴がオリジナル通りだったり現代に合うように再設定されてたりで、どっちもまったくつじつまが合っておりません。まあ、お話はおもしろいからいいかぁ(敗北宣言w)。

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