『十二国記』再訪「風の海 迷宮の岸」篇

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 昨日に引き続き、2009年から2010年にかけ4個に分けて発売された、テレビアニメ『十二国記』のブルーレイボックスに添付されたブックレットのために書いた原稿(文中の作品リストなどのデータ類は当時のものです)の第二弾です。

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1.幼き麒麟の物語
 本BOXに収納されている『風の海 迷宮の岸』篇は、前BOX収録の『月の影 影の海』篇の七年ほど前の物語であり、同じ十二国の世界を舞台にしている以外、一見すると共通点はないように見える。
 原作では、このようにバラバラに見える各作品の物語を丹念に読んでいくことで、それぞれの作品のあいだにある関連性が見えてくるという構成をとっており、それを読み解いていくこともおもしろさの一つである。
 しかし、アニメ版では、毎週連続で放送されるという形態に合わせて、陽子を主人公とする長い物語として最初から見ていけるように構成し直されているところが大きく違う。
 そのため、アニメ版における『風の海 迷宮の岸』の物語は、蓉可の回想として陽子と景麒に語られ、それと並行するように(物語世界内での)現時点での泰麒の姿を杉本の視点で追う形をとっている。
 特に発端部では、原作通りの導入のあとに、原作にはない杉本が要(泰麒)を訊ねる場面、そして陽子と景麒が蓬廬宮へと赴く場面が挿入され、『月の影 影の海』の物語が終わったあとの日本と十二国の世界を見せたあと、回想としておもむろに原作の場面へと戻っていく構成となっている。このあたりの杉本の使い方や、原作でバラバラに提示されていたエピソードのつなぎ方は実に絶妙である。
 また、原作以上に個々の物語のつながりを意識して、他の作品に登場する重要なキャラクターたちをちらりと登場させているところもおもしろい。ただし、どのキャラクターも一瞬しか出てこないので、注意してみていないとわからない。
 たとえば、外伝『魔性の子』から生田先生、そして『風の万里 黎明の空』から蘭玉と桂桂の姉弟、そして陽子と共に活躍することになる鈴(ここでは女仙・木鈴)等が顔を出している。
 また、泰麒に麒麟についていろいろと教えてくれる人物として、犬狼真君も登場する。彼は原作の『図南の翼』にこの呼び名で登場しているだけでなく、『東の海神 西の滄海』にも重要なキャラクターとして別の名前で登場している(ちなみに、《十二国記》の作品世界内での時系列では、『東の海神 西の滄海』、『図南の翼』、そして『風の海 迷宮の岸』という順番なので、ここに登場する犬狼真君は、それらの物語における事件を経験したあとということになる)。
 これらのゲストキャラたちは、アニメ版『風の海 迷宮の岸』における原作ファン・サービスというところだろうか。
 本作は、ときおり上記のような意外な人物たちが姿を見せる以外は、基本的には原作に忠実に泰麒の少年時代のエピソードが描かれていく。

 景王・陽子の物語である『月の影 影の海』が、十二国の世界において王を決める天啓とは何なのかを王の立場から見たものだとすれば、この『風の海 迷宮の岸』は泰麒の物語である以上、天啓について麒麟の立場から見たものだといえる。だから、前半部では、麒麟とはいかなる生き物であるかが詳しく描かれ、後半では、麒麟が王を選ぶというのはどういうことなのかが描かれているのである。
 前半部の中でも、これまで描かれてこなかった蓬廬宮での麒麟の生活が初めて詳しく描かれている部分は、とても興味深い。特に、女怪の白汕子が泰麒と戯れているところは、原作の文章で描写されたグロテスクな容姿をかなり忠実に映像化したうえで、汕子を一途でけなげな生き物として見せているところがとても良い。

 先に触れたように、『月の影 影の海』は陽子が景王となる物語であり、『風の海 迷宮の岸』は要が泰麒として泰王を選ぶ物語である。
 いずれの物語も、主人公が胎果として日本で生まれ、十二国の世界に戻っていったという設定となっている。これは、読者(または視聴者)と同じ視点に立って十二国の世界を案内するという機能を、陽子と要が担っているからだ。また、《十二国記》のような異世界ファンタジーにおいては、我々の世界に住む主人公が、主な舞台となる異世界を来訪するという形式は、定番の一つでもある。
 ただし、陽子や要がこちらの世界で生まれ育ったということにはそれ以上の意味がある。いや、それ以上の意味を原作者が与えていると考えるべきだろう。
 それは、自分が住んでいる世界に強烈な違和感を感じ、「ここではないどこか」にあるかもしれない自分の居場所を激しく希求する想いとでもいったものだ。この、若者にはありがちな空想に対して、小野不由美は強いシンパシーを持って描きながらも、常にそれを否定して現実を直視することの大事さを指摘する。だから、あるはずのない「ここではないどこか」にたどり着いた陽子や要は、その地が逃げ場とはなりえないことを思い知らされるのである。

 また、本作が前作『月の影 影の海』と大きく異なるところは、前作では語られなかった、麒麟による王選びの詳細を描いているところだ。
 本作では、「麒麟が天啓を得て王を決める」と告げられた泰麒が、王候補たる昇山者たちを前にしても、天啓が何なのかまったくわからなくて悩むところから始めて、「王気」とは何か、「天啓」とは何かについて、描いているのである。
 泰麒は、自分が麒麟として未熟なせいで王を見いだせないのかと思い悩むのだが、では「王たる者の条件」とは何なのだろう。
 前章『月の影 影の海』では、王に選ばれてしまった主人公(陽子)が、王としての自覚を持っていくまでを描いていた。だが逆に言えば、景麒に選ばれた時点の陽子は、王としては未熟であり、そのまま王になっていれば、前王同様慶の国を傾けてしまったのではないだろうか。
 我々視聴者は、陽子や泰麒、景麒、尚隆、六太といった「正しい王と麒麟」を主人公とする視点からこの十二国の世界を眺めているため、ともすればシステムのおかしなところを忘れて「陽子は王に選ばれただけあって、立派な人物だ」などと思いそうになるが、実際には「陽子は景王だから立派」なのではなく「景王は陽子だから立派」なのである。しかもそれは、数々の試練を乗り越えた陽子だからであって、王に選ばれる以前の普通の高校生だった陽子のことではない。
 だとすれば、天啓とは何を基準に王を示すのか。少なくとも、その人の現在の力量などとは無縁なのではないか。
 そう考えたとき、十二国の世界を司るシステムの理不尽さに対する疑問がふつふつと湧いてくるのだが、本章における泰麒の迷いは、その疑問をさらに強く感じさせるものだ。これらの描写こそ、原作者である小野不由美が十二国の世界の謎を明かすため、シリーズ全体に仕掛けた周到な伏線だと見るのは深読みのしすぎだろうか。

 物語のクライマックス、前作から引き続き野登場で、視聴者にもすっかりお馴染みとなっているであろう延王尚隆・延麒六太の名コンビが登場し、泰麒の悩みは杞憂に過ぎないことを証明し、表面上はハッピーエンドを迎える。
 しかし、「麒麟は自分の王以外には頭を下げることができない」ということが明らかになり、「天啓」というものが厳として存在するということは確かに示されるのだが、それが麒麟による王選びについてのすべての疑問を解消してくれたかということになると、全く話は別である。
 なぜなら、別に泰麒は、頭を下げられる人物を捜した結果、驍宗を王に選んだわけではないからだ。前話の描写から明らかなように、泰麒はあくまで驍宗という人の魅力を感じて、彼を選んでいるのである。ということは、そこには麒麟の意志が働いているわけで、それと「自分の王でない者には下げようとしても頭が下げられない」という魔法じみたシステムとのあいだには、直接的な関連性があるようには見えない。
 つまり、よくよく注意して見てみれば、ここでの結論には、麒麟が王を決める際に、自由意志が働いているのか、それとも、麒麟の意志とは別の何らかの判断機構が存在するのかは、明言されていないのである。
 この曖昧さの中にこそ、十二国の世界を支配する仕組みにおけるほころびが隠されているのではないだろうか。

 さて、物語は原作と違い、アニメ版における現時点である陽子の即位直後へと戻って話を閉じる。このとき、泰麒は十二国にいたときの記憶を失い、再び高里要として日本で高校生となっている。
 アニメ版では残念ながら映像化されなかったが、原作においてはこのあと、泰麒の十二国への帰還を巡って、大きく物語が動いていく。
 外伝である『魔性の子』では、日本を舞台に、高里要が自分の素性を悟り、十二国の世界に戻るまでを、ホラー・タッチで描かれている。そして、今のところ最新の長篇である『黄昏の岸 暁の天』では、同じ事件が十二国にいる陽子たちの側から描かれているのだ。
 だが、いずれの作品でも「なぜ、泰麒が再び日本へと渡っていってしまったのか」という謎については語られないままとなっている。この泰麒再失踪の謎こそ、原作シリーズ全体を貫いている大きな物語の鍵であると考えるべきだろう。全ての原作ファンが、さらなる展開を待ち望んでいることはまちがいない。

2.十二国記の源流を探る その2
 アニメ版『十二国記』では、重要な脇役として旅芸人の一座がたびたび登場する。だが、十二国の世界における旅芸人とその演目については原作ではあまり詳しく述べられておらず、アニメ化にあたって原作者の小野不由美氏によって新しく設定がおこされた。
 それによると、旅芸人たちの芸には、生の情報に近い事実を語るもの、揶揄的な脚色を施した芝居のようなもの、それら現世的なものから離れた宗教的なものの三つが存在するとされている。
 しょせんは流民にすぎないながらも、マスメディアのない十二国の世界における「報道人」としての若干の自負を持つ旅芸人たちは、体制に対しては揶揄的に、民衆に対しては同情的に、また、事実と物語は分離してという具合に、題材に合わせてこれら三つを使い分けるというのである。
 また、それぞれの呼称については、やはり小野氏が中国宋代の資料から選び出した。
 すなわち、
「小説」:事実を語る講談。脚色が少なく、ニュースのようなもの。
「雑班」:事実を脚色した風刺劇。第三話に登場した先の景王のロマンスを風刺した芝居はこれにあたる。
「神鬼」:神話・伝説を扱った宗教劇。歌と演奏、踊りなどをまじえながら、世界を讃え、天帝諸神を称える。
 の三つの演目が存在し、旅芸人は最低この三つは演じるようになっていて、一座が大きなものはさらにいろいろな芸が加わることになる。
 これら、旅芸人が演じる芸は、十二国の世界の民衆たちが無意識のうちに心の底に蓄えている不満や怒りの現れであり、この世界が様々なひずみに満ちていることの現れでもある。

 さて、では実際の中国宋代における大衆演劇とはいかなるものだったのだろうか。
 中国で大衆演劇が芽生えたのは唐の時代だと言われている。だが、唐代後期の戦乱によってその芽は途絶え、実際に大衆演劇文化が花開いたのは、宋代になってからだった。
 この時代、中国は安定した平和な時代を迎え、文化や芸術を称揚する皇帝が幾人も現れたため、一気に文化的な発展をみせたのだった。
 また、それに伴って経済も発展したため、庶民の生活水準も向上し、街には娯楽が溢れるようになった。そして、瓦子(がし)と呼ばれる盛り場のようなものも誕生し、酒場や劇場、商店が立ち並んだ娯楽の場として発展していった。そんな環境の中、庶民文化としての歌舞曲、演劇、講談などが生まれ、広まっていったのである。
 唐代に生まれた初期の演劇は、「参軍戯」と呼ばれるボケとツッコミによる言葉遊び中心の即興的なコントだった。宋代に入り、その流れをくんだ「宋雑劇」が人気を博するようになった。これは歌や踊りが詰まった狂言にも似たもので、やはり滑稽なモノが多く、宮廷から一気に民衆の世界にも広まっていった。《十二国記》における「雑班」は、これに近いものではないかと思われる。
 その一方で、諸宮調(うたいもの)という、日本の落語や講談に似たものも流行した。これは、「話本」と呼ばれる種本を元に、観客の要望やその場の雰囲気に合わせて、臨機応変に物語を語っていくというもので、内容ごとに恋愛ものの「小説」と軍記ものの「講史」とに分けられていた。
 これは、宋代後期(南宋)にはさらに発展、細分化され、さらなる軍記ものの「説鉄騎」や仏教説話ものの「説経」なども登場、三国志演義の原型となる「説三分」や西遊記の原型となる「大唐三蔵取経詩話」なども生まれ、広く支持されることとなった。これは、《十二国記》の世界における「小説」にもっとも近いものではないかと思われる。
 また、慶弔の折々に行われる慶祝演劇や鎮魂演劇といったものも、宋代に発生するが、《十二国記》の世界で「神鬼」と呼ばれている宗教劇は、どちらかというと演劇が発展する前の、唐代より前の時代に生まれた宗教的祭儀に近いのではないだろうか。
 ともあれ、こうして生まれた演劇は現代中国にも脈々と受け継がれており、今もなお実に三百種類以上にのぼる伝統演劇(地方劇)が存在していると言われている。それはまさに、一般大衆の声なき声の表れであり、ある種の祝祭なのであろう。

 もちろん、中国宋代の演劇と《十二国記》の世界における大道芸とは、似て非なるものではあるのだが、そこに込められた思いは同じものではないだろうか。

3.小野不由美の世界
 本稿では、『十二国記』の原作者、小野不由美とその作品について、少し言及しておきたい。

 小野不由美は一九六〇年大分生まれ。
大学在学中は、京都大学ミステリ研究会に所属していた。また、大学時代から現在まで、一貫して京都に住んでいる。
 八八年、『バースデイ・イブは眠れない』でデビュー、翌八九年、《悪霊》シリーズ(現在は《ゴースト・ハント》シリーズとも呼ばれる)の第一作『悪霊がいっぱい!?』を発表、人気シリーズとなる。
 そして、九二年に《一二国記》の第一作『月の影 影の海』を発表、東洋風異世界ファンタジーの大作として、一躍注目を浴びる。
 さらには、九四年の『東亰異聞』、九八年の『屍鬼』で、ティーンズ向け叢書から一般向けに進出する。

 ほとんどの作品がホラーもしくはファンタジーに分類されるが、かつて大学ミステリ研に在籍していたことからもわかるように、理性的、論理的なプロットが特徴的でもある。
 初期の人気シリーズである《悪霊》シリーズにも、その特徴が存分に生かされており、毎回主人公たちは、遭遇する怪現象を科学的かつ論理的に分析し、その背景にある真実に迫るという構成をとっており、超常現象に頼らない真相に至る作品もある。さらに、主要登場人物の一人の正体について、シリーズ全体にわたって巧妙に伏線が張り巡らされているところも、いかにもミステリらしい趣向となっている。
 もう一つの特徴的な作風として、善悪を一義的に描かず、硬直した価値観に対して常に疑義を示している部分がある。
 それがもっとも顕著にあらわれているのが、西洋の代表的な怪物である吸血鬼を、日本の寒村に持ち込んだ『屍鬼』だ。
 この作品は、ほとんど途絶えていた吸血鬼小説を、現代アメリカの田舎町を舞台に蘇らせたモダンホラーの傑作『呪われた町』(スティーヴン・キング作)を、見事なまでに換骨奪胎してみせた、質量共に『呪われた町』に勝るとも劣らない傑作である。
 だが、この作品は単に吸血鬼伝説を現代日本に移植してみせただけでなく、後半に至って、人間=善、吸血鬼=悪という単純な二項対立の枠組みを離れ、各登場人物の思惑が入り乱れ、正邪の判断が崩れ去っていくところに大きな特色がある。
 一見、勧善懲悪調に見えなくもない《十二国記》の物語も、注意深く読めば、これらの作風は脈々と受け継がれている。
 繰り返し提示される《十二国》のシステムに対する問題提起や、物語全体の大きな伏線であることが予測される泰麒の失踪にまつわる謎などからも、《悪霊》シリーズのように、《十二国》の世界全体に関わる大きな「仕掛け」が存在していることが予測できるからだ。

 近年、すっかり寡作の人となっているが、《十二国記》の続編を含め、多くの読者から新刊を待ち望まれていることに変わりはない。
 願わくば、遠からず新作を読める日が来ることを期待したい。

小野不由美著作リスト(書籍化されたもののみ)
『バースデー・イブは眠れない』(1988年)
『メフィストとワルツ!』(1988年)
『悪霊なんかこわくない』(1989年)
『悪霊がいっぱい!?』(1989年)
『悪霊がホントにいっぱい!』(1989年)
『悪霊がいっぱいで眠れない』(1990年)
『呪われた17歳』(1990年)
『悪霊はひとりぼっち』(1990年)
『グリーンホームの亡霊たち』(1990年)
『悪霊になりたくない!』(1991年)
『魔性の子』(1991年)
『悪霊と呼ばないで』(1991年)
『月の影 影の海』(1992年)
『悪霊だってヘイキ!』(1992年)
『風の海 迷宮の岸』(1993年)
『悪夢の棲む家』(1994年)
『悪夢の棲む家』(1994年)
『東亰異聞』(1994年)
『東の海神 西の滄海』(1994年)
『風の万里 黎明の空』(1994年)
『過ぎる十七の春』(1995年 『呪われた17歳』の改訂版)
『図南の翼』(1996年)
『ゲームマシンはデイジーデイジーの歌をうたうか』(1996年 エッセイ集)
『緑の我が家 Home、Green Home』(1997年 『グリーンホームの亡霊たち』の改訂版)
『屍鬼』(1998年)
『黒祠の島』(2001年)
『黄昏の岸 暁の天』(2001年)
『華胥の夢』(2001年)
『くらのかみ』(2003年)

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