《ガイア》三部作に見られるヴァーリイのテーマ性

《ガイア》三部作に見られるヴァーリイのテーマ性

【投げ銭システム:有料に設定されていますが、無料で最後まで読めます。最後まで読んで「気に入ったから投げ銭あげてもいいよ」と思ったら、購入してやってください】

 1994年、『SFマガジン』のジョン・ヴァーリイ特集に書いたモノ。
 とうとう、《ガイア》三部作の完結編『デーモン』は翻訳されることがなかったのが、とても残念です。
 ヴァーリイといえば、70年代から80年代にかけて、アメリカで次々にSF関係の賞を取りまくっていた人気作家であり、現地では今でも一目置かれている作家なのに、日本ではすっかり影が薄くなってしまっているのが悲しいすなあ。『残像』、『ブルー・シャンペン』、そして『へびつかい座ホットライン』と、傑作揃いなのに。
 というか、個人的には、(軽量級なお話ながら)2000年代に発表された《Red Thunder》三部作が翻訳されて欲しいなあ、と思っていたりもするのですが……。

--------------------------------

 ジョン・ヴァーリイの著作中最大最長の長編、それが『ティーターン』("Titan",1979:創元SF文庫)、『ウィザード』("Wizard",1980 :創元SF文庫)、『デーモン(仮題)』("Demon",1984:未訳)からなる、いわゆる《ガイア》三部作である。

  その第一部『ティーターン』は、NASAの深宇宙探査船《リングマスター》が土星の衛星軌道上に巨大な人工建造物を発見したところから始まる。最初、土星の未発見の衛星かと思われたそれは、直径が千三百キロにも及ぶ車輪型宇宙船であった。異星人とのファースト・コンタクトを果たすべく、この宇宙船に接近した《リングマスター》は、突如宇宙船から伸びてきた無数の触手にからめとられ、《リングマスター》の宇宙飛行士たちは全員意識不明に陥ってしまう。謎の巨大宇宙船の内部で目覚めた《リングマスター》船長シロッコ・ジョーンズは、他の乗組員たちを探しながら、この宇宙船の主人を求める探索の旅に出る。それは、異様な、それでいて妙に見覚えのある生物たちにあふれた、奇妙な緑なす大地を渡る冒険の旅であった。船の中心部へと続くスポークを登る苦難の旅路の果て、シロッコはついにこの巨大宇宙船の主ガイアと名乗る老婦人と対面する。だが、その老婦人は、本当のガイアとはこの宇宙船全体を指し、自分は人間を相手にするために作られた被造物にすぎないのだとシロッコに告げた。さらに彼女は、年老いてボケてきているガイア本体の、いくつかの部分の補助脳が制御を離れてしまっており、今回の《リングマスター》の受けた攻撃はそのせいであると言い、ガイア全体を統治する代理人にならないかとシロッコに持ちかける。こうして、シロッコがこの提案を受け入れ、ガイアの代理人である<ウィザード>になるところで第一部は終わる。

 前作から七十五年後、すでに国連に受け入れられたとはいうものの、未だ人類の潜在的な破壊力を恐れるガイアは、人類にとって必要な存在となることで、攻撃される可能性をなくそうとしていた。その手段とは奇跡を為すこと。嘆願者の群れから抽出した少数の人間の願いを叶えてやることであった。不治の精神病に悩む地球の男性クリスと、癲癇に苦しむスペース・コロニー育ちの少女ロビンがガイアに選ばれたところから、第二部『ウィザード』の物語は始まる。二人の願いを叶えるためのガイアの条件は一つ。ガイア内部で冒険を行ってヒーローになって戻ってくること。元《リングマスター》乗員の二人、ウィザードのシロッコとその助手のギャビーが彼らと行動を共にするようになるのだが、シロッコたちの目的は別のところにあった。内部の全ての生命の生殺与奪を司り気まぐれに操るガイアのやり方に嫌気が差して、反乱を企てていたのだ。しかし、旅の途中でギャビーはかつての同僚であるジーンに殺され、クリスとロビンはガイアでの出来事を話せぬように処置されてしまい、シロッコはガイアを代表する人間型被造物を倒すも、ガイアの放ついかづちに襲われ、ハブ部からスポークへと落下していってしまう。ガイアの目の届かぬ高地の洞穴に身を潜めたシロッコと、ガイアとの再戦の予感をはらんで、第二部はその幕を閉じる。

 そして第三部『デーモン』は前作『ウィザード』の結末より更に二十年の時が経った時点から始まる。地球圏ではついに発生した全面核戦争の結果、大混乱となっていた。一方ガイアでは、今やデーモンと呼ばれているシロッコが、ガイアの挑発を受け付けず、ティーターニスたちを守って孤高を固持し続けていた。そのシロッコの前に、前作でガイアを去ったロビンが、戦火を逃れて太陽系外へ脱出したコロニーを離れて戻ってくる。彼女のそばには二人の子ども、年頃の少女ノヴァと幼い男の子アダムがいた。その子らはガイアが密かに時限遅延処理を施してロビンの体内に植え付けたクリスとロビンの子どもだというのだ。ガイアは、どうやら、シロッコが動きを見せなかったときのために、ロビンの子アダムを次期ウィザードにしようとして準備していたらしい。実はそればかりか、ガイアは第一部『ティーターン』の頃からシロッコと争うことになるのを承知しており、しかもそれを楽しんでいたのだ。年のせいで狂ってきているガイアの脳は、地球の文化、特にアメリカ映画に毒されており、現実と空想の区別がつかなくなって、自らをガイアを舞台にした大スペクタクルの制作者兼監督兼悪役に任じて悦にいっていたのだった。かくして狂えるガイアの放ったゾンビ軍団がアダムを誘拐、それを追うシロッコ、クリス、ロビン、ノヴァ、それにシロッコの新たな助手コナルとティーターニスたち。神出鬼没のギャビー”幽霊”とは敵か味方か何者なのか。ついに最終決戦の火蓋が切って落とされた・・・(ここから先は翻訳が出たときのお楽しみ)

《ガイア》三部作の主役は二人いる。ひとりはシロッコ・ジョーンズ、もうひとりは舞台であるガイアそのものである。
 直径千三百キロの車輪型宇宙船というのは、ラリー・ニーヴンの『リングワールド』のようなダイソン環天体には及ばないまでも、そこいらのオニール型スペース・コロニーがオモチャに見えるほど巨大だ。
 というわけで、SFに登場するこの手の巨大建造物のごたぶんにもれず、ガイアもまた通常に地球の上で暮らしている我々にとって、非日常的な視覚効果をもたらしてくれる。直径千三百キロ、厚さ二百五十キロのドーナツの、外縁を巡る高さ百七十五キロの円管の底から空(この場合はドーナツの中心部)を眺めたときの景観を想像していただきたい。さらには、その円管の部分から中心にある直径百六十キロのハブに向かって伸びる六本のスポークの中を上って行きながら、今度は逆に円管の底の方を見おろした光景というのはどうだろうか。
 と、文章で書いてもイメージが湧かないと思うので、ここは一つ、田中光氏のイラストを見ながら、想像力をフル回転させてほしい。

 それにしても、全能の女神の治める、巨大で暖かくて、衣食住の心配のない安住の地であるガイアは、まさに子宮の象徴そのもののようだ。これは、ヴァーリイの持つ子宮願望の表われと捉えるべきなのだろうか。
 そう考えると、彼の作品の特徴であるセックスに対する強い関心(《八世界》ものにおける頻繁な性転換や、《ガイア》三部作におけるティーターニスの雌雄同体とフリーセックス)も、フェニミズム的なそれではなく、子宮内の胎児の状態である未分化な性への回帰のためのユニセックス化として解釈できる。その方が、『ウィザード』や『デーモン』で、ロビンやノヴァを通して、女性優位主義に対する執拗な揶揄を示したことも納得しやすい。
 しかしそれでは、《ガイア》三部作のモチーフが、あまりにあからさまな『母殺し』であることはどう説明すればよいのだろう。

 ここで明記しておきたいのは(これはヴァーリイのもう一つのシリーズものの舞台である《八世界》とも共通するのだが)、彼の描く子宮には逃げ場は用意されていないということだ。《八世界》における地球人は、異星人によって<太陽系という子宮>から出て行く手段を奪われる。そして、《ガイア》三部作の最終話『デーモン』においては、人類自体が巻き起こした核戦争によって<ガイアという子宮>の外の人類生存可能域は極度に減少、人類社会は崩壊状態に近くなってしまう。これは、単に<子宮>の中に登場人物たちをとどめておくだけのための設定なのだろうか。そうではなくて、たとえ今いる場所や状況(=子宮)を抜け出してみたところで、どこにも逃げ場所はないのだ、という一種の諦観の表れではないかと、私には思えてならない。

 ヴァーリイを指して「モラトリアム的である」という批判もあったように覚えているが、ヴァーリイは好んで「モラトリアムにとどまって」いるのではなく、他のどこにも逃げ場を見いだせないがために不可避的に「モラトリアムにとどまる」ことしかできないでいるのではないか。だからこそ、<子宮>の中でもがく人々を描き続けているのではないか。でなければ、<子宮>という楽園の味を享受しているにしては、ヴァーリイの作品の登場人物たちの人生は痛々しすぎるではないか。
 例えば、《ガイア》三部作の第二部『ウィザード』の解説で大野万紀氏が指摘しておられる通り、ガイアの物語は、一見型どおりの口当たりのいいRPGじみた冒険物語の枠と、執拗に挿入される映画やTVドラマへのオマージュの裏から、冷酷で醜いリアルな争いの姿が見えてくる仕掛けになっている。子宮の中でぬくぬくとしていたいなら、わざわざそんなことを描くだろうか。

 袋小路をそうと知ってもなお、絶望したり、現実から目をそむけたりすることなく生き続けること。そこらへんに案外と《ガイア》三部作のテーマがあるような気がする。

【本文はここでおしまいです。内容を気に入っていただけたなら、投げ銭に100円玉を放ってるところをイメージしつつ、購入ボタンを押してやっていただけると、すごく嬉しいです。よろしく~】

この続きをみるには

この続き: 0文字

《ガイア》三部作に見られるヴァーリイのテーマ性

堺 三保

100円

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
堺三保(さかい・みつやす)作家/脚本家/翻訳家/レビュアー/SF設定の人。そして、素人映画監督。専門は主にSF、ファンタジー、ホラー、ミステリ、映画、アニメ、アメコミ、海外ドラマ。