【プチ贅沢】お鮨の幸せ(2)せめて80貫くらいは食べたい
ところで高いお鮨屋さんへは、そうそう行けるものじゃないので、普段は当然、回るお鮨屋さんへ行く。
回転寿司は庶民が行く安い鮨屋だけど、むしろ本来の江戸前の握り寿司を体現している、と思う。
手軽で安価で、ぱっと食べられる点が、特に。
もちろん江戸時代の鮨は回ってなかったので、そこは大きく違うとしても。
江戸時代、鮨が一貫で4文。
4文といえば、感覚として、だいたい現代の100円くらいに相当すると考えてる。
違う時代の物価なんて、何を基準にするかで大きく変わったりもするけれど、江戸時代の物の値段をあれこれ比べている内に、大雑把に『だいたい4文が100円』とばっさり決めるのが便利だと気づいた。
専門家が見たら叱られそうな気もするけれど、便宜上の計算なので、大目に見てほしい。
ちな、江戸市中には『四文屋』というのがあって、何でも4文。今で言う100円ショップとお惣菜屋さんを合わせたみたいなものに近かった。味噌玉といって、味噌とかつ節の粉と小さな具を練り込んだものも4文屋の人気商品で、これはインスタント味噌汁だった訳だ。
話がそれちゃったけど、値段帯もちょうどぴったりで、100円ちょいで出す現代の回る鮨屋さんこそが、本来の鮨屋スタイルに近いよね、と思う。
ちな、当時の『一貫』は、現代の一貫の二倍あった。
それだと大きいし、時代をへて、これに包丁をいれて半分にした上で2個ワンセットで『一貫』と称するようになったらしい。
今はその分量で二貫と称している。ま、2個に分かれたし、そう数えるのが理にかなっているかもね。
要するに、一貫あたりのお鮨の大きさは、半減しちゃったわけだ……。
お鮨は職人さんが手間をかけて握るものだし、それが瞬く間に高級化していったのは、時代の流れだったかもしれないけど、それが現代に至って、回転寿司で原点回帰したのは、ちょっと面白い気がする。
◯
いつもは回る方。たまに贅沢したい時だけ、回らない方。
で、ガチで贅沢するとなると、さすがに自分のお財布でばレベル違いすぎて無理。
昔……。
出入りしていた俳句の会で、年配の方がたまーに若い世代を可愛がってくれたりして、句会の後に、そういう親切な方がお鮨に誘ってくれたりすることも、たまにあった。
わたしみたいな学生から20代前〜後半までの、若い世代を数人ほどぞろぞろ連れて、その俳人さんの馴染みのお店へ。
みんなで恐縮しつつも、いじきたないわたしはカウンターへ座ると、たちまちに本性を剥き出しにする。
「遠慮なく食べてね」
「はーい!」
まずは淡白な白身から、次第に脂身のあるネタへ。
淡白な白身を食べる時、もしその前にブリだのトロだのと、脂の強いのを食べていたら、せっかくの白身の淡白さがどっかへ吹っ飛んでしまう。
たとえ熱いお茶で口の中をすすいでも、脂は流し切れるもんじゃ無いし。
で……。
サヨリから初めて、タコへ行って、鯛を何貫か堪能して、マグロをホイホイと口へ放り込んで、コハダも連続4貫ほど。
やがて中間地点で、
「あの……ワサビのお刺身をお願いしていいです?」
職人さん、一瞬だけ目を丸くして、すぐに大喜びで作ってくれた。
本物のワサビは、刺身にしてしゃりしゃり食べると、とても清々しい。辛味はほとんど感じずに、爽やかな風が口から鼻へかけて吹き抜けてくれる。
お鮨でちょっと疲れ気味になった味覚が、これでリセットされて、またも食欲がむくむくと湧き出る。
ワサビが辛くなるには、すりおろす必要があるのだ。
で、最終フェイズへ至って、トロ……には実はあまり興味なくて、ハマチかブリの大攻勢となる。
フィナーレをかざるパレードのように、脂がつやつやピカピカしたハマチが、列をなして口を、喉を、食道を経て、胃袋へぞくぞく到着。
最後の締めは、ウニと決めている。
あの濃厚で磯の香り高いウニが口の中へひろがって、満足感へとどめをさしてくれる。
俳句仲間の男性陣が、自分達よりはるかに貪り喰うわたしを観察して、鮨を片手にギョッとしている。
男の人の目より、わたしゃ食欲に生きるんじゃ!
おごってくれた年配の俳人さんも、目を白黒しつつ、感心したようにコクコクうなずいている。
目の前の職人さんが、
「いやあ、これほど気持ちのいい食べっぷりのお嬢さん、めったにみかけません。職人冥利につきますよ」
嬉しそうに、楽しそうにわたしを眺めている。
その日。
わたしはどうやら八〇貫ほど食べたらしい。
さすがにやりすぎたかな……と反省したものの、また誘ってくれた時にはそんな反省も忘れて、ほいほいと奢られにいったのであった。
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