「八月の光」に出てくる「無能なクズとはどんな存在か」を表す描写が容赦がなさすぎる&途中まで読み返した感想。
久しぶりにフォークナーの「八月の光」を読み返している。
光文社版を初めて読んだとき、一番初めに新潮社版を読んだ時よりずっと面白いと感じたが、今回読んだらさらに面白い。
「こんなに面白い小説だったんだ」としみじみ感じ入っている(今さら)
「八月の光」には、ブラウン(ルーカス・バーチ)という箸にも棒にも引っかからない小人物が出てくる。
主人公の一人であるリーナを妊娠させて逃亡し、逃げた先でもう一人の主人公クリスマスがやっている密造酒の販売に手を貸し、さらにクリスマスが殺人を犯して懸賞金をかけられると、懸賞金欲しさにクリスマスを売る。
ブラウンは「悪党」以前に、鼻先5センチくらいのことしか考えられない人物として描かれている。
「犯罪のための相棒として選ぶにしても、何もブラウンを選ばなくてもいいだろう」と言われるように、クズであるが悪事を働くには考えなしすぎるという人物なのだ。
ラジオの例えが上手すぎる。
目の前の物事を長期的に判断する回路がない、そしてそれを実行する力もない。
何のしがらみもない身軽な身で逃げているのに、妊娠したリーナに見つかっただけでも(道義的なことは別にしても)どれだけ考えなしかがわかる。
ブラウンに対する見方で、南部の保守的な街で真面目に働きながら女性に縁がなく一生を過ごすだろうバイロンがどういう人間で、どんな考え方をするかがわかるところも凄いと思ってしまう(小並感)
他人に対しては端的で的確な観察眼を持つバイロンも、恋に落ちると突拍子もないことをやりだし、ハイタワーに「正気か(意訳)」と言われるところもリアルである。
◆余談:「八月の光」を途中まで読み直した感想
構造の中で「悪」(原罪)を引き受けさせられる人間は「個人の悪」をぶつけることで、自分を「悪の属性」として扱う構造を破壊するしかない。
このあたりがコーマック・マッカーシーと似ているなあと感じて、確認するために読み返し始めた。(マッカーシーの話は対歴史だが、「八月の光」は因習なのでテーマは違うけれど)
「八月の光」でクリスマスやハイタワーは、過去からの連鎖によって狭い箱の中に閉じ込められ、そこで「穢れ」というスティグマを押し付けられている。
クリスマスは黒人の血が流れている疑惑だけで、ハイタワーは妻が不倫して自殺して、そのあと黒人の女性を雇っただけで、バーデンは四十年以上前に父親と兄が黒人と付き合いがあっただけで、穢れとして排斥され続ける。
「穢れ(=悪)」を特定の属性に押し付けて排斥することで、安心感や調和を与え構造の内部を守る。
「八月の光」を読むと、そういう構図の陰惨さ、逃れがたさが伝わってくる
過去から因習として連綿と続くことで、構造の枠組みはより強固になり、内部にいる人にとっては「当たり前すぎて見えないもの」になっていく。
こんな怖いことを淡々と喋るなよ……と言いたくなる。
「八月の光」の「囲いから絶対に逃れられない感」は凄い。物語世界が狭いこともあって、クリスマス視点の話は読んでいて息苦しくなる。
ということがあるから、リーナ視点の時は「未婚の母になる」という因習の中で赦されざる穢れを背負ったリーナを、めちゃくちゃ無愛想に対応しながらも同じ女性として助けてくれるマーサ、のような描写がいいなと思う。
クリスマスの話だけだとクリスマスが犯罪者としてリンチされて殺されるだけで何の救いもない。
訳者の黒原敏行の注記によると、クリスマスはキリストになぞらえられている箇所が多いそうだ。(光文社版は、文化の素養がないとわかりにくい箇所に注記を入れてくれている。すごくありがたい)
自分を犠牲にすることで(させられることで)世界に調和をもたらす存在である。
クリスマスもそういう存在だ(させられた)という話だったんだな。
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