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強さに自信がある女性は、自分の肉体の魅力を誇示しても他人の好奇の眼差しを無視できる。他人はそこに注目する余裕がない。

 無意識にタイムトラベルをしているんだろうか。
 そう心配になるくらい既視感がある。

 発端のポストについては「女性キャラの恰好や体型に対して男(夫)が一方的に批評するのを聞いて、『この人の感覚はマトモだ』という感想が出てくるなんて、随分家父長主義的な人なんだな」という感想だ。
 漫画の話なのでいいけれど。(現実の女性に対してなら噴飯ものだが) 

 セレブや俳優のシースルードレスがたびたび話題になるように、自分の魅力(肉体でも能力でも成果でも)を誇りたいと思うのは自然な感情だと思う。
 だが現実において、女性は肉体的魅力を露わにすると好奇の眼差し(主に性的な関心)を惹きつけやすくリスクが大きい。
「男が女性を競争的に獲得する」
 こういう仕組みを是としてきた社会構造が、女性の性的魅力を男の目から隠すために女性が自分の肉体の魅力を解放することを「悪しきこと」として抑圧してきた。
「女性でありながら、肉体を誇示できる」
 それは好奇の眼差しがリスクにならないほどの強さを持つ証である。
 現実では限られた場、限られた人たちしかそうすることができなくとも、創作ではそういう力も得られる。
 自分は女性の中でも露出の高い女性キャラを描くことを好む人がいるのは、そういう文脈もあると思う。

 そういう文脈において女性が女性の肉体を描く場合、肉体(性)にこだわっているのではない。逆である。
 女性の肉体に社会が(勝手に)内包させている、好奇の目や(勝手に付与された)価値や(そこからさらに勝手に付与される)抑圧から自由になれる。(個人的にはこちらのケースのほうが多いと思う。ただの想像だが)

「エロをアイキャッチにしている」「作者がエロが好きで描いているんだからいいのでは」と言うのは「男視点で女の肉体を見ていることを前提とした話」だ。
「女性でも人それぞれ違う」というところにたどり着く以前に、「女性の肉体を主体として見る女性の視点が考慮に入れられていないこと」が気になる。

(「エネアド」MOJITO)

「エネアド」は背景設定上、男性キャラの露出は高めだが、女性キャラではラーほど露出の高いキャラはいない。
 ラーは、こんな恰好していても誰も性的に見ない。恰好にとやかく言う人間もいない。

(「エネアド」MOJITO)

 周りがラーを見て思うことは「露出しすぎ」ではない。
「絶対に勝てない」「下手に介入したら殺される」だ。

 作者が何を考えてラーのキャラデをしたかはわからないが、自分には少なくとも「エロをアイキャッチにするために描いた」ようにも「エロが好きだからラーの露出を高くしている」ようにも見えない。
 それはどちらも露出の高い女性キャラを男視点で(客体として)見た時の評価なり解釈である。
(念のため断っておくと、エロ目的ならそれはそれでいいのだ。ただこういう話をするにあたって「女性が女性の肉体を主体的に見る上で露出したキャラを描くこともありうる→現実ではリスクや抑圧があるから出来ないが、本来は女性も何の制約もなく自分の肉体的魅力を誇示し、発揮する自由があるではないか。そういう動機もありうるという観点がないこと」が気になっている。「化粧は男のためにするのではない」のと同様、「女性の肉体(的魅力)は男のためにあるのではない」)

 現実では女性が露出の高い姿をすれば好奇の目や危険にさらされたり、周りからも色々言われる可能性が高い。
 でも創作では性的な好奇の目も、そういうリスクが現実的にあるのだから仕方ないと言われて引き受けさせられる抑圧も無視して、強さも肉体的魅力も、自分の持てるものを発揮できる。

 そういう可能性を女性(妻)が思いつかず、むしろ男(夫)から出された「主体としての女性による女性の肉体観が考慮されない、男視点のみによる女性の恰好への評価」を「まともな感覚」というところにげんなりした。

 ラーの恰好を「まともな感覚の夫(男)」がジャッジしたらどうなるのだろうか。
「ほとんど裸じゃないか」とか言うのだろうか。

(「エネアド」MOJITO)

 この記事で書いたことが「セクシー田中さん」で全部描かれていた。
 ドラマ制作の騒動をきっかけに興味を持ったけど、読んで良かった。

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