「セクシー田中さん」は、「大切にされる」とはどういうことかが伝わってくる作品だった。

 もう少し落ち着いてからにしようかなとも思ったが、これだけは書いておきたいので書くことにした。

 ↑の記事で書いたが「セクシー田中さん」を読んで「この漫画のキャラたちはとても大切にされている」と感じた。
 作者がキャラを気に入っていないと言ったり、「展開につまったから即席のヒロインを出してみた」という作品でも面白い作品はたくさんある。
 ただ作品の評価以前に「セクシー田中さん」のキャラたちを見ていると、大切に扱われている様子を少し羨ましいと感じる。

「人を大切に扱う」とはどういうことなのか。
 一生かけてもわからないかもしれない難しい問題だが、「セクシー田中さん」を読むと、おぼろげながら「こうではないか」と見えてくる。

①単純な白黒善悪是非を用いて、その場の言動のみで人を評価しない。性急に結論を出すことをしない。→その人を全人的に理解しようとする。
②他人の意見を聞くときは、自分の認識を(なるべく)外してフラットな状態で聞く。→人を理解するとは「自分の認識で相手の言動をはかること」ではない。

「セクシー田中さん」は、今の時代にそぐわない価値観を持っていたり、ひとつの言動だけを見れば理解しづらい、許しがたいと思うキャラが数多く出てくる。

 不安から条件がいい男と出会うために合コンを繰り返す朱里、いわゆる「強者男性」で要領と調子の良さを武器に生きてきた小西、ひと昔前の価値観を持ち無神経な言動が多い笙野、自己愛が強く本音を見せない進吾、妻と正式に離婚せず自由人として生きる三好。

 でもこの物語は、そのキャラの一面、ひとつの言動で「こうだろう」と決めつけない。

(「セクシー田中さん」 芦原妃名子 小学館)
(「セクシー田中さん」 芦原妃名子 小学館)

 笙野は偏見に満ちた物の見方で無神経な言動をする人間だが、一方で親切な人間でもある。
 このふたつを合わせ持ち、違和感なく統合されているのが笙野なのだ。

 笙野は田中さんが既婚者である三好に好意を寄せることが理解できず、自分の価値観によって一方的に意見を言って田中さんを傷つけてしまう。
 田中さんはその後で朱里に「笙野に言われたから」傷ついた、と言う。

 私、ずっと誰に何を言われても、いちいち傷ついたり腹が立ったりしなかったんです。慣れすぎて。
 
男の人が私を見下すのは当たり前。
 失礼な態度を取るのも当たり前。
 皆、物のように私を扱うので、私も物のように彼らの言うことに反応しなくなりました。
 
でも笙野さんは私を「人」として扱ってくれるので!

(「セクシー田中さん」 芦原妃名子 小学館)
(「セクシー田中さん」 芦原妃名子 小学館)
(「セクシー田中さん」 芦原妃名子 小学館)

 笙野も田中さんを傷つけてしまったことに、すさまじく落ち込む。

(「セクシー田中さん」 芦原妃名子 小学館)

 その結果、笙野は

(「セクシー田中さん」 芦原妃名子 小学館)

三好に頭を下げて、ダラブッカを教えて欲しいと頼む。
 田中さんが好きな三好を、ダラブッカを学ぶことを通して理解しようとすることで、田中さんを理解しようとするのだ。

 この話の登場人物たちは、色々な欠点がある。時には「ちょっとな」と思うことをやらかす。
 彼らは何か劇的な出来事や、印象深い言葉によっていきなり変わったりはしない。
 ただ人との交流を通して、少しずつ変わっていく。
 昭和的価値観、自信のなさからの自己愛、男らしさにコミットした上での要領の良さ、そういったものを抱えた自分のまま、「その人」として全人的に変化していくのだ。

 以前、「人を雑に扱う人は、人から雑に扱われることに慣れているのではないか」と書いたことがある。

 どんな雑な対応でもどんなネガティブな反応でも、完全に無視されるよりは自分が存在すると実感させてくれる。
 自分の認識や存在をクリアになると実感させてくれる反応を引き出すために、言動が過激になる。過激になるということは、「自分の周りのものを単純化する=雑に扱う」ということだ。

「セクシー田中さん」は、「人を理解し大切にすること」の描写を通して「人に大切にされる」とはどういうことなのかも合わせて描いている。
「自分は雑に扱われて当然の人間だ」
「雑な扱いではなく、これが普通なのだ」
 そう思わされ、「大切にされる」とはどういうことなのかがわからない人に「大切にされるとはこういうことなんだ」と伝えるように描かれている。

「自己肯定感の低さで生きづらさを抱える人達に、寄り添える様な作品にしたい」
 そういう作者の気持ちが、キャラたちを全人的な存在として扱う描き方を通して伝わってくる。
 この先が読めないのがとても残念だが、既刊まででもそういう人たちの支えとなるような物語だと思う。

(「セクシー田中さん」 芦原妃名子 小学館)

 自分は作者の言葉を読んで「一体、どうしてこう思ったのだろう」と知りたくて「セクシー田中さん」を読んだ。
 正直なことを言えば、この話はドラマという媒体の特徴がどうこう以前にそうとうキャラを愛して理解しようとしなければ描くのが難しい話だと感じた。
 作者がなぜあれほど、「原作通り」という条件にこだわったのかもこだわりたいと思う気持ちも(自分なりに)わかった。
「自己肯定感の低さで生きづらさを抱える人達に、寄り添える様な作品にしたい」
という気持ちも伝わってきた。

 ネットの特徴として「(事実関係はよくわからないが)あなたがそう思っている気持ちはわかった。うけとめた」のターンが短くなりがちなのは仕方がないと思っていた。
 ただ最近はそのターンがかなり短くなってしまったように感じる。
「人の言葉を理解し、気持ちを受け取るターン」を、自分のためにも今より少しだけ長くするようにしたい。


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