「同じ物を見て、同じ地面に立っている。だから対峙できる」そういう人間でありたい。
4月6日(土)の読売新聞に掲載されたこの話、めっちゃ好きだ。プレゼント機能はないのか、クソっ。
「完膚なきまでに批判する」ってなかなか見かけない。始まりからして不穏である。
「何を学んだのか。ぜひ知りたいところである」って完全に喧嘩を売りにいっているな。
700ページに及ぶ労作を、ここまでこき下ろされたら、それは
と返したくもなるだろう。
こういう学術大会や報告会、研究会は、お互い当たり障りのない意見を交換して持ち上げあって済ますことが多いと思っていたので、公衆の面前でここまでやり合うのかと驚いた。
実際に見たかったな、と思って読み進めたらさらに驚くことが書いてあった。
マジか。親友同士で「何を学んだのか。ぜひ知りたい」とまで言うのか。凄いな。
そう思っていたら、さらに
こう書いてあって仰天した。創作も真っ青な凄い状況だ。
二人の批判の応酬について、橋本五郎は
と書いている。自分もまったく同感である。
この時点で既に「余命半年」と宣告されていたのだから、「文際的世界における国際法」は大沼保昭の遺作となる可能性が高い(し実際にそうなったのだろう)
多少考え方に違いがあっても、この場では花を持たせて後から論評することも出来たはずだ。本人が万全の状態ならば姑息なやり方とも思うが、この状況では感情的になればこの場で亡くなってしまうかもしれない。
「余命半年の人間を面と向かって『完膚なきまでに』論評した」などという「悪者」にならなくても良かったはずだ。
だが渡辺浩はそうはせずに、いわば「もう命が尽きかけた人間に、命がけの真剣勝負を挑んだ」
自分がそのことに対して真剣であり、相手も自分と同じくらい真剣だと確信して「全力で対峙することが礼儀だ」「相手もそう思うだろう。そして逆の立場だったら同じことをするだろう」という信頼がなければ、余命半年と宣告されている人間にこんなことはできない。
そしてこの人の言うことが理解でき同じ視点で物事が見られ、批判できるのは自分しかない、だから自分がやるしかない、という自負がなければできない。ある分野でトップまで上りつめた人間は、同じ視点で物が見えて同じ力量で言葉を交わす(戦える)人間がいないため孤独になりがち、という話はよく聞く。
大沼保昭が最後にどう考えたかはわからない。
ただ自分であれば、自分が人生を費やした分野で、死を宣告された瞬間まで自分と同じくらいその分野に真剣だからこそ自分の(書いた)ことを理解した上で批判してくる人間がいる、自分が余命半年と言われていることよりもその論争のほうが重要だと信じている人間がいる、というのは、およそこれほど幸せなことがあるかと思うくらい幸せなことだと思う。
この話はこの分野ではトップレベルの二人の間で起こったことなので引き合いに出すのはちょっと恥ずかしいが、自分も自分が真剣に好きで真剣に考えている分野では、自分と同じように真剣な人には「この人は真剣なんだな」と思って欲しい。
同じ物を見て同じ地面に立っている、だから対峙できる。
そういう人がいたら幸せだなと自分が思うように、自分も誰かにとってそういう人間でありたいなと思う。
※「お前と対等の景色が見ることができるのか? なあ? ウーリ」である。
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