なぜ、「この人の話は鵜呑みに出来ない」と思うのか。
最初に言っておくと、この記事は「増田の話は怪しい」「嘘をついているのでは」と指摘すること自体を目的としているわけではなく、「自分がどういう物の見方をするか」を考えるのにちょうどいいな、と思って取り上げた。
匿名で対象選ばずに公開されているものは、読み手が実話か創作かを恣意的に選べるという基準が自分の中にあるので、創作の読み方を用いて読ませてもらった。
まず一読して、「この語り手は信用できない」と思った。
一番引っかかったのは、後輩の人物像と後輩と増田(たち)の関係性に整合性が取れていないところだ。
中三の先輩四人が「お前は帰ったほうがいい」という強固な意思を持って、中一の後輩一人を説得しても説得しきれないという時点でちょっとおかしいと感じる。
ただ当たり前だが、人間には色々な人、色々な関係性があるのでそういうことがありえないとは言いきれない。
「一般的な中三の先輩四人と中一の後輩一人」の関係性では測れない、「増田たち先輩四人と後輩」に限定された固有の関係性があるのかもしれない。
そういうことを測らせる要素が何もない上に、後輩に対してお前呼びで命令口調なので、一般的な関係性の可能性が高いが、「ありえない」と言い切れるほどの根拠ではない。
とりあえずここは「一般的な中三と中一の先輩四人と後輩の関係性の可能性が高いが、そう言いきれるほどでもない」という地点で考えを止めたまま、話を読み進める。
次に「うん?」となったのがここだ。
こんなに理路整然と相手の逃げ道も塞ぐような(俺が休んで時間を合わせてもいいとまで要求できる)強い要求を出来る増田が、なぜ学園祭の夜には同級生と四人がかりでも後輩を説得できなかったのか。
先輩四人がかりの説得にも「テコでも動かなかった後輩」がここではひと言も言い返していないのも不思議だ。
また、増田はこういう「自分が納得いかないことに対しては、強い意思と明確な要求でどこまでも事実を追求する人間なのか」と思いきや、
父親には会う前から逃げ出している。
「テコでも動かない後輩」に対しては「絶対に会わせろ」「クソすぎて納得がいかねえ」とまで強い口調で迫っていた増田が、父親には話してもいないうちから電車に乗って逃げ出している。(二回言う)
「増田は、父親は人生で一番迫力がある説教を喰らったのだから怖かったんだろ」と言うのはその通りである。
ところが増田は父親からそんな説教を喰らったにも関わらず、後輩には「絶対にお前の母親に会わせろ」と迫っている。
自分がこの時点で増田の人物像について感じたことが二点ある。
①増田は物事がかなりの段階に進むまで「未来を想像すること」が出来ない。(先のことは考えず、突発的に行動を起こす)
②増田は「人生で一番迫力のある説教を喰らった父親」には、自分の正当性を説明することは出来ないが、「テコでも動かない後輩」に対しては「母親に絶対に会わせろ」と迫ることが出来る。
言葉を選ばずに言えば「怖い奴には頭垂れ、イキがれるところではイキがるごく普通の中学三年生だな」という印象である。
そういう視点で見ると、後輩も「母親に対しては適当な言い訳をしてしまい、ブチ切れている先輩に対してはひと言も言い返せない(実際に言い返している描写がない)ごく普通の中学一年生」の可能性が高い。(「増田と父親」の関係は、後輩においては増田が父親の立場になっている)
という考えから自分は、二人は「増田と後輩」という個別の固有の関係ではなく、自分が考える「ごく一般的な中学三年の先輩と中学一年の後輩」である、と(この話を読んだ限りでは)判断する。
この話で一番自分が「どうかな」と思ったことは、増田が
「怖い奴には頭垂れ、イキがれるところではイキがる、想像力がないゆえに調子こいているごく普通の中学三年生」
であることではない。(自分だって中三のころはそんなものだった)
大人になった増田の語りに、「自分がそういう中三だった」という視点がないところだ。
この話がおかしいなと思った点は、人物設定や関係性の整合性が取れていないこと以外に、全体的に話のコントラストが強すぎるところだ。
誇張表現が多すぎる。(視点を誘導している)
増田たちは「皆で」説得したけれど、後輩は「テコでも動かなかった」。
母親に「叩き起こされ」、父親は「今までの人生で一番迫力のある説教を喰らい」、後輩の母親は「猛抗議の」電話を寄越す。
でも例えば、母親と父親は増田が実際に相対したからわかるが、後輩の母親が「猛抗議の」電話をしたかは増田にはわからないはずだ。電話に出たのは増田ではないのだから。
母親が「後輩母からこんなことを言われた」と事細かに説明したとしても(描写がないので考えづらいが)それは母親の主観が入っていて、もしかしたら内容は「うちの子がついていきたがったのも悪かったとは思うけれど、そちらのお子さんが先輩なのだから連れて行かないで欲しかった」くらいの話だったかもしれない。
少なくともそういう疑いがあるとちらりとでも考える性格であれば、それを母親に確かめもせずに「お前の母親はクソすぎる」「絶対に会わせろ」なんて後輩に迫れない。
それを確かめるために後輩母に会いたいと言っているのであれば、「お前の母親はクソすぎる」と断定はしないはずだ。
「事実を確かめずに『お前の母親はクソすぎる』と断定し後輩に迫る先輩」という一点だけでも、親や先生がなぜこういう対応をするのかがわかる気がする。
というこれまでの考えを総合するとはっきり言えば、
「怖い父親に向き合って自分の正当性を主張するよりも、『テコでも動かない』けれど『ひと言も言い返してこない』後輩にイキるほうが楽で、そうすることで自分のプライドを保ったんじゃないのか?」
と思ってしまうのだ。
繰り返しだけれど、中三の時なんてよほど出来た子でない限り多かれ少なかれこんなことは誰でもあるだろうし(私はありませんでしたよ、という人がいたら済みません)それはいい。
自分が「何だかな」と思うのは、大人になっても増田が未だに「今考えると、自分は当時、怖い奴には頭垂れ、イキがれるところではイキがる、想像力がないゆえに調子こいているごく普通の中学三年生だった」という視点がなく、当時の自分の視点のみが「事実」だとし、それを前提にして「親になった自分の考えを話しているところ」だ。
こういう誇張表現で視点が誘導された話を「事実」として語ってしまう増田には、それは他の視点(父親や母親、後輩母親)の気持ちはわからないのでは、と思ってしまう。
そもそも他の視点が(この文章/記憶の振り返りの中にも)存在していないのだから。
「こういう人、滅茶苦茶苦手なんだよな」と思い話を終わらせようとした時、ふと最後の一文が目に止まった。
うん?(目をごしごし)
俺だってウソつくし。
俺だってウソつくし。
俺だってウソつくし。
増田、お前まさか……。
それならまたこういう「信頼の出来ない語り手」風味の話を書いてくれ。(こうやってあれこれ考えているのを見てわかるように、創作なら大好きだ)
待っているぞ。(掌くるん)
*似た感じの。
*「信頼の出来ない語り手」や「藪の中」は創作なら大好きだ。
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