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「セクシー田中さん」既刊7巻までの感想&改変が難しいと感じた理由。

◆原作既刊7巻まで読んだ。

 ドラマ制作者と原作者の間で行き違いがあった、という話題から興味を持ち、「セクシー田中さん」既刊7巻までを購入して読んだ。
 ドラマの制作の特徴や事情以前に、原作を読むとこの話は改変がかなり難しいのではと感じた。

※以下はネタバレ感想及び純粋になぜ「セクシー田中さん」が改変しにくいのかをドラマ制作の事情は関係なく原作の特徴のみから考えたもの。ドラマは未視聴。


◆「セクシー田中さん」はストーリー性ではなく、「日常の法則」によって成り立っている。

「セクシー田中さん」は、仕事や人間関係、恋愛や結婚、生き方を巡って自己肯定感が低めな登場人物たちが試行錯誤する群像劇である。
 女性向けの創作で比較的よく見るタイプの漫画だ。

 ただ「セクシー田中さん」は、他の物語と根本の話の造りが違う(と自分は感じた)
 この物語は「ひとつの物事(エピソード)」に対して、スッキリとした結論が出ることがほとんどない。すべての要素が常に話の途中である。
「ストーリーに沿って登場人物が行動する」のではなく、「登場人物が興味の向いた方向に行動することで何かが起こる→その連続がストーリーになっている」
 
 例えば朱里と小西と進吾の三角関係である。
 物語開始当初は、朱里と進吾の関係性に焦点が当たっている。ストーリーの力が強い話であれば、「朱里の恋愛模様」という軸では「朱里と進吾の関係にどういう決着がつくか」「小西との仲がどう進展していくか」ということに焦点が当たる。
 ところが「セクシー田中さん」はそうではない。
 朱里が進吾と中途半端に距離を取るだけで、進吾の存在感は物語の中で自然と薄くなっていく。
 その中途半端な状態のまま、小西との仲もほとんど進展しない。(序盤の小西はモブに毛が生えた程度の存在感しかない)
 男二人の存在感がなぜ薄いのかと言えば、この時の朱里は、田中さんや田中さんを通して出会ったベリーダンスの世界に夢中で恋愛に対する関心が薄れているからだ。
 物語が始まる以前~開始当初にかけて朱里の日常でクローズアップされていた進吾との関係は、ストーリー(大きな出来事)によってではなく、朱里の関心によって日常(作内)の中で存在感を失っていく。
 そうこうしているうちに小西の存在が大きくなり、二人は付き合うことになる。
 だがこれまた何かストーリー的に劇的だったり大きな出来事があったわけではない。
 朱里の中で「人と向き合いたい」という気持ちが自然に強くなり、その気持ちに小西が真剣に応える覚悟が決まったから二人は付き合いだす。

「特定の事柄に対する目に見える劇的な出来事」によってではなく、時間の経過、他に興味の対象が出てきた、まったく別のものに影響を受けたりして、(いつの間にか気が紛れて)悩みや葛藤が小さくなっていくことのほうが日常では多い。
 色々な物事の積み重ねが自然と意識を変えて、その意識の変化と状況が組み合わさった時に、興味を持ったことに向かって自然と意識が向けられ進んでいく。
 この話は(ストーリー性ではなく)そういった「日常の法則」で動いている。

 田中さんは化粧に興味を持った→綺麗になって笙野は女性としても田中さんを意識するようになる。
という風にすんなり物事は進まない。
 登場人物たちは不意に別の方面に興味を持って進んだりする。
 
そのため「個々の登場人物がどういう状況でどういう条件が加わると、どちらの方向に進みやすいか」という、作内では描かれていないことも含めて全人的に人物像を理解していないと話を描くのが難しいと感じる。
 それに加えて「セクシー田中さん」の登場人物たちは、「一概にこうとは言えないさまざまな要素を持った人物像」として描かれている。

◆矛盾した要素も含めて「一人の人物」として描かれている。

 例えば笙野は「いかにも昭和的価値観を持った男」として登場するが、実は家事が大好きで特に料理が得意である。
 こういうギャップ自体は、他の漫画の登場人物でもよくある。

「セクシー田中さん」の登場人物たちが面白いのは、かと言って笙野は「昭和的価値観」にさほど抵抗を持っていないところだ。
 笙野は家事が好きで一人暮らしの時はしっかりと節約し、料理をするが、何故か結婚する女性には家事をして欲しいと思っている。
 実家では母親のみが家事をすることに違和感を持つ様子もない。

(「セクシー田中さん」 芦原妃名子 小学館)

 いい大学を卒業し銀行に勤め、生涯働く(男が稼ぐ)という価値観も当たり前のように受け入れており、進吾のように苦しむこともない。

(「セクシー田中さん」 芦原妃名子 小学館)
進吾の追い詰められぶりは読んでいて変な動悸がしてくるくらいリアルである。

 この話は単純な白黒善悪是非を用いて、その場の言動のみで人を評価しない。性急に結論を出すこともない。
 笙野は田中さんの舞台衣装を初めて見た時、「あんたいくつだよ、なんつーかっこしてんすか、痛々しい」という暴言を吐く。

(「セクシー田中さん」 芦原妃名子 小学館)

 唖然とするような発言だが、「セクシー田中さん」ではその発言だけを以て、笙野の人物像を方向づけることはしない。(この辺りが作者がドラマの人物像に不満を持った理由では、と推測している)
 田中さんは自分も笙野の言葉や周りのそういう視線に傷ついていたにも関わらず、愛子のことは「自分よりも二十も年上なのに」という目で見ていおり、自分も同じ価値観で人を見ていることを告白する。

(「セクシー田中さん」 芦原妃名子 小学館)
(「セクシー田中さん」 芦原妃名子 小学館)

 田中さんは笙野に物凄く失礼な言動を取られるが、それはそれとして親切にされれば「親切な人」として受け入れる。

(「セクシー田中さん」 芦原妃名子 小学館)

 進吾は恋愛面で見れば「ナルシスト」だが、生き方の面から見れば「この先『普通』に生きていけるのか」という不安に押しつぶされそうで自分のことにいっぱいいっぱいなだけだ(朱里と一番似ている)

 小西は幼いころ「男のくせにピアノを習っているなんて」とからかわれて、ピアノを止めてしまう。
 しかしそのことを気にする風もなく(そのエピソードがどこかに具体的につながることもなく)、経済力を持つ年上の男として進吾にマウントを取ろうとする。

 社会の中で生きている限り、自分の中にも自分を傷つける価値観が眠っており、その目を人に向けてしまうことがある。
 旧弊の価値観を受け入れて来た部分、それに疑問を持ち苦しむ部分、自分に密着して気付かない部分、その中で造られた自分とその価値観に隠された自分、生きて来た中で培われたそのすべてが混然一体となったものが「その人物」なのだ。
 その部分を含めた、そこから派生したものから形成してきた自分として、全人的に変化するしかない。

(「セクシー田中さん」 芦原妃名子 小学館)

「セクシー田中さん」のキャラたちは、色々な葛藤や問題や悩みを抱えている。
 でも彼女ら彼らは、葛藤や問題や悩みを解決するために(いわゆる物語を)生きているわけではない。
 
時には興味が薄くなり、乗り越えたと思ったら同じ場所に戻る、さらに何かに振り回されているうちにまた新たにわいてくる葛藤や問題や悩みがわかりやすく解決することのない、一段落ごとに何かの決着がつくことのない、途切れることのない人生を生きている。

「それぞれの人生を生きてきた、生きている、これから先も生きていく人物たち」が描かれている。
 読んでいてそう感じた。


◆前記事に書いたことが全部含まれていた。読後だったら「『セクシー田中さん』を読んでくれ」で終わりにしたのに。 

「女性が露出の高い女性キャラを描く(※注)のは自分の肉体的魅力や可能性を追求する文脈もありうるのではないか。『対象向けのエロのみが動機である』とは言い切れないないし、切り離して『どちらが動機である』と言い切れるとは限らないのではないか」と前記事でした話が、「セクシー田中さん」にそのまま含まれていた。

(「セクシー田中さん」 芦原妃名子 小学館)
(「セクシー田中さん」 芦原妃名子 小学館)
(「セクシー田中さん」 芦原妃名子 小学館)
「女性の露出は男に見せ、他人から評価されるためにのみある」とナチュラルに思っているところが凄い(褒めていない)
(「セクシー田中さん」 芦原妃名子 小学館)

 ベリーダンスって「これが正解だ」って言いきれる正解の「形」が見えないんですよ(略)
 安易なセクシーさの表象としての一面もありますし、女性性や精神を解放してむしろ誰にも媚びずに自由に生きる手段としての強くスピリチュアルな一面も。
 正解がないので迷うんです。自分が「こう在りたい」正解を、自分で選び取るしかない。(略)
 
私は自分の頭で考えて、自分の足で地に足をつけてしっかり生きたかった。

(「セクシー田中さん」 芦原妃名子 小学館/太字は引用者)

 田中さんがベリーダンスに仮託した試行錯誤する生き様は、朱里が惚れ込む気持ちがわかると思えるエネルギーに満ちている。
 自分も騒ぎがなければ読まなかったと思うので余り言えたことではないが(小声)今回の騒動とは関係なく読まれて欲しいと思う。

※注 男性→女キャラ、女性→男キャラの場合でもありうるが、話が凄く長くなるので割愛。

※追記


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