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差別に声を上げることは意外と難しい

東京医科大学が女子受験生の点数を一律減点していたというニュース、多くの人と同じようにショックと憤りと…を感じている。

当然これは性差別であって、差別される側の属性であるところの女性(私を含め)は声をあげるべきなのだろうけれど、私としてはそれよりも無力感のほうが先行してしまった。
そして、女性からの「よくあること」とか「したたかでしなやかでないと」とかいう声を見るにつけ、現に自分がされている差別に対して声を上げるのは意外と簡単ではないのだなあ、と思う。

「差別をただせ」と声を上げるには、その前提として「私(の属性)は差別されている」と認めなければいけない。
けれど、ここまであからさまな女性蔑視があったと認めるのは、当事者である女性にとって結構きついことのような気がする。
「女性(=自分)は男性よりも価値がなく、社会的な仕事をさせるに値しない、と男性の側から規定されている」ということを、たとえ括弧に入れた上だとしてもいったん認めるのは、これまで努力してきた女性であるほど屈辱的で耐え難いことだろうから。
自己防衛、否認、矮小化、正常性バイアス…、言葉は色々あるのだろうけど、そのようなことだと思う。

学校でいじめられている子どもが、家庭では決して「いじめられている」とは口にしないことで気持ちを保っているのと似ているかもしれない。
「かわいそうだ」と思われるのは耐えられないから。

そう考えたら、差別を矮小化するのも、個人の心理的な擬制としては理解できる(でもそれを表明するのはまた別の問題だ)。
私自身、「差別されている」と思うよりは、「差別なんてされていない、自分の実力に見合ったところにいる」と思う方がずいぶん楽だ。
「差別されて不当な扱いを受けている」と思うと情けないし、「私は差別されるような人間なんだ」と思ったら自己肯定感がしゅんとしぼんでいくから。

でも、「差別なんてない」「大したことない」と矮小化している以上、いつまでもその構造は変わらないんだろうなと思う。
差別への抵抗は、まず「自分が差別されている」という、悲しく、情けなく、腹立たしい現実を直視することから始まるのだと知った。
ものごとを、バイアスをかけずに見て、正しく怒れるようになりたい。

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