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春のスクリプト

マンホールの下の暗い地下通路で、合羽を着た子供が、息をひそめて、隠れています。水面に顔を出すといけない。そのままだとおぼれ死んでしまうけれど、それでも耐えないといけないから。ひんやりと皮膚から冷気を感じます。通路の真ん中は大きな川になっています。外は雨みたいで、濁流が前から後ろに流れていきます。明るい部屋なのに暗くて、温かい部屋なのに冷たい。なんだか、同じ時間に違う場所に私がいるみたい。どうやら私というものはこの瞬間にたくさんの場所に存在していて、全く違う世界にも私は存在するみたいです。

いつもの温かい照明のついた部屋で膝を抱えている私と、地下通路を合羽と長靴でカツカツと歩く私。空の果ての宇宙ステーションでくつろいでいる私。エデンの園で天使たちと歌を歌う私。あれもこれも私。まだ見ぬ私も、私。もしかしたら、あなたも、私。あの子も、私。そう思うと、だんだん、私というものがなんなのか、よくわからなくなってきます。いろんな絵の具を混ぜて、何色ともいいがたい色になったものに白を大量に足してまろやかにしたような、墨を一滴水の中に落とした後に大量の水で元の透明に戻そうとするような、あの感覚が、無意識の底に落ち葉のように溶けて溜まっているんです。
掃除をしようにも、ほうきが届かなくて、水を流しても、溜まっていくばかり。やがてだんだん寒くなってきて、いつも途中で家に帰ってしまうんです。

そうしているうちに、秋から冬になって、雪が降り積もります。雪の下で落ち葉が少しずつ雪の栄養を吸って、落ち葉の下の微生物さんたちが、落ち葉の栄養を吸って、その下で蝶やカブトムシの幼虫たちが、春を待ちながら気持ちよさそうに眠っています。

こんなに寒いのに幸せな心地で眠れるのは、ちゃんと春が来ることを、無意識のうちに分かっていて、とても楽しみにしているからなのかもしれません。たとえ春が来て目が覚めた時に、自分を温めてくれた土が消え去って、コンクリートジャングルに放り出されたとしても、桜の咲かない春だったとしても、期待していた春じゃなかったとしても…いいえ、最初から期待はしていませんから、春が来たことに喜びを感じて、すこしずつ殻を脱いで、ゆっくりと、青く光る羽を広げて羽ばたいていけるのです。

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