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HK湖の西北に「東京義塾」

 ここは,2019年1月26日の夜,週末だから旧正月が近いから,車両が通行止めにされ,多くの人で賑わうハノイの観光名所,ホアンキエム湖( Hồ Hoàn Kiếm)の西北にあるロータリー広場,「Quảng trường Đông Kinh Nghĩa Thục」。あえて日本語に訳すると「東京義塾(広場)」となる。

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 東京義塾は,1907年3月,当時フランス風に「Place du Général Négrier」と呼ばれていたこの広場を起点にする現在のPhố Hàng Đào(ハンダオ通り)を少しばかり上った場所に開校した,無償の私立学校。
 その創立者の一人が,ベトナム人のファン・チャウ・チン(Phan Châu Trinh)。
 彼は,ファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu)らによる「維新会」や「東遊運動(Phong trào Đông Du)」の潮流とは別に,独自に日本視察の必要性を感じ,密かにベトナムを脱して1906年(明治39)4月下旬に日本に上陸している。
 もっとも,同年2月に「維新会」の盟主である阮朝の皇族クォン・デ(Cường Để)がベトナムを脱出に成功し,香港まで来ていることを聞いたファン・ボイ・チャウは,日本から香港に迎えに行った。その香港で,ファン・チャウ・チンは,ファン・ボイ・チャウとクォン・デに会い,共に日本に上陸している。
 ファン・チャウ・チンの日本滞在期間は短い。ただその間,先行者のファン・ボイ・チャウの案内で日本の工業設備や教育機関などを視察して回った。帰国にあたり,ファン・ボイ・チャウから彼が著した「海外血書」を託されていた。

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 ベトナムに帰国したファン・チャウ・チンは,早くも1907年3月,同志らと「 Đông Kinh Nghĩa Thục(東京義塾)」を設立する。なお,この当時,フランス当局に知られずにベトナムを脱出し日本に密航すること,かつその旅費や滞在費用を賄うというのは,裕福な家庭でなければできず,当時の日本留学生の殆どは,地主などの裕福な家の子弟であった。ベトナムにて民族独立主義に共産主義が同化してくるのは後年のこと。
 
 「Đông Kinh(トンキン)」とは,ハノイの古い名称。敢えてこれに漢字をあてると「東京」になるに過ぎず,日本の東京(TOKYO)に由来するものではない。
 これに対し「義塾 (Nghĩa Thục)」は,ファン・チャウ・チンが日本を視察した際に「慶応義塾」を訪問し,その教授内容などに影響を受けたためと言われている。ファン・ボイ・チャウは”大隈重信”から人材教育による独立建国を諭されたが,ファン・チャウ・チンは”福沢諭吉”の実学精神に惹かれたようだ。

 ベトナムではフランス統治時代も「科挙」が実施されていたが,「東京義塾」は,科挙のためだけの形而上な儒教教育ではなく,経済学,商学,基礎科学などの実学を志向した。
 その一方で,帰国時にファン・ボイ・チャウから託された「海外血書」を,東京義塾に隣接する印刷所で漢字,字喃(漢字を参考にした旧ベトナム語)及び国語(フランス人が創った今のベトナム語)の三文字で印刷し,これを出版する活動も行っていた。また,「評文 (Bình văn)」という,愛国心を高揚させ,学習内容や新しい生活様式を広く伝えるべく,教師が辻々で説き歩くという活動も行っていた。

 この”課外”活動がフランス植民地主義者を不快にさせた。
 1908年11月,フランス当局は「東京義塾」の解散を命じ,書籍などを押収,ファン・チャウ・チンも逮捕・拘束され,終身刑となり,1787年11月21日に締結されたヴェルサイユ条約によりフランスに割譲されていたコンソン島(Côn Sơn)の刑務所に収監された(1911年に恩赦で釈放されている。)。

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 時は下り1940年9月,かつて彼らが命懸けて渡った日本が,フランスとの協約に基づきハノイを中心とするベトナム北部に進駐してきた。
 日本軍の進駐を認めたとはいえ,フランスがその主権に基づいて統治しており,この広場には「Place du Général Négrier」という,アルジェリアの植民地化に功績があった(初代)ナポレオン時代のネグリェ将軍の名が冠されていた。
 ベトナム北部進駐から2年も経たないうちに日本は,東南アジアを舞台に英米蘭と戦火を交えることになるが,ベトナムを含むフランス領インドシナは比較的平和な日々を送っていた。

 承知のように,その後戦局は日本(及びその同盟国)に悪化。今まで日本に協力していたフランスが逆に英米に加担する可能性が出てきたため,1945年3月9日,在仏印日本軍は,いわゆる「明号作戦」を実行し,フランス軍をベトナムの地から一掃することに成功する。
 これに呼応し,同月11日,未だ日本にあり帰国の機会を伺っていたクォン・デ(Cường Để)公の叔父でもある,阮王朝のバイ・ダイ帝(Bảo Đại)がフランスからの独立を宣言し,ベトナム帝国を建国する。日本軍の傀儡と言われればそれまでだが,約100年間続いたフランス支配を脱した。
 
 ただ,1944年11月17日に南方軍総司令部がマニラからベトナム南部のダラット( Đà Lạt)に移転していたこともあり,サイゴンを中心としたベトナム南部は引き続き日本軍が支配していた。
 これに対し,ベトナム北部については,日本軍とベトナム帝国の首相に就任したTrần Trọng Kim(チャン・チョン・キム)との協議により,1945年7月20日,ハノイ,ハイフォン及びダナンの主要3都市について,チャン・チョム・キム政権が施政を
 これを受け,ハノイの市長に,Trần Văn Lai(チャン・ヴァン・ライ) が就任する。
 チャン・ヴァン・ライは,もともと医師だが,ベトナム社会党のメンバーとして抗仏運動に参加したために,1943年後半にフランス官憲によりハノイ市内のホアロー刑務所(Nhà tù Hỏa Lò)に拘束され,その後,日本軍の「明号作戦」によりフランス支配が終わった1945年前半に釈放 されるまで,ラオスとの国境に近い山間部にあるソンラー刑務所(Nhà tù Sơn La)に収監されていた。

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 そのような経歴をも持つ彼が,1945年7月21日,ベトナム人として初のハノイ市長に就任した。

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 もっとも,1945年8月15日の到来は日本だけでなく,彼の市長としての地位を失わせることになる。
 ホーチミン氏は,日本の降伏により生じた軍事的空白を見逃さず,1845年8月17日,ベトミンが扇動した大衆デモがハノイで起こり,これが武装蜂起へと発展。 同月19日にはベトミンがハノイ市政府機関を制圧した。後に「8月革命」と呼ばれるこの蜂起により,チャン・チョン・キム政権自体が転覆し,チャン・ヴァン・ライ市長も失脚することにはなる。
 しかしながら,チャン・ヴァン・ライ市長は,その1ヶ月弱の短い在任期間中に,公用語をフランス語からベトナム語に変え,街からフランス軍人などの銅像の撤去し,またフランス人名などが冠された通りなどの名称をベトナム由来に変更するなど,100年の過去をひと月で取り返すような政策を実施していた。
 この政策により名称が変更されたものの一つが,本稿の主題である「東京義塾(広場)」である。それまで「Place du Général Négrier」の名が冠されてたが,かつて先達が抗仏・民族独立への願いを込めてこの広場の近くに創立した「東京義塾」を偲び,「Quảng trường Đông Kinh Nghĩa Thục(東京義塾広場)」に変更していたのである。

 権力者が変われば通りの名称などが自己都合で変更されるものあり,ベトナムでも例外ではない
 しかし,この「東京義塾」については日本に由来するにも関わらず,フランスとのインドシナ戦争,アメリカとのベトナム戦争を経る過程の中でも,ホーチミン首席を中心とする政権下でも変更されることはなく,現在に至っている。これは,ホーチミン首席自体が,1915年のパリでファン・チャウ・チンと交流があり,彼に影響を受けていたためかもしれない。
 また,1945年9月2日にホーチミン主席が独立宣言を読み上げたバーディン広場(Qung trường Ba Đình)自体,その1か月ほど前にチャン・ヴァン・ライ市長により,フランス由来の「Le parc Puginier」から,1886年にタインホア省で勃発した抗仏闘争「バーディン蜂起(Khởi nghĩa Ba Đình)」に因む名称に変更されたものであった。

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 以上のような歴史の経緯のためか,現在の中学生向けの教科書でも,東京義塾は,ファン・ボイ・チャウの東遊運動と並び,同じぐらいの文量で記述されているのである(ただし,東京義塾の日本との関わりは書かれておらず,ファン・チャウ・チンの名前も出てこない。塾長を務めたLương Văn Canの写真が代わりに掲載されている。)

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 ちなみにこの教科書は「東京義塾」の歴史的意義について,以下のように評している。
 Tuy chỉ hoạt động trong thời gian ngắn nhưng Đông Kinh nghĩa thục đã đạt được kết quả rất lớn, đặc biệt trong việc cổ động cách mạng, phát triển văn hóa, ngôn ngữ dân tộc.

日本語訳:短い期間の活動で終わったが,東京義塾は,とりわけ革命を鼓舞し,民族の文化・言語の発展において,大きな功績を残した。


東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。