神の恵みは無駄にならず ─コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章の学び
神の恵みは無駄にならず
── コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章の学び ──
2005年6月8日
はじめに ─ 不条理な死
昨年は新潟中越地震など天災が相次ぎ、今もまだその後遺症が癒えずにいます。
特に年末に起きたスマトラ沖地震は、死者・行方不明者約25万人という有史上かつて無い大惨事となりました。
また本年4月25日午前9時19分、JR西日本福知山線脱線事故が発生し、死者107名、けが人549名(内6名重体、5月24日現在)という悲惨な事故となりました。マスコミが報ずる遺族たちの突然の慟哭には涙を禁じ得ません。「なぜ? どうして我が子が!」、「なんであの人が?」、やり場のない呻きは怒りとなってJR西日本に向けられています。
「だれから弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか」と言い、また「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」とまで言い切ったパウロの言葉が身にしみます。
実は私の身近でも、この一ヶ月あまりに4件もの葬儀がありました。その内のお二人は町内のご老人、また一人は友人のお母さんで、いずれも高齢ですが長い闘病の末の召天でした。
もう一人は鈴木和子さんです。彼女は一昨年番紅花舎で刊行した画集『生かされて』の作者で、JRの脱線事故の翌日26日未明に天に召されました。
彼女は若き日に結核の治療で方肺を切除していたため、晩年は残された方肺にかなりの負担がかかり、最後は文字通り塗炭の苦しみを伴う闘病だったそうです。
死が迫り来る病床で、恐れと不安に取り憑かれ「助けて!」ともがき苦しんでおられたとも伺いました。若き日からひたすら主を尋ね求め、主に従い歩んで来られた和子さんですら、最後の〈死〉との闘いに苦闘された、この事実が重く重く私たちに迫って参ります。
「まばたきの詩人」と呼ばれた水野源三さんは、文字通り彼の手となり足となって献身的に介護をされていたお母様を亡くされた時、こんな詩を残されました。
主よなぜですか
父に続いて
母までも
み国へ召されたのですか
涙があふれて
主よ 主よと
ただ呼ぶだけで
つぎの言葉が
出て来ません
主よあなたも
私といっしょに
泣いてくださるのですか
(水野源三『主にまかせよ汝が身を』より)
〈死〉は不条理です。
たとい人生を真摯に、真実に歩んでいても、〈死〉はその人生をすべて〈無〉に帰してしまうかのように襲いくるのです。
〈死〉こそ、私たちの最大の〈障壁〉ではないでしょうか。
死とはなにか
ところで〈死〉とは何でしょうか。
医学的な死の定義は「生存に最も重要な心(循環)、肺(呼吸)、脳(中枢)機能の不可逆的停止」を言い、現象的には心停止、自発呼吸の停止、瞳孔散大を指します。
このうち三臓器すべての機能停止が必須の場合は「三臓器死説」といい、いずれかの臓器の機能停止をもって死とする場合は「単独臓器死説」とされています。
しかし今日では生命維持装置などによる延命処置が施されるようになり、この定義では死を定められなくなりました。
そこで「脳死」という定義がでてきたのです。
これは「脳幹を含む全脳機能の不可逆的停止」を言います。
今日、多くの国で「脳死」を個体死とされています。
また脳死は呼吸や循環が停止した状態をいい、大脳皮質のみが機能しない「植物人間」とは異なります。
ところで治療のため意識もなく、生命維持装置によりいわゆる〈植物状態〉で生かされていることが、果たして〈生きている〉といえるのでしょうか。
もちろん、意識が戻る可能性がある限り、治療を放棄することはできないことは理解できます。
しかし先日亡くなった近所の方も、ここ数年間ほとんど意識がないまま生命維持装置と輸血によって生かされていたそうですが、果たしてそれが、〈生きる〉ということなのでしょうか。
生物学的な死とは
ところで生物学的に〈死〉はどういう現象として説明されるでしょうか。
私は生命科学を学び前職で遺伝子などを研究しておりましたので興味がありますが、まず、細胞レベルでの死があります。
私たちの体を形成する60兆個とも言われる細胞は、日々新陳代謝によって生まれ変わり、体を維持しています。しかし、やがて加齢にともない新たな細胞が形成されなくなります。その現象を科学的に見ると、細胞レベルでの〈死〉があります。
細胞が自死する現象をアポトーシス(apoptosis)と言い、外部からの衝撃や病気などで細胞が死ぬことをネクローシス(necrosis)と呼ばれています。
アポトーシスは生物の個体をより良い状態に保つために、古くなった細胞が自死する現象です。
これにより若い細胞に代わり臓器や組織が更新され維持されるのです。
アポトーシスの原語の意味は、枯れ葉が自然に枝から落ちることを指します。
これに対して、外傷や血行不良などの原因で細胞が死ぬことを〈ネクローシス(necrosis)〉といいます。
しかし、加齢や病気によりアポトーシスを伴う新陳代謝が鈍くなり、やがて阻止されて新しい細胞ができず、ついには組織や臓器が崩壊して死に至ります。
病気の場合はそれぞれ原因により組織や臓器の崩壊がありますが、加齢ではどうやって細胞の自死や壊死を促しているのでしょうか。
最近の遺伝子レベルでの研究から次のような仮説があります。
私たちの遺伝子には「テロメア(telomere)」という部分があります。
これは染色体末端にある特徴的な繰り返し塩基配列をもつDNAと様々なタンパク質からなる複合体で、末端小粒とも呼ばれるものです。実はこのテロメアの繰り返される遺伝子配列が、加齢に伴い短くなるのです。短くなることが細胞の寿命をコントロールしているようです。
例えばクローン羊ドリーのテロメアは、生まれた時から短いものでした。加齢した成体から採取した遺伝子でクローン化したためで、採取した個体の年齢に準じ生まれながらテロメアも短くなっていたのです。だから見かけは赤ちゃんでも、遺伝子年齢はクローン親の細胞年齢だったわけです。
ただし、このテロメアと老化との関連性はまだ十分解明されていません。でも、このテロメアが短くなるのを何らかの方法で防ぐことができれば、加齢がコントロールされて人間の寿命も延び不老不死の夢が叶うのではと、盛んに研究されています。
臓器の更新なら再生医療という最先端医療技術の発達により現実味を帯びてきました。人工的に臓器を自らの元気な細胞を使って再生し、それを古くなったり病気になった臓器と取り替えるのです。これは他者の臓器移植に変わる医療としても注目されています。こうした再生医療の進歩によって、人間は老化を抑え、寿命を延ばすことができ、ある科学者は近い将来人類は200才位まで生きられると予想しています。
しかし、脳細胞など再生が難しい臓器や組織もあり、人類の夢である不老不死はどんなに科学技術が進歩しても不可能といえるでしょう。また、〈死〉はこうした生物学的な問題だけでは解決され得ない現実でもあります。植物状態だけでなく、生きていても〈死んでいる〉ということもあるからです。
自死の現状
〈死〉はすべてを虚無に帰してしまいます。
この無情で冷酷な事実を敏感に感じ取った人は、その宇宙空間のような虚無に怯え、虚無に押しつぶされて自死すら選んでいくのではないでしょうか。
自死は世界規模で蔓延し人々を捕らえています。
日本では昨年一年間で32,325人もの人が自殺しました。
2004年9月のWHOデータでは、自殺率は10万人あたり24.1人で、これは欧米先進国の中では一番高い数値だそうです。
同じ統計から自殺率上位十位の国は順に、リトアニア、ロシア、ベラルーシ、ウクライナ、カザフスタン、ラトビア、ハンガリー、エストニア、スロベニア、そして日本です。このうち、日本以外は旧ソ連とその影響下にあった東欧圏の国家です。
旧ソ連に属する国々では、特に45〜54才の男性の自殺率が高く、またアルコールが主因の筆頭だそうです。ここから伺えるのは、共産主義思想に〈自死〉を防止するものがなかったのではないかということです。また、旧ソ連崩壊に伴い価値観が大きく変動した社会において人も生きる意義を見失いやすいことも示しているのではないでしょうか。
この問題は、世界人口の1/4近くを占める中国にも当てはまりましょう。急激な経済の自由化が社会の歪みとなり、また人々の魂を蝕んでいます。隣国中国は自殺率13.9人ですが、総数は毎年年間約20万人もの自殺者がいる計算となります。中でも経済格差が激しい農村部の女性の自死が多いそうです。一人っ子政策の影響、農村部の婦人の人権無視などがその背景にあります。
日本の自死については昨年お話ししましたが、最近は若者たちの集団自殺が注目されていますが、実は中高年の男性の比率が圧倒的に高い(全体の70%)のが特徴です。
WHOの精神保健部ホセ・ベルトロテ博士は「日本では、自殺が文化の一部になっているように見える。直接の原因は過労や失業、倒産、いじめなどだが、自殺によって自身の名誉を守る、責任を取る、といった倫理規範として自殺がとらえられている」と述べています。その通りではないと思いますが、やはりそうした人生観、思想が見え隠れするのも事実でしょう。
アメリカは46位で、10万人あたり10.4人と日本の半分以下です。特徴的な傾向は10代後半から20代前半の若者が多く、事故、殺人に次いで死因の第3位であり、その半数以上が銃器を使用していることだそうです。このように自死の統計はそれぞれの国が抱える問題を象徴的に浮き彫りにしてくれているといえましょう。
〈死〉と向き合った魂
①芥川龍之介
芥川龍之介は1927年(昭和2年)7月24日に服毒自殺しました。36才でした。
君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とは、或いは又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであろう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示しているだけである。……少なくとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安である。
(或旧友へ送る手記より)
何故生きてゆくのは苦しいか、何故、苦しくとも、生きて行かねばならないか。(『仙人』より)
何の為にこいつも生まれてきたのだろう? この娑婆苦の充ち満ちた世界へ。
(長男の誕生を表現して、『或阿呆の一生』より)
死にたがっているよりも生きていることに飽きているのです。
彼は彼の一生を思い、涙や冷笑のこみ上げてくるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだった。 (『或阿呆の一生』)
「人生は地獄よりも地獄的である」(「侏儒の言葉」)。
家庭問題(精神を患った母、結婚問題などでの養父母との確執、義兄の借金と鉄道自殺、12人に及ぶ扶養義務など)に加え、女性問題(不倫関係だった秀しげ子の嫌がらせ等)と創作活動上の苦しみ、悪評、ねたみ、更に病苦(神経衰弱、睡眠薬の常用、消化器官の病など)が、彼の人生に重くのしかかっていました。
しかし、一方では救いを求めて必死に救いを求めてもがいていたようです。
枕元に残された聖書との挌闘の後が、最晩年の作品『西方の人』『続西方の人』に結実しました。(『この人を見よ 芥川龍之介と聖書』関口安義著 小沢書店参照)。
我々はエマヲの旅びとたちのように我々の心を燃え上がらせるクリストを求めずにはいられないのであろう。
(「『続西方の人』 22「貧しい人たちに」より)
我々は唯茫々とした人生の中に佇んでいる。我々に平和を与えるものは眠りの外にある訣はない。あらゆる自然主義者は外科医のように残酷にこの事実を解剖している。しかし聖霊の子供たちはいつもこう云う人生の上に何か美しいものを残して行った。何か「永遠に超えようとするもの」を。
(『西方の人』 35「復活」より)
クリスト教は或は滅びるであろう。少なくとも絶えず変化している。けれどもクリストの一生はいつも我々を動かすであろう。それは天上から地上へ登る為に無残にも折れた梯子である。薄暗い空から叩きつける土砂降りの雨の中に傾いたまま。……(『西方の人』 36「クリストの一生」より)
芥川の自死を知った内村鑑三は次のような感想を日記に残し、彼の自死の背景に日本人が取り憑かれている思想の問題を見据えていました。
新聞紙は文学者芥川竜之介(ママ)氏の毒薬自殺を報ず。自分は氏を知らずと雖も、氏に対し深き同情なき能わずである。有島の場合に於けると同様に、近代思想は人をして茲に至らしめざれば止まない。神なし、義務なし、責任なしと云う。近代人が死を急ぐは当然である。人の罪と云うよりも寧ろ思想の罪である。近代思想はあたら人間を殺しつつある。(『日記』1927年7月25日)
この内村の指摘は、芥川に留まりません。まさに現代の私たちにも言えるものだと思います。
②八木重吉
一方、芥川龍之介の自死より三ヶ月後の1927年10月26日、夭折の詩人八木重吉が病没しました。
享年29才。二人の子とまだ若い妻を残しての召天でした。
それは肺結核との闘病生活の果ての死でした。彼もその苦しみと焦燥感の中で、〈死〉と向き合っていました。それは病床で書きつづられた「ノオト」にも遺されています。
肺患者は 死を怖れぬ
むしろ死の苦しみを怖れる
否 死にいたる迄の近親者への済まない
心に充たされる
否 児と妻への永い永い惜別を怖れる
否 尚心澄む日は
神と人々とに負う責務を果たさなかった弱さに
胸がふさがる (ノオトE)
縁側に腹ばひ
自らを殺すことをそっと考えてゐた(ノオトA)
自分をむちうち
自分を殺すようにむちうち
ほっと息をついたとき
たれも私をかへりみてくれないなら
私の根と精はつきるだろう (ノオトA)
にじみでる涙もある (ノオトE)
重吉も芥川と同じく聖書を通して〈死〉と向き合っていました。
しかしそれは、芥川とは決定的に異なるものだったと言えます。
これ以上の怖れがあろうか
死ぬまでに
死をよろこび迎えるだけの信仰が出来ぬこと
これにました怖れがあろうか (ノオトA)
死
それよりも怖ろしいものがある
死にきれぬ不信だ (ノオトA)
しかし一方で、彼は主イエスにとらえられているという自覚もあったのでしょう。
我れ自らを殺さざるはキリストを信ずる故なり
(ノオトD)
何の疑もなく
こんな者でも
たしかに救って下さると信ずれば
ただあり難く
生きる張合がしぜんとわいてくる (ノオトA)
病気をすると
何も欲しくない
この気持ちにひとつのものも混じへず
基督を信仰して暮らそう (信仰詩篇)
このかなしみを
よし とうべなうとき
そこにたちまち ひかりがうまれる
ぜつぼうと すくいの
はかないまでのかすかなひとすぢ (「幼き歩み」)
○
わが詩いよいよ拙くあれ
キリストの栄 日毎に大きくあれ
(ノオトE)
「死もなぐさまぬ らんらんと むしばむ いのり」。
穏やかな青年詩人という印象が強い八木重吉ですが、この詩の一節に見られるようにその内奥には激しい葛藤の消息が伺えます。
それだけ彼は人生の厳粛さと共に、矛盾や不条理、虚しさにも真摯に向き合っていました。
しかし、この「いのり」を捧げる対象を明確に知っていたことが芥川との決定的な差違だったのではないでしょうか。
自死へ誘う囁きを自覚しつつも、最後まで人生の苦難を受け止め生き続けたのは何故か。
それは最後の「ノオトE」にある「わが詩いよいよ拙くあれ キリストの栄 日毎に大きくあれ」と言えた彼と芥川とで決定的に違う選択をさせたのは何か、それを見つめてみたいです。
死は避けられない歴然とした事実
今年のNHK大河ドラマは『義経』です。ご存じのようにそのオリジンは『平家物語』です。
そして『平家物語』のモチーフは「諸行無常」、「盛者必衰のことわり」であり、「おごれる人も久しからず。唯春の夜の夢の如し」という言葉に象徴されています。
確かに人生にはこの「おごれる人も久しからず」の事実があり、人生の勝組となって驕慢にとらわれ転落する例は後を絶ちません。古の人々はそこに人生の〈あわれさ〉と〈無常〉を感じ取りました。
しかし一方、「おごらざる人も久しからず」(太田道灌)という冷徹な〈死〉の現実があります。
確かに「人生いろいろ」、「人生楽ありゃ苦もあるさ」ですが、しかし、「水戸黄門」のようにいつもハッピーエンドでは決してない現実があります。
昨年相次いだ災害もしかり、この度の福知山線脱線事故もそうですが、そのように理不尽としかいいようのない〈死〉の現実があります。
この不条理を前にすると、人は沈黙せざるを得ません。それはあまりにも無情なためニヒル(虚無)に囚われてしまいます。
「どうせ死ぬ身なのだから……」「死ねばもともこもないのだから……」。
〈死〉を前にして人は怖れと不安に取り憑かれ、ついには自暴自棄になりたくなるのではないでしょうか。
だから、何とかしてこの〈不条理な死〉にも何らかの理由付けせずには落ち着くことができません。
どうして、こんな悲劇が起きたのか、そこにどんな意味があるのかを問い、原因を探り納得しようとせざるをえないのでしょう。
「ルカによる福音書」の13章4、5節でこんな記事があります。
また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
シロアムの塔がどうして倒れたのか、あの地方も地震が多いですから地震かも知れませんし、もしかしたら今回のJR事故のように人災かもしれません。いずれにせよ、思いもかけない突然の死が不条理にも18人の命を奪いました。
人々はその〈死〉を、彼らの罪による罰だと理解することで、自らの奥底に潜む恐怖をおさめようとしたのでしょう。
「天罰にちがいない」、とか「あの人はきっと前世で何か悪いことをしたのだ」と同情しつつ納得しようとしたのでしょう。
ちょっと前の日本人なら同じような考えをしたと思います。
今は天災について、天罰的な因果関係を見る人は少ないでしょうが、それでも不条理の理由を明快に答えることはできません。唯、哀れさに涙を流し戦くばかりです。
これが事故となれば、その原因となったものに対して強烈な憤りをぶつけることで、壊れそうな精神を何とか保とうとするのでしょうか。
日本人ならそこに「もののあわれ」と「無常観」を見るでしょう。そして時の流れの中で諦念していくのでしょう。
主イエスは、まず因果応報的な見方を否定されました。
彼らが何か罪を犯したからでは「決してそうではない」。
そして同時に彼らだけでなく誰もが「皆同じように滅びる」と述べ、あの18人と同じように、〈死〉と紙一重のところで生きているのだという当たり前の事実を明言されました。
「明日生きているかどうか分からない」と自暴自棄となって人たちが実感する現実は、実は私たちすべてに当てはなる「無常」というにはあまりにも冷厳な事実です。
〈死〉の現実はそれほどまでに無情に生と隣り合っていることを、この度の災害や事故でも示されています。私たちはこの〈死〉の現実をけっして避けて通ることはできません。
上述の「おごらざる人も久しからず」について、大木英夫氏は次のように述べています。
人間は、自分が「おごらざる人」だと思うところで、もっとも「おごり高ぶる人間」なのである。それは〈罪〉である。その〈罪〉を認めるということは、「おごらざる人も久しからず」という、落雷を引き受けることである。それを避けないことである。歴史は「おごらざる人も久しからず」の真理によって永遠と接触する。それが絶対者の通過の道である。……(中略)
人間の真に究極的な課題とは、〈罪〉にとらえられている自己の克服である。それは、落雷を受けて死ぬようなものである。簡単な事ではない。神が存在し、神が恩寵をもっている故に、この火に焼かれ、灰となったあとに、よみがえらせてくださるであろうという「信頼にみちた絶望」(ルター)の敢行、それが真の自己とのたたかいではないだろうか。そしてそれこそ、パウロが言うように、人間世界に向かって真に正気になることでもあろう。……(中略)
「おごらざる人も久しからず」というキリストにおいて啓示された歴史の真理は、人間をして古い自己から新しい自己へと鋳直す神の火なのであろう。
(大木英夫・富岡幸一郎共著『日本は変わるか?』5頁より)
どうしたらこの不条理の死に向き合うことができるのでしょうか。
どうしたらあの八木重吉のように最後まで生きる勇気を賜るのでしょうか。
それを探求し続けるとどうしても、この〈死〉に打ち勝つ主イエスの福音、つまり〈復活〉という問題と向き合わざるをえません。
復活をどうみるか
ところが最近のキリスト教界では、〈復活〉について明言されることが少なくなっています。
私の友人の中でも、不合理なイエスの復活を受け止めなくとも、神の広く大きな慈悲の愛の象徴と理解すれば十分ではないかとの声を聞きます。
内坂晃牧師は「復活をどう受け止めているか、それが信仰の試金石」と指摘されました。確かにそうで、ファンダメンタルな聖書理解をするクリスチャンを除き、「復活」を実存的解釈することが知的クリスチャンの間では主流となっているようです。
手元にある最近のキリスト教信仰の入門書ですら、復活を真正面から取り組んで説くものは少なく、不合理な解釈をなるべく避け、福音を生きる指針として、社会倫理の基準として実存的に説明しているものが多いです。最近の聖書学者にみる復活理解はたとえば次のようなものがあります。
十字架上で何の奇跡も起こすことができないままに「わが神、わが神、どうして私をお見棄てになったのか」と絶叫して息絶えたイエスを描き、しかしそのようなイエスに対してこそ「ほんとうに、この人間こそ、神の子だった」という信仰告白をローマの百人隊長をして言わしめるという、最古の福音書であるマルコ福音書15章の描写である。そして、「復活」の内実とはまさにこのようにして死んでいったイエスに対して神から与えられた「然り、それでよいのだ」という告知だった、というとらえ方である。
(青野太潮「イエスが死から『復活』したのは本当か」、『新約聖書がわかる』朝日新聞社刊1998年、99頁)
青野氏によれば、復活とは、「生前のイエスに出会うことこそが、『復活』のイエスに出会うことなのだ、という意味以外ではないだろう」と述べています。
また、それは福音書を繰り返し読むことで可能となるとして、次のようにも述べています。
…最初は過去の歴史上の人物の言行としてだけ読まれたに違いないものが、二度目、三度目の通読においては、もはや自分とは関係のない過去の人物の言行ではなくて、まさに今生きて自分に語りかけてくる人物のそれとして響いてくることになるであろう。そして実はそれこそが「復活」のイエスに出会うということなのだ。(同上、100頁)
また、パウロ研究の第一人者でもある青野氏は、パウロの復活体験を次のように説明しています。
…イエスの直弟子ではなかったパウロが、キリスト教徒を迫害する途上で体験した「復活」のイエスとの出会いについて、次のように述べているのに注目することが、極めて重要だと思う。「神は御子を私の内に啓示することをよしとされた」(ガラテヤ書1.16)。そしてパウロはそれをイエスの直弟子たちの体験に匹敵するものだと主張する(Ⅰコリ9.1,15.8)。
「私のうちに」が示しているように、それは心の深奥における内的体験であって、私の外側で、手でさわったり目で見たりすることができるような体験ではないのである。そしてそれならば、今この時に、この私にも起こり得て、私も追体験できる出来事である。その時、イエスは私の内で、生き生きとした生命をもって「復活」するのである。 (同上、101頁)
このように、青野氏は〈復活〉を非神話化して、現代人でも理解可能な受け止め方があることを示しています。
これに対して聖書原理主義的な立場や、正統信仰を自負する人々からの反論がありましょうが、彼は、それは「『いたずらな懐疑』を惹き起こすものであり、限りなく『狂信』に近いものであると考えている」と述べています。
同様の復活理解は、福音書研究家の第一人者である大貫隆氏によっても述べられています。
それは、イエスの十字架の死は弟子たちにとって理解しがたい「謎」であり、散らされた弟子たちは、その意味を「聖書」に探り問い続けた結果、「イエスの刑死を『贖罪死』として受け取り直し」、そこから弟子たちの再出発が起き、それが「復活」だと言うものです。
「謎」の死を遂げたイエスが、いまや新しい相貌で「現われ」てきたのである。仮に直接のきっかけがペトロの個人的な幻視であったとしても、旧約聖書の光に照らしての、否、旧約聖書そのものの新しい読解としての「謎」の解明は、すぐれて解釈的な意味発見の出来事であったと考えなければならない。もっとも、彼ら自身はそれを「解釈学的」などと人間中心的な表現では呼ばす、神が霊を通して彼らに与えてくれた認識、つまり「啓示」と呼んだ。
(『イエスという経験』大貫隆、岩波書店、2003年、221頁)
未来への展望と過去の読み直しと、この二つのことが弟子たちに同時に起き始めた希有な瞬間こそ、いわゆる「復活信仰」が成立した瞬間にほかならない。 (同上、225頁)
そして、ペトロたちとは異なり生前のイエスを知らなかったパウロの場合は、更に先鋭化して〈復活〉を受け止めたというのです。
パウロは原始エルサレム教会の「信仰告白伝承」を受け取ったが、それを超えて独自の道を進み、どこまでもイエスの死の呪われた「かたち」、すなわち、十字架の刑死に固着した。モーセ律法を基準にすれば、「呪われた」者の死として、モーセ律法の枠外へ永久に捨て去られたと言う他はないイエスの十字架こそ、神がその独り子を(すなわち自分自身を)放棄してまで、律法のわざによって自分を救おうとして救い切れない人間、抜き難いエゴイズムに縛られて自我が分裂し、生きていても死んでいるに等しい人間を、そのまま受け入れるために下ってきた出来事であった。それを了解した時こそ、キリストがパウロに「現れた」時(Ⅰコリ15.8)であり、パウロが「死者」の中からの復活を遂げた瞬間であった(ロマ4.17)。
(同上232頁)
こうした学者たちの〈復活〉の解釈は、合理的科学的思考こそ最良とする現代人には極めて説得力のある解釈でしょうし、ここにも深い真理の解明があると思いますが、しかし、皆さんはこのような「復活」理解から、〈死〉に打ち勝つパワーを受け止めることができるでしょうか。また、青野氏のいうように、福音書を繰り返し読む中で、そこに「今生きて自分に語りかけてくる人物」として復活の主と出会うとありますが、果たして聖書に真摯に向き合うことだけで、生ける〈復活の主〉イエスと出会うことができるのでしょうか。
上述したように作家の芥川龍之介はそれこそ死の間際まで福音書と挌闘しましたが(彼はパウロ書簡には余り触れていません)、そこで生けるイエスに出会い、救いの確証に生かされたとは言いきれない最後を遂げました。彼が遺した「西方の人」などに描かれたイエス像は、結局は自己投影されたものでしかなかったといえましょう。
それは、「特に知識人が、信仰によらずして、イエスを理解しようとすれば、結局は自己自身を見たり語ったりすることになってしまうのであり、多くの場合、イエスを語ることは自らの人間としての限界を明らかにすることになりかねない」(海老井英次、新潮文庫本解説)と指摘される通りだと思います。
こうした復活信仰抜きに、理知的に主イエスの福音を理解しようとする試みが果たして、おぞましいほどの罪の深淵から、また、受容できない人生の不条理から私たちを救いだす〈光〉となり得るのでしょうか。「闇の存在が信じられるのならば、それ故に光があることを信じるべきであるとする、キリスト者の論理を受け入れられずに、『光のない闇』の中を漂っているとの自覚を改めることが出来なかった芥川であるが、そこに単に芥川個人の問題に留まらない、『聖書』を文学的作品の一つとして読んで終わってしまう、多くの日本人のキリストとの係わりのあり方を思わざるを得ないのではないか」(同上228頁)との指摘は非常に重要だと思います。
また、パウロが〈復活〉について述べている手紙の箇所から受ける印象と、聖書学者たちが述べる復活理解とは、どこか違うように思えてなりません。
パウロにとっては、それは生死を分ける決定的事実でした。
「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(Ⅰコリ15.14)。
「復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にある」(Ⅰコリ15.17)と述べ、更に、
「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(Ⅰコリ15.19)とまで言い切っています。
さらに、もし復活がなかったなら、復活を説いている自分たちは神に反する偽証をしている大罪人だと畏れています(Ⅰコリ15.15)。
パウロにとっては、現代の学者たちのように「この世の生活でキリストに望みをかけているだけ」的な復活の実存的理解ではけっしてありませんでした。
それは新しい体を伴うこの世から来世へと続くいのちの連続を約束された〈希望〉だったはずです。
パウロは、「罪が支払う報酬は死」(ローマ6.23)と言い「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました」と人間の罪に縛られ死の牢獄に囚われた実相を見つめつつも、主イエスの福音は「滅びへの隷属からの解放」(ローマ8.21)であり、「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられ」(ローマ4.25)、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が罪と死との法則からあなたを解放したのです」(ローマ8.2)と証言しました。
同様な証言が新約聖書のあちこちにあります。
主イエスは、「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放」したと「ヘブル書」2章15節にあります。
また、「ヨハネによる福音書」には「死んだ者が神の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(ヨハネ5.25)とあります。
ここには「死」から「いのち」に「移る」という言葉があります。
パウロはこれを「怒りの器」から「憐れみの器」へと変えられると言い表しました(ローマ9.22-23)。
パウロにとっては、もっと切実で、目に見えるかのような現実として〈復活〉は迫っていました。
パウロは、コリント教会で「死者の復活などない」と主張するクリスチャンを自認する人たちと対峙し苦闘していました。
彼はこの問題を最重要課題として「コリントの信徒への第一の手紙」の最後で取り上げて熱く語っています。
本日は、私たちの人生を無にする〈死〉に打ち勝つ主イエスの福音の要諦〈復活〉について、パウロが語るこの箇所を皆様と一緒に学びたいと思います。
《コリントの信徒への手紙(Ⅰ)15章本文の学び》
パウロの論敵
コリント教会の混乱原因の一つが、福音理解を巡る対立でした。
パウロの対立者たちは大きく分けて以下の二種類あり、それらの間で信仰に揺らぐ信徒たちがいました。
①ユダヤ主義者
主イエスの十字架の死を旧約聖書に預言される贖罪として受け止め、律法を全し、世界の真の支配者であり、完成者として主を崇める立場にたっていました。
そのため、彼らとしては、律法や律法が命ずる割礼などの慣例の遵守は必須でした。
これに対して、「死のとげは罪であり、罪の力は律法」とまで言い放ち、福音を「律法からの解放」(高橋三郎)として捉えたパウロの主張は、許し難いものでした。
②「完全な者たち」「認識者」
一方、主イエスの福音は律法や罪からの解放であり、〈魂〉はこの解放によってすでに救われているから、肉体に属することは救いに無関係として、一方では「すべてがゆるされている」と放縦へ、他方では魂の解放の妨げになる肉体の罪を極端に避ける著しい禁欲生活へと自らを追いやるような人々がいました。
特に前者は、自分たちは既に救われており、あらゆる奥義を極めている「認識者」、「完全な者」と自認していたようです。この流れから後にグノーシスと呼ばれる大きな勢力となっていきます。
彼らにとって肉に属することがら(倫理など)にも配慮と慎みを説くパウロは、不徹底な者として、彼の使徒としての権威や思想を拒否していました。
彼らの思想には現代の私たちには理解できない面もありますが、〈すでに救われている〉 という自覚から派生した生き方には、自分を正しいとして行動する現代人に通ずるものがあります。
まず、自己の救いを確信しているのであらゆる権威を相対化して、〈権威〉を認めない点です。
現代人は自分自身を絶対化しています。ですから、「スーパーフリー」といった極端な生き方や「自分が楽しければよい」といった生き方が大手を振っているのです。
また、この世の生き方について倫理規範を無視する傾向が強く出てきます。
いわゆる「ジコチュウ」的生き方です。
これもかつての「完全な者たち」とは根拠こそ違いますが、真の神以外に〈絶対〉なるものを手中に収めているとして同じような生き方となります。
彼らの中に、霊的に既に救われている故に、「死者(肉体)の復活などない」との主張があり、それによって信者たちはかなり動揺していたようです。
これは現代人にも通ずる発言でしょう。我々現代人は、科学的合理主義的思考が至高だと教育されています。その観点から見れば、先の生物学的死の意味での説明でも述べましたように、肉体の復活など不可能です。同じような考え方は、2000年前の当時でもあったことでしょう。
ユダヤ人でもヘレニズムの影響を深く受けていたサドカイ派の人々は復活などないと断言していたようです。
ギリシア的二元論では、肉体は滅ぶべきものであり、魂は不滅でした。
そのように、復活を魂の不滅というイメージで受け止めることは、当時の人々はもちろん、私たちでもある程度受け入れられているのではないでしょうか。
しかし、キリストの〈復活〉は決してギリシア的二元論のいう魂の不滅とは、質的にも全く異なるものなのです。では果たしてキリストの〈復活〉とは何か、それをこれからパウロの証言を通して学んでいきましょう。
本文の学び
1兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。2どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。
ここでパウロはまず、福音を賜った当初のことを想起させています。〈主イエスの福音とは何か〉それが原点です。
それをあなたがたは「受け入れ、生活のよりどころとして」いるし、それは「言葉」によって「告げ知ら」されたのです。
この「言葉( ロゴス)はとても重要です。
福音は「ロゴス」によって伝えられるのです。
それは「生けるパン」(マナ)です。その「ロゴス」を「しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます」とパウロは断言しています。
そして、パウロの対立者たちもこの「ロゴス」を受け入れてキリスト信仰に入ったという原点を回顧させています。
次の2節後半に重要なキーワードがあります。
それは「無駄」という言葉です。
このキーワードはこの後にも度々出てきますので後述しますが、もし、キリストの福音が真理ではないなら、それを信じている私たちの人生は「無駄な(虚しい)」ものだという想定は、ある意味現代の私たちにもとても切実に迫ってくるのではないでしょうか。
キリストの福音を信じていても、「おごらざる人も久しからず」の冷たい鉄則のような現実があり、「どうして?」と煩悶せざるを得ない理不尽で受け入れがたい悲劇に遭遇することもありましょう。
そんな時、「主イエスの福音など無駄さ」というサタンの囁きが、私たちの魂を試みるのではないでしょうか。
3最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。
すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、5ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、8そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。
これが、彼らが伝え聞いた福音の「ロゴス」です。
この部分は原始キリスト教団が誕生して間もない時期から承認されていた「ケリュグマ」または、「信仰告白伝承」と学者が呼んでいるものです。
3b〜5節までと3b〜7節という説があります。
これがキリスト教の原点です。
この手紙は紀元50年頃に書かれていますので歴史資料的にも最も古く、おそらくオリジナルにもっとも近いものだと言われています。
このうち、3b〜4節が最も古い伝承の根幹だと言われています。岩波訳によってもう一度引用してみます。
3bキリストは、聖書に従って、私たちの罪のために死んだこと、4そして埋葬されたこと、そして聖書に従って、三日目に〔死者の中から〕起こされていること
ここで、主イエスはすでに「キリスト」と呼ばれています。
「キリスト」とは救世主という称号です。
「聖書に従って」は3bにおいてはイザヤ53章4,5,6,8,10,12節、4節ではホセア6章2節,ヨナ2章1節などが参照となりますが、具体的な引用というより「神のご意志によって」という意味に受け止めた方がよいとの意見もあります(佐藤研など)。
「私たちの罪」は原語では「トーン ハマルティオーン ヘーモーン」です。「トーン」は定冠詞です。「ハマルティオーン」は「ハマルティア」(罪)の複数形、「ヘーモーン」は「私たちの」を現し、直訳すれば「私たちが犯したあの数々の罪」となります。
つまり、ここでの罪は抽象的なものではなく、弟子たちにとって極めて具体的な心の痛みとして、主イエスに負っていた数々の罪をさしています。
新共同訳で「復活した」と訳されている語は「エゲーゲルタイ」で、「エゲイロー、起きる」の受動態の現在完了形です。
従って岩波訳のように「起こされている」という意味となり、また現在完了形ですので、その影響が今に至っていることを現しているそうです。主イエスは、神によって「起こされ」そして今もその影響が及んでいることを現します。
つまり、最初期の弟子たちは、主イエスの十字架による挫折と敗北を目の当たりにして、栄光の絶頂から絶望のどん底へと突き落とされるような挫折感、敗北感に打ちのめされました。
ペトロのように主を否認したり、裏切り、見殺しにしたという罪責感も日増しに強まっていたことでしょう。
主の埋葬は、自分たちが参画していた運動が決定的に敗北した徴でした。
しかし、その絶望のどん底から〈起こされた〉という、誰一人予想だにしない逆転劇が起きたのです。
これが〈復活〉の出来事でした。
福音書や使徒言行録にその出来事がある程度神話化され記述されています。
その中で最も象徴的な出来事は、〈空になった墓〉です。このことは当時も決定的な事実だったようで、マタイによる福音書27章62〜66節には、弟子たちが遺体を盗み出さないように番兵を置いて見晴らせたとあり、予想される反論に予防線を張っています。
福音書などには伝承された様々な主イエスの顕現物語があります。
いずれもその背後には歴史的事実、個人的事実の体験があったことでしょう。
それらは宣べ伝えられる過程で物語化されていきました。
今日では原初の彼らの体験を再現することは困難です。
しかし、いずれにせよ明確なことは、これらの体験は彼らの「想定外」の出来事だったということです。
また、それによって絶望の淵にうち沈んでいた弟子たちは、新しい局面へと引き上げられ、俄然として立ち上がったのでした。そこには、自分たちが主イエスに犯した数々の罪に対する赦しの実感も伴ったことでしょう。
5ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、
「ケファ」はペトロのことで、「十二人」というのは〈12弟子〉を象徴的に現しています。
厳密に言えばイスカリオテのユダは、すでにこの仲間には属していませんでしたから(既に自死していたので)、11人というのが正しいのでしょうが、12は(直弟子の)象徴的表現だと言えます。
「次いで、五百人以上もの兄弟たち」というのは、具体的にどのような史実を指すのか検証することはできませんが、この手紙が書かれた紀元50年以前にはすでに「信仰告白伝承」として定着し広まっていたようです。
主イエスの十字架の出来事が起源30年頃ですから、約20年以内の経過となり、この「信仰告白伝承」が明文化された頃には、その体験をした人々の大半が生存していた可能性はありましょうが、「そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています」のくだりは、括弧書きだと思われます。
7節の「ヤコブ」は、主イエスの兄弟ヤコブを指します。
ヤコブはエルサレムに本拠を置いた原始キリスト教団の指導者でした。
パウロは彼に二度以上は会っています。
「その後すべての使徒に現れ」の「使徒」が具体的に誰を指すのか不明です。
6節の「五百人」を、ペトロを筆頭とするグループ、7節の「使徒たち」を、ヤコブを筆頭とするグループという見方もあるそうです(岩波訳注参照)。
こうした直弟子たちとは全く異なる立場にいたパウロの〈復活〉された主イエスの顕現体験は、文字通り〈想定外〉の出来事でした。
8そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。
パウロ自身も、この「信仰告白伝承」の延長にあるものとの認識を、8節で表明しています。
「月足らず」とは「エクトゥローマティ」で、岩波訳では「未熟児」と訳されています。注によると「早産による者」とか「流産〈死産〉による者」との二つの説があるそうですが、一説にはパウロに対する中傷のあだ名だったとも言われています。
また、パウロが謙遜して「未熟者」という意味で用いたという説もあります。
9わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。10神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。11とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。
パウロの回心については、「使徒言行録」やパウロ自身の書簡で述べられています。
このうち、「使徒言行録」(9.3〜8、22.6〜10、26.13〜18)はパウロ自身の体験談ではなく、彼が宣教の過程で話したことなどがもととなりできたある程度まとまった伝承をルカが脚色したものだと考えられています。
パウロ自身がこの事件について自ら触れている箇所も下記のようにありますが、詳細には語っていません。
わたしは……わたしたちの主イエスを見たではないか。(Ⅰコリ9.1)
私を母の体内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子を私に示して、…(ガラテヤ1.15〜16)
復活の主がパウロに顕現されたことにより、彼はそれまでの律法に忠実な人生が、実は真の神に全く反する生き様であったことを示され、文字通り180度の回転をさせられました。その体験から「実に、律法は怒りを招くもの」(ローマ4.15)との驚嘆すべき証言をして、ユダヤ人やユダヤ主義者のクリスチャンたちを驚愕させたのです。
パウロ自身当初は、主イエスと彼に従う者たちを、神を冒涜する者として怒りに任せて追求していました。
その姿は今日のイスラム原理主義者やキリスト教原理主義者たちが聖なる怒りの故に自己犠牲すら厭わず突進する生き様に重ねることができましょう。
神の「鉄槌」的な発想はかつての大日本帝国でもしきりに持ちだされました。
〈ジコチュウ〉がいけないことは良識ある人なら容易に理解できましょう。
しかし、大儀を掲げそれに殉ずる生き方は、人生を意義あるものとして真摯に生きようと志す人、生き甲斐を求める人にとっては、むしろ至高の生き方に映ります。
武士道では、士は死に至るまで(主君に)仕えること(忠)を至高の生き方としました。
そのために〈死ぬ〉ことはむしろ名誉であり、ある意味〈死に場所〉を求めて生きていたといっても過言ではありません。そこに武士道の美学がありました。
大儀を見失った戦後世代の風潮を歎き、三島由紀夫はこの美学に殉じて、彼の信ずる大儀のための〈死〉を自ら演出し自決して果てました。
戦後60年が経ち、繁栄の極みの中で社会倫理が乱れ、自己の幸福追求を最優先し、自分勝手な生き方が是認される風潮やシニシズム〈冷笑主義〉、ニヒリズム(虚無主義)に捕らわれている国民を憂いて、国の指導者たちはもう一度この国の「大儀」を必要とし始めています。
60年前にそれが根本的倒錯の病根であった事実を、神より示されたにもかかわらず、それを真摯に受け止めきれなかった私たち日本人は、今また、この根源的な倒錯の罪の古巣を、憧れをもって回顧し始めているのではないでしょうか。
しかし、そこに罪の深淵が大きな口を開けて待っていることを、パウロによって学ばなければなりません。
そのようにパウロは自ら神に忠実で熱心な生き方をしていると自認していましたが、実はそれが根本的倒錯であり、むしろそれは神に敵対していることを、突然〈示された〉のでした。
そして、その倒錯から自分が無条件で神によって救いだされたとの自覚が、10節の「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」によって端的に表白されています。
これはパウロ一人にかぎりません。私たちすべての告白でもありましょう。
今日のお話の中で、ぜひ覚えて頂きたい聖句です。
「カルティ デ セオー エイミ ホ エイミ」
「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」。
「わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました」。
ここにもキーワードの「無駄」が出てきます。
彼が伝えた福音の言葉によって、何もなかったところにイエスを〈主〉と崇める者たちの集まりが誕生し、人生や社会に大きな変化を与えつつありました。
パウロの働きは事実が雄弁に語っていました。
コリント教会内の対立者たちもその現場に居合わせた証人でした。
当初、彼らは何らかの悩みや不自由さ、困難さを抱え、希望を懐けないままその日暮らしの毎日だったことでしょう。そこにパウロを通してもたらされた主イエスの福音は、まさに希望溢れる新しい人生への起点となったことでしょう。
自らの内に涌いてくる生きる勇気を実感したと思います。
また、それは小さな集まりを形成し、やがて教会にまでふくれあがり、互いに敬愛し助け合う仲間を得たことでしょう。
そうして共同体〈家〉の建設(オイコドメオー)を目の当たりにしたのではないでしょうか。
何もなかったところに新しい〈家〉が建っていったのです。
その事実こそ何よりの証しでした。
しかし、それは「共にある神の恵み」によって「働」かされてきたとパウロは表白しています。
このことは、パウロだけでなく、パウロによって主イエスの福音に接した対立者を含みすべての人たちが自ら経験した事実であり、それ故、福音を「信じたのでした」。
【キーワード:無駄】
ここでキーワードの「無駄」について補足します。
この15章には和訳で「無駄」と訳された箇所が4箇所(2,10,14,58節)あり、また類語として「むなしい」と訳された言葉が1箇所(17節)あります。
2節……さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄(エイケー)になってしまうでしょう。
10節…わたしに与えられた神の恵みは無駄(ケノス)にならず、
14節…そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄(ケノス)であるし、あなたがたの信仰も無駄(ケノス)です。
58節…主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄(ケノス)にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
17節…キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく(マタイヤ)
ギリシャ語の原文では括弧のように異なる単語が使われています。それぞれの意味と使用例を紹介します。
エイケー
副詞、「無駄に」とか「不成功に」との意味です。
ここ以外ではローマ13.4、ガラテヤ3.4、コロサイ2.18などに使われています。
例:「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか」(ガラテヤ3.4)
ケノス
形容詞で、新約聖書で18箇所使われその内半数以上がパウロ書簡です。意味としては①空の、中味のない( empty, vain)、②から手の、③実を結ばない、むなしい、役立たない、の意味です。
使用例としては、Ⅰテサロニケ3.5、Ⅱコリ6.1、フィリピ2.10、ガラテヤ2.2など。
神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。(Ⅱコリ6.1)
…こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄ではなく、苦労したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。(フィリピ2.10)
…自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。(ガラテヤ2.2)
あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。(ガラテヤ4.11)
この動詞形の「ケノオー」は、本来「空にする」という意味ですが、パウロは独自の意味「空しくする」、「無力になる」、「奪い去る」)を込めて使っています。ローマ4.14、Ⅰコリ1.17
律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰は無意味であり……(ローマ4.14)
しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、…(Ⅰコリ1.17)
マタイオス
形容詞、空虚な、空疎な、愚にもつかない、空しいという意味で、「ケノス」が「空の、内容のない」という意味に対して、「マタイオス」は、虚栄的、無価値、虚偽の、という意味合いがつよい。ヘブライ語の「ヘーベル」(風のそよぎ、無)に相当する語として用いられたそうです。
パウロの書簡を見ると、至る所でしきりに、「無駄」とか「むなしい」という言葉を使っているのは、それだけ彼が幾度となくそうした空虚さに直面した現実を反映していたのだとわかります。
彼の伝道が実を結び、2000年にわたり人類に多大の影響を及ぼしたという歴史の結果を知っている私たちは、パウロの生涯がけっして〈無駄〉ではなかったことを知っています。
しかし、当時彼は絶えずユダヤ人から追求され、異邦人からはあざけられ、双方からの迫害はもとより、彼が苦労して建てた生まれたばかりの諸教会内ですら絶えず分裂、崩壊の危機にありました。その中には、裏切りや見捨てられることもあったでしょう。
その中で「私の労苦が無駄になってしまうのではないかという心配」(Ⅰテサ3.5)が絶えずつきまとっていたのではないでしょうか。
パウロの生涯はこの「ケノス」とたえず戦っていたといっても過言ではありません。
そしてこれは主イエスに従う者誰もが体験させられることでしょう。
その最たるものの一つが、これから問題にする「死者の復活などない」という勢力からの挑戦でした。
◆死者の復活
12キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。
先にも述べましたように、コリントの教会には、主イエスの福音を曲解して、あらゆる束縛からの解放として福音を理解し、その救いに既にあずかっていることから、いかなるこの世のしがらみにも捕らわれることのない〈自由〉を得たと高揚していた者たちがいました。
彼らにとっては今すでに魂が救われていることで、「完成された者」、「完全な者」との自己理解があったようです。
そうした彼らにとって、肉体は救いに無関係であり、「すべてのことが許されている」(Ⅰコリ6.12,10.23)と豪語していた者もいたようです。
そう考えるなら論理的帰結として死者(肉体)の復活など当然なくてもよいわけです。
また、当時の人々にとっても当たり前であったように、肉体は〈死〉によって滅ぶものであり、その肉体が復活することはないと主張した者たちもいたのでしょう。
現代に生きる私たちには、彼らの反論の方が是認できましょう。
現代人にとっては、彼ら以上に〈死者の復活〉など容認できなくなりました。
ですから〈復活〉を教義として掲げるキリスト教を受け入れる人は少なくなり、クリスチャンといえども「復活」をより合理的に実存的な解釈をして納得しようとしているのです。
でも、果たして私たちの合理的な考え方が正しく真理をとらえているのでしょうか。
13死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。14そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。15更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。16死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。17そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。18そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。19この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
ここでキーワードの「無駄」・「むなしい」が出てきます。
このキーワードを軸に13・14節と16・17節で対の修辞的表現がなされています。
【13、14節】
「死者の復活がない」→「キリストの復活もない」
→「我々の宣教も無駄」
=「あなたがたの信仰も無駄」
→「神の偽証人とさえ見なされる」
=「神に反して証しした」
【16、17節】
「死者の復活がない」→「キリストも復活しなかった」
→「あなたがたの信仰はむなしい」
=「あなたがたは今もなお罪の中にある」
→「キリストを信じて眠りについた人々も滅んだ」
→「わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者」
パウロは本気でそう思っていたのでしょう。
死者の〈復活〉がなかったら、「キリストも復活しなかった」、だとしたら、今命がけでやっている宣教も、その福音を信じているあなたたちの信仰も〈ケノス〉だ。それはつまり、「今もなお罪の中にある」ことであり、〈復活〉を信じて亡くなった先人たちも死へと消滅してしまったことになる。
ならば〈復活〉を信じている私たちは「すべての人の中で最も惨めな者」であるばかりか、「神に反して証しした」「神の偽証人」なのだ……。彼にとって「神の偽証人」であることは何よりも耐えられないことだったでしょう。
それは彼が宣べ伝えている主イエスの福音そのものが〈偽り〉だということを意味するからです。
だとすれば、この〈偽証〉に命を賭け、また多くの人をそれに招いているパウロの人生は全くの方向違いで滑稽そのもの、「最も惨めな者」ということになります。
かつてのオウム真理教のリーダーたちは明らかに間違った真理を説き、多くの若者たちの人生を巻き込みました。もし、キリストの福音が神の真理でないなら、パウロは彼らと同じような立場に立たされたことになります。
ここで、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば」に注目したいです。
ここにもパウロの細心の配慮が伺えます。キリストの福音はこの地上での御利益〈幸福〉を約束するものでは決してありません。
それはこの世の生にあっては、「おごらざる者も久しからず」の冷厳な不条理があることをよく知っていたからです。
たとい人もうらやむ幸せな人生を全うしても、最後に〈死〉が訪れます。
この〈死〉を克服しない限り、最終的な平安はありません。
この世では私たちは〈完成されない〉のです。
また、「どうせかならず死ぬのだから」と思えば何をしようと勝手であり、「さあ、飲み食いしよう」と限りなくニヒルに堕ちましょう。
このように〈復活〉の希望がなければ、救いの完成も、また正義の貫徹もありえません。
そんな世はまさに無秩序、混沌以外の何ものでもありません。
確かに戦争や紛争地域などにはそのような混乱が見られます。しかし、事実はどうでしょうか。私たちの目に映る世界は、本当に救いようがない混沌に堕する世界でしょうか。
20しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。21死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。22つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
20節は、「告げ知らされた福音の言葉」に基づいています。
この発端は、「空になった墓」の事実です。
マグダラのマリアやペトロたちの確認した証言が発端でした。
その後、様々な体験を経てこの「信仰告白伝承」という言葉となって結実し、それが〈福音〉のエッセンスとして宣べ伝えられたのでした。
21、22節は、後にローマ書5章12〜21節で詳述されます。
23ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、24次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。25キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
これも「信仰告白伝承」の一部だと言われています。
ただ、こうした再臨信仰そのものも現代の聖書学者によって非神話化されようとしています。
たとえば、これは、人間が歴史の支配者ではないという意味の神話的表現だというように。
もちろん、パウロは未来の出来事を予見しているのではありません。
その意味で聖書原理主義者のように、文字通り未来がこのようになるというふうにこの箇所を受け止めることはできないでしょう。
しかし、学者の言うような解釈が妥当かどうか、今の私にはわかりません。
26最後の敵として、死が滅ぼされます。27「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。28すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。
「罪が支払う報酬は死」(ローマ6.23)とありますように、〈死〉は〈罪〉の結果です。
〈死〉はすべてを「ケノス」としてしまいます。
だから人類の最大の敵はこの〈死〉なのです。27節は下記の詩篇8篇7節を典拠としています。
御手によって造られたものをすべて治めるように
その足もとに置かれました。
この詩篇の言葉も、「信仰告白伝承」が形成される過程で見出されたものでしょう。
だから、〈死〉もキリストの「足もとに置かれた」と主張されます。
29そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。
これは何を指すのかいろいろな説がありますが、どうやら当時のクリスチャンたちは、未信者のまま死んだ肉親や親しい人のために彼らの代わりに洗礼を受けるというようなことがなされていたようです。
もちろん、「完全な者」を自認していた対立者たちはそのような事はしていなかったでしょうが、同じコリント教会の仲間たちのそうした行為を見知っていたことでしょう。ただ、その意味でここは、対立者たちには説得力のある議論ではなかったと思います。
30また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。31兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。32単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、
「食べたり飲んだりしようではないか。
どうせ明日は死ぬ身ではないか」
ということになります。
33思い違いをしてはいけない。
「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」
のです。34正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。
「いつも危険を冒している」については他の書簡でも度々言及されています。
代表的な例は「コリント第二の手紙」11章23〜27節です。
苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度、鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え乾き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだある……
これほどの危険を冒してまでパウロたちが伝道に命をかけるのは何のためか、自ずと答えが返ってきます。
31節「わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば」は、回りくどく訳されていますが、原語では「私たちの主イエス・キリストにあって(enエン)、私がいだくあなたがたについての誇りにかけて言う(誓う)」というような意味合いです。
「日々死んでいる」は、ローマ書8章36節によれば「わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」とあります。具体的には上述のような日々の艱難をさしています。
ローマ書では簡潔に「艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」(8章35節)と述べています。
32節「単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう」。
「野獣と闘った」については、いくつかの解釈があります。
当時見せ物として拳闘士(グラディエーター)が野獣と闘ったそうですが、ときには囚人と野獣を争わせるような残酷なこともあったようです。
後代の大迫害期には実際にそうやって殉教したクリスチャンもいました。エフェソにも大競技場がありましたから、そうした出し物もあったことでしょうが、パウロがそれを体験したという確証はありません。
「人間的な動機」として考えられるのは、グラディエーターが名誉とお金のためにライオンなど勇猛な獣と闘うことがありましょう。今日で言えば闘牛のマタドールでしょうか。
でもそういう名誉はパウロには全く魅力のないものでした。
「野獣と闘った」を比喩的に解釈するという説もあります。おそらくこちらの方が妥当でしょう。
エフェソでの3年間の宣教は、実りある成果も大きかったのですが、それだけ苦難の連続でもありました。実際、この手紙も牢獄、ないしは軟禁状態の中から認められています。
パウロと艱難を共にしたエパフロディトはエフェソで瀕死の重病にかかりました(フィリピ2章25〜27節)。また、使徒言行録19章21節以下にあるエフェソ全市民を巻き込んだ大騒動、いわゆる「デメトリオ事件」を指しているのかも知れません。
いずれにせよ、パウロは好んで「野獣と闘う」ようなことはしたくなかったでしょう。まさに、「何の得があったでしょう」です。
「もし、死者が復活しないとしたら……」については後述します。
「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」はイザヤ書22章13節の70人訳によっています。新共同訳では「食らえ、飲め、明日は死ぬのだから」となっています。
33節の言葉は、聖書の言葉ではなく、紀元前3世紀のギリシャの詩人メナンドロスの喜劇「タイス」の一節で、当時諺のように流布していたようです。
34節「恥じ入らせる」は、「赤面させる」という意味で、新約聖書ではパウロだけが使っている言い方だそうです。
ここ以外ではⅠコリ6章5節にあります。姦淫の女を責め立てた男たちが、主イエスのひと言で激しい怒りの矛を沈めたように(ヨハネ8章)、パウロの説得は彼らを赤面させることができたのでしょうか。
ここに、パウロの切実な真情が吐露されています。
これに対しては、おそらく対立者たちも沈黙したのではないでしょうか。
何故パウロたちは文字通り「日々死ぬ」ような思いで危険な目に会いながらも、主イエスの福音のために働いているのか。
もし、キリストの復活が〈偽り〉ならば、それはまったく「ケノス」であり、滑稽そのものです。
復活がない、つまりこの世がすべて〈死〉で "the end" (一巻の終わり)なら、「どうせ明日は死ぬ身ではないか」、「食べたり飲んだりしようではないか」(32節)と当然なるでしょう。
繁栄の極みにある現代日本では、もちろん多くの良識ある人たちは日々節制して暮らしていますが、もし、明日限りの命となれば、果たして遺された時間の最後の一秒まで自分を律することができるでしょうか。
そうでなくとも今日、多くの無謀な者たちが、「今が楽しければいい」と豪語して未来に希望を懐かず、その日暮らしをしている現実を、しばしば見聞きします。
33節「思い違いをしてはいけない」
原語では「メー プラナステ」で、「プラナオー、だます、欺く、惑わす」の受動態命令形です。
岩波訳では「あなたがたは惑わされてはいけない」ですが、むしろ「欺かれるな!」ではないでしょうか。
パウロは、私たちを絶えず〈欺く〉存在を意識していたと思います。
このフレーズはⅠコリント6章9節、ガラテヤ6章7節でも使われています。
また、ガラテヤ3章1節では「だれがあなたがたを惑わしたのか」とパウロは悲痛な叫びを上げています。彼の周囲にはいつも〈欺き〉の勢力が迫っていました。
「食べたり飲んだりしようではないか」は、しばしば酒の席で酔った勢いで語られる言葉でしょうか。
パウロはこう続けます。「正気になって身を正しなさい」、つまり「酔いを覚ませ」です。
最近、飲酒運転による悲惨な事故が続き、飲酒運転は事故ではなく事件だとの声が上がっています。
酔いは人の判断力を鈍らせます。それが悲劇を生み、不条理の死をもたらしてしまうのです。
キリストの福音によってこの世を超えた「もう一つの神の現実」を知った筈なのに、復活を否定すれば、それはもう一度この世的な、目で見え、手で触れるものにだけ縛られる生き方、死がthe endの生涯に引き戻されてしまいます。
「神の現実」に目を閉ざしてはなりません。
〈復活〉はその試金石です。
「正気になって身を正しなさい」、「酔いを覚ませ」、「欺かれるな」、パウロの必死の訴えが伝わってくるではありませんか。
この世的な合理性ではけっして理解できず、また人間の言語では表現しきれない「神の現実」を言い表すことは、パウロであっても難しいことでした。しかし、神は言葉をこえて、〈事実をもって語り給う〉のです。
パウロの苦闘する日々そのものがそれを証ししている、自分たちの苦闘はけっして〈ケノス〉ではない、確かに手応えのある出来事・〈事実〉なのだ、それはあなたたちも一緒に味わったではないか、目を覚ましなさい、そう必死に説得するパウロの姿が目に浮かぶようです。
復活体について
35しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。
では、一歩譲って〈復活〉があるとしたら、それはどんなふうに復活するのか、と反論する声があがることをパウロは想定しています。
実際、誰も復活した体を見たことも触ったこともないわけですから、それを立証することは不可能です(後に福音書に記されたトマスの逸話などがありますが、すでに神話化されています)。
人が死ねば細胞はアポトーシスやネクローシスを起こして肉体は破壊され、やがて腐敗して最後は骸骨となります。
どんなに強靱な肉体でも、またどんなにビーナスのような美しい肉体であっても死ねば骸骨と化します。
古代エジプト人たちは、何とかそれを防ごうと遺体をミイラ化しました。そのため当時の最高水準の技術が惜しみなく投入されました。科学が進歩し多くの人がかつて人類が経験したことのない帰属的な生活を享受できる今日でも、人類はかつてのファラオのように不老不死を目指し日夜努力と財力を惜しみなくつぎ込んでいます。
そして、今やクローン技術によって再生された体に、何らかの技術を使ってかつての記憶を植え付け、人工的に復活を起こさせるといったSF的な発想もけっして夢物語でなくなりつつあります。
しかし、それでも一端死んだ者の体を完く同じ人格をもった人として生き返らせることは不可能でしょう。
しかし、聖書のいう〈復活体〉とはそういうものでは決してありません。
それは、どういう体なのでしょう?
「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」この問いは現代人にとってもパウロに疑いをもって投げかける疑問です。
しかし、パウロはそういう設問自体を一蹴します。
36愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。37あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。38神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。39どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。40また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。41太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。
36節「愚かな人」は、「分別のない者」(岩波訳)、「感性のにぶい人」(本田哲郎訳)の意味です。
39節の「人間の肉」「獣の肉」「鳥の肉」「魚の肉」の「肉」は原語で「サルクス」です。
この語は、新約聖書で147回使われ、その内パウロ書簡に72回、パウロの影響を受けた文書に25回使用されています。本来は生物体を構成するものの意味で、文字通り「肉体」を指し、英語のfleshや physical bodyに相当します。そこから①非造物としての生き物、②人種・血縁、③利己的に生きる人の生活原理などの意味でパウロは用いているそうです。
これに対して「ソーマ」は元来のギリシア語では「死体」を意味し(英語ではcorpse, body)、さらには天体や無生物(substance)も表す言葉でした。
ギリシア哲学においては、ソーマを魂が抜けて置き去りにされたもの、魂の牢獄というように考えられてきました。
旧約ではこのようなプシュケーとソーマを分離するとらえ方はなく、「心身一如」的なとらえ方をしていました。
新約では〈ソーマ〉は、パウロ書簡を除いては「死体」「からだ」という意味で用いられています。
しかしパウロはさらに広い意味でこの語を使い、生命が宿り、現れ、活動する場をさしているようです。
ヨハネ12章24節に「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という有名な主イエスの言葉あります。種が生長すると、種からは想像も付かない植物となるように、〈復活〉の体=〈実〉 は、種を蒔か(死な)なければ命を得ず(「生かされない」岩波訳)、その形〈ソーマ〉も分からないのです。つまり死ななければ復活の体は分からないということでしょうか。
42死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、43蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。44つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
なんだか禅問答のようですが、主イエスの「一粒の種」の譬えと同じく、植物の種と実の関係に喩えています。「蒔かれるとき」、「朽ちるもの」・「卑しいもの」・「弱いもの」というのは、救いに与るときの私たちの実態を暗示しているのでしょうか。
キリストの福音に接する前は、私たちは、朽ち果て、卑しく、弱い存在でした。それが、福音により〈復活〉の希望が与えられ、「朽ちないもの」・「輝かしいもの」・「強いもの」へと造り変えられる、〈死〉んで〈復活〉したとき、それは種(「肉のからだ」)からは、想像もできない植物(「霊のからだ」)へと大変容させられるのだとパウロは述べています。
これをまとめると次のようになります。
「肉のからだ」
(ソーマ プシュキコン)
〔自然の生命体〕
①朽ちる状態(エン フォトラ)
②卑しい有様(エン アティミア)
③無力なうち(エン アステネイア)
「霊のからだ」
(ソーマ プネウマティコン)
〔霊のからだ:復活体〕
①朽ちないもの(エン アフタライア)
②栄光あるもの(エン ドクセー)
③強いもの(エン ドゥナメイ)
もちろん、これは死後〈復活〉によって賜る「霊のからだ」を現しているのでしょうが、しかし、キリストの福音に生かされたとき、すでにこの賜物を戴いているのではないでしょうか。
私たちは「土の器」(「肉のからだ」)に賜る「宝」は、まさにこの「霊のからだ」の予表ではないでしょうか(Ⅱコリ4.7)。
「外なる人(肉のからだ)は衰えいくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々〔死んで〕新たにされていきます」(Ⅱコリ4.16、〔 〕内は横江の解釈による追加)にある「内なる人」とはまさに「霊のからだ」の賜物を指しています。
そして、「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」とローマ書8章11節にありますように、私たちは今、この地上でそれを体験させて頂けるのです。
そして〈復活〉の日、100%「霊のからだ」と創り変えて頂けるのではないでしょうか。
また同様に、フィリピ書では「キリストは……私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」とありますが(フィリピ3.21)、「卑しい体」が「肉のからだ」であり、「栄光ある体」が「霊のからだ」に相当することは一目瞭然です。
さらに次のようにも述べています。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。……なすべきことはただ一つ、後のものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです(フィリピ3.12〜14)」。ここでいう「賞」は「霊のからだ」と言って差し支えないでしょう。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリ5.17)のです。
45「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。46最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。47最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。48土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。49わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。
45節は創世記2章7節を指します。
これも70人訳の引用です。
新共同訳では「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」です。
「命ある生き物」は原語では(プシュケーン ゾーサン)です。
(プシュケーン)の原形は(プシュケー)で、「魂」と和訳されることが多い単語ですが、原意は生物学的な「生命」(physical life)とか「生物」(living creature, that which has life)を現す単語です。
46節の「自然の命の体」は(プシュキコン)で同じです。私たちの肉体も(プシュケー)に相当します。
46節の「最後のアダム」は主イエスを指します。
49節の「似姿」は原語では(エイコン、像)という言葉が使われています。
この単語は、70人訳の創世記5章3節「アダムは……自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた」の「かたどった」に用いられています。
「なっている」の原語は(ポレオー)で「着る」とか「(なになにの様相を)呈している」という意味です。
「土で造られたエイコン」を着ているように、「天のエイコンを着るようになる」。53節、54節では「着る」という意味で(エンドゥオー)という別の動詞が使われています。
パウロは対立者の設問を一蹴しています。
天と地の遙かなる隔たりを意識しない設問だからです。
パウロは種の譬え(これは主イエスも用いられました)など、言葉をつくして説明していますが、要するにパウロ自身、この世的な言葉で「霊の体」を具体的に描写することを放棄しているのです。
それはまさに、聖なるものだからです。
私たちが神を表現できないように、復活の体は「天に属する」聖なるものであり、それはこの世の言葉で表現できるものではない、だから、そう問うこと自体ナンセンスだというのです。
これも、議論としては論敵に対して説得力のある論理とは言えないでしょう。
しかし、パウロとしてはそういうしかなかったと思います。
彼自身、復活の体がいかなるものか、この地上で具象化されるものではないとしか言いようがなかったのではないでしょうか。
50兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。
私たちが今何よりも確かな現実だと受け止めているこの世の「肉と血」(地上のあらゆるものを指します)は、〔そのままで〕(岩波訳の補足)「神の国を受け継ぐことはできず」、「朽ちる」ものです。しかし、「朽ちないもの」は、人間の言葉で具象化できるものではありません、ちょうど神ご自身を言い表せないように。
彼はそれを「神秘(ミステーリオン)」と言い、次のように言い表しました。
51わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。52最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。53この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。54この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
「死は勝利にのみ込まれた。
55死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
56死のとげは罪であり、罪の力は律法です。57わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。58わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
51節、「神秘」は従来は「奥義」と訳されていました。
原語では「ミステーリオン」です。英語のmysteryの語源です。
「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」とは、〈死〉によって永遠に消滅(眠り)してしまうのでは決してない、この地上の「肉の体」とは異なる有様に「造りかえられ」、私たちのいのちは続くということです。
52節、「一瞬のうち」は原語では「瞬きをする内に」です。
53節、「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」にある「着る」というイメージをパウロはしばしば用います。ガラテヤ書3章27節「キリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている」、ローマ13章14節では「主イエス・キリストを身にまといなさい」。
54、55節の引用はイザヤ書25章8節とホセア13章14節から自由な引用です。
死を永久に滅ぼしてくださる。(イザヤ25.8)
陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。
死から彼らを解き放つだろうか。
死よ、お前の呪いはどこにあるのか。
陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。(ホセア13.14)
57節、「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」。この凱歌は、ローマ書8章31〜39節を彷彿させます。その最後の部分にはこう書かれています。
しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。私たちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
58節、の冒頭に「だから」を補うとより迫ってくるでしょう。
「〔だから〕わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」
「動かされないように」は「動揺するな」(岩波訳)、「腹をすえ、動じることなく」(本田訳)の意味です。そして最後に、「無駄(ケノス)」が出てきます。
「主に結ばれているならば」は、原語では(エン キュリオー)で、「in the Lord、主にあって」です。
原文で読むと、「ウーク エスティン ケノス エン キュリオー」です。「主にあって無駄ではない」というこの章のキーワードを使って締めくくっています。
55節で「死のとげ」〔「刺し針」(恐怖)、本田訳〕という言葉を使ったのを受けて、パウロはそれを説明するかのように56節を付け加えています。
「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」。
文脈から見れば56節は挿入ですが、非常に重要なひと言です。
パウロは「死のとげ」という言葉に誘発されて思わず付け加えざるを得なかったのでしょう。
それだけこの真理はパウロの生涯を決定づけるものだったとも言えます。
この真理をパウロはローマ書7章で詳細に展開しました。
わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中から働き、死に至る実を結んでいました。(7.5)
罪は、掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。(7.8)
そして、「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています」(7.6)とあるように、パウロにとって「律法からの解放」こそ、主イエスの福音の本質でした。
この「罪の力は律法」は非常にラディカルな発言でした。
ある意味これ故にパウロは生涯命をねらわれ続けたと言っても過言ではありませんし、事実彼は最後のエルサレム登りの際、ユダヤ人たちに告発され、ローマの官憲に逮捕されました。
そればかりか、同信のクリスチャンですら彼のこの発言の真意を理解しきれなかった者が多かったようです。
しかし、「律法は怒りを招く」という事実を、身をもって生き、その倒錯を〈復活〉の主イエスによって示された彼にとっては、これは譲れない真理でした。
51〜55節は、23〜26節と同様にキリストの再臨の奥義(ミステーリオン)を言い表しています。死者の復活を認めない者にとってはそれは戯言でしかありませんが、パウロはこの信仰に生かされていました。この信仰こそ彼が「日々死んでいる」と表現するほどの苦難にもくじけず、またたとえ「おごらざる人も久しからず」の理不尽な現実に直面しても希望を懐き歩み続けてこられたのです。
それはまた十字架のミステーリオンでもありました。
十字架は、敗北のしるしかも知れないが、しかし愛に関しては十字架は敗北ということはできない。もし敗北であるならば、罪が世界の内部における究極的な力また一種の絶対者として礼拝されるべきこととなるであろう。しかしそうではなく、あの十字架のイエス・キリストが栄光の姿において再臨するということは、たといキリストを十字架につけるほどの罪が強力であっても、それが決して歴史の支配原理ではないということをあきらかにし、そして神が歴史を支配しており、しか歴史を完成に至らしめる原理は「愛」だということが確立されるのである。換言すれば、罪が歴史の宿命ではないということである。罪によってひきおこされる歴史の矛盾が歴史の法則ではないということである。歴史の矛盾に対して、我々日本人は「神も仏もいない」と叫ぶが、その歴史の矛盾(=社会問題)を矯正し、救済をもたらす神が存在し、その神こそ歴史の支配者であることが、この再臨において究極的にあきらかになるのである。だから再臨信仰は、神が世界史の支配者であるということの確信の表現となるのである。
(大木英夫『偶然性と宗教』257頁)
人生を無に帰すと見なされる〈死〉が、主の十字架の死と復活によって打ち倒されたのです。
だから、この地上の〈生〉が決して無意味なもの(「ケノス」)ではなく、この地上の生と〈復活〉と〈再臨〉での生を含めてはじめて「凡てのこと相働きて益となる」(ローマ8.28文語訳)のです。
その時、次の内村先生のように、今この地上での不完全で惨めな生をも大胆に肯定して、感謝をもって日々を歩むことができましょう。
英語にウド・ハブ・ビンという詞がある、「あったならば」とのことである。こうあったならばさぞ幸福であったろうと言いて過去を顧み現在を歎(かこ)つ心の態度である。あああって欲しかった、こうあって欲しかったと言いて過去の瞑想に耽るを言う。しかしこれまた空の空であって愚の極みである。人生はあったならばではない、あるである。WOULD HAVE BEEN でない、IS である。そして IS は夢ではない、瞑想ではない、事実である。そして神は事実の神にましまして、事実をもってわれらを助け給う。
今あるこの状態、これが自分にとり最善の状態である。この状態に善処して自分は神が自分の為に備え給いし最善に達することが出来るのである。祝福されたる現状、その辛きも苦しきも痛きも、すべてが天国に達する途である。ここを出発点として、現在という堅き岩の上に踏張りて、よし残るは最後の一日なりといえども、神を信じて勇ましく行いて、わが前に天国の門の扉は開くのである。キリスト信者に不似合いのものとて回顧のごときはない。「後にある者を忘れ、前にある者を望み」である。今日という今日が成功の生涯の首途(かどで)である。
(内村鑑三「今日という今日」、1929年)
また、パウロと共に、この地上での最後の闘いでもある〈死〉に備えつつ歩む心構えができるのではないでしょうか。そしてその歩みはこの地上での最後の一瞬まで続きます。
生は美しくある、しかし死は生よりも美しくある。生のための死ではない、死のための生である。美しく死んだ者が生を全うしたのである。あたかも競争場裡におけるがごとく生涯の勝敗もまた最後の一分間において決せられるのである。この一分間に後れを取って生涯は失敗に終るのである。生涯の決勝点において神より特別の力を賜わり、馳るべき途程をつくした者は福である。
(内村鑑三所感集「生涯の決勝点」1912年)
「最後の一分間」という言葉が非常に印象に残ります。
先日天に召された鈴木和子さんや、青木栄実さんの最後はけっしてこの世的に「いい死に方」ではありませんでした。
お二人とも病いの痛みを苦しみ抜いて亡くなられました。
まさに最後の一分一秒まで、闘い抜かれたと思います。
その耳元には「おまえの人生は無駄だった」というサタンの囁きがあったのではないでしょうか。
パウロはおそらく紀元60年代前半殉教死したと言われています。
ただペトロのような磔刑ではなく、ローマ市民権を持つ者として斬首刑だったようです。
その最後の瞬間まで、彼は復活の希望に生かされていたことでしょう。
しかし、同時に死の間際まで「お前のやってきたことは〈ケノス〉(無駄)だ」とサタンが囁き続けたのではないでしょうか。
そうです。その声はあの主イエスですら十字架上で耳にしていたものでした。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と主は十字架上で叫ばれました。
しかし、主は死から「エーゲルタイ」(起こされた、そして今もいる)のです。
「お前の生涯は無駄だ、世界のすべては虚無だ。」
「断じて否、主にあってすべてはケノスではない。」
パウロはそう言い切って地上での生の最後の瞬間を迎えたことでしょう。
〈死〉に打ち勝つもの、それは主イエスの〈復活〉です。
それを、主イエスを通して生ける神が私たち人類に示されたのです。
この〈復活〉こそ真の希望の根拠です。
この希望を賜ったとき、「神も仏もあるものか」と呪いたくなるほどの不条理に直面したとしても、そのどん底において希望を仰ぐことができるのでありましょう。
多くの先達がその希望に生かされ、〈死〉に打ち勝って天翔って行かれました。
私たちもその後に続こうではありませんか。
最後の一分間の闘いに負けることのないように、しっかと主にまなざしを向け、その差し出された御手に縋っていこうではありませんか。なぜなら、主イエスの〈復活〉こそ希望そのものだから。そしてそこにこそ真の自由があるのだから。
最後に野村伊都子さんが亡くなられた最後の年に遺した詩をご紹介します。
今こうして
長い間じっと
病床に釘づけられている私
でも私のこころは
誰にも束縛されないで
自由に活動している
だから幸福
いつか
まったく肉の亡ぶときが来
この世と全く決別して
次の世へと天翔る
そしてそこで又私のこころは
もっとすばらしく
活動するだろう
だから幸福
「自由」 野村伊都子
そして、最後の病床で認められた絶筆は次の詩でした。
消灯して真っ黒な中に横サンが見える
光るカイダン
よく考えてみるとブラインドなのだが
私は階段にみえた
天国への階段に
伊都子さんのこの地上での最後も大変な苦しみを伴っていました。
それを私は病床で看取らせて頂きました。しかし、彼女は天へ天翔って行かれたのでした。
そして私は時々、彼女の声を聞き、また彼女の眼差しを感じ、思いを地から天へと向けさせて頂くことがあります。
天が本当に慕わしく思うのです。
そこで伊都子さんや和子さん、そして青木栄実さんとも再び見えることができる、
そう心から思えたときこの地上での歩みを最後の一分一秒まで勇気をもって続けさせて頂けるのだと熱くさせられます。
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