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言葉使い見習い

"話す"ことが可能な身体で産まれたからには、その難しくも素晴らしい表現方法(伝達手段とも言う)をより良く活用したいものだ。

言葉に限らず、何事も使い方次第。
その使い方というのがまぁ〜難しい。
一体いつになったら私は母国語である日本語を使いこなせるようになるのやら。

言葉を扱うプロへのリスペクトはかなり強く、
小説や詩集を読んでは、なんてハイセンスなワードチョイスなのだ!と、感動してばかりいる。
ハイセンスなワードチョイスて、、、ルー語じゃん。(ルー語をご存知でない令和な方々はググってくださいな)
これがプロか。と思いながら、私だってプロでなくとも同じ日本人なのだからできないこともないのでは?と思ってもいる。

このようなnoteという場で文章を構築していく場合、言葉を選ぶのにいくらでも時間をかけることができる。ある程度自分の納得のいくかたちで伝えることができる。
しかし、原稿のないスピーチや日常的な会話となるとそんなことはしていられないわけで。
私はこの二十数年間で何度ワードチョイスを誤ったかわからない。あー、さっき、もっといい言葉つかえただろう、わたしー!と何度思ったことか。
別に正解とかはないけど、ないからこそベストを尽くしたいと思うのかもしれない。

いつからか、その時々の自分の心情にベストフィットする言葉を常に探すようになった。
嬉しい!楽しい!大好き!といったドリカム風のワイドな感情表現も良いし、半信半疑を"傷つかないための予防線"と言い表すミスチル風のこまかな表現も良いな、と思う。
どちらにせよ、今こんな気持ち!と誰かに伝えたい時に最適な言葉を選びたいのだ。

しかしただピッタリの言葉を選べたのならそれで良い、というわけではない。

ハイセンスな言葉を使いたいのである。
兎に角ユーモアを求めているのである。

「センスが無い人間なんていない、センスは誰もが持っていて、ただそれが磨かれているか否かだ。」
と、誰かが言っていた。
誰が言っていたかも憶えていないくせに、私はその言葉をずっとずっと信じている。それほどその言葉そのものから希望をもらったとも言えるかもしれない。

言葉のセンスを磨けば、人生そのもののユーモアレベルも上がるに違いない。

私は昔から、サラッと面白いことを言う人が堪らなく好きだ。別にウケを狙って言ってるわけじゃないですよ?みたいな澄ました顔でめちゃくちゃに笑いをとる人が好きだ。
そして私もそんなふうにサラッとウケたいのだ。

さりげなくおかしみのある言葉を扱える、そんなユーモラスな人間になることは生涯の目標だ。

私は、魔法使い見習いならぬ言葉使い見習い。
敬愛する脚本家さんや小説家さん、役者さんや芸人さん、更には身近にいるステキな方々に心の中で勝手に弟子入りして、言葉選びから話し方に至るまで、勝手に学んでいる。
絶賛修行中なのだ。一生続く修行の途中にいる。

"書く"ときにはどう書くかが大切。
"話す"ときにもどう話すかが大切。
"生きる"のもどう生きるかが大切。

何だって一緒なんだなぁ、と気付かされる。

その正解のない"どう"をどこまでも問い続けていくことで深みが出るのだろうな、きっと。


❤︎最後まで読んでくださりありがとうございます。

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