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【短編】 山吹茶屋

山道の脇に彩りを添える山吹の花。
その気品高き花姿に侍は嘆息する。
何だか旅の疲れがすっと軽くなる。
侍が山吹の花にそっと触れようとしたその時、遠雷が轟き数秒後に雨が降りだした。
これはいけないとばかりに侍は、両袖を簑代わりにして駆け出す。
すると見慣れぬ茶屋が顔を出した。
これは運がいいとばかりに、袖をはらいながら侍が腰かける。
「いらっしゃいませ」
可愛らしい声で娘が挨拶をする。
「すまぬが、わしは客では」
「大丈夫です。どうぞ雨宿りしていってくださいませ」
「あい、すまぬ。ついでになんじゃが、簑は置いておらぬか」
侍はかたじけないという面持ちで、山吹色の着物を着た娘に問うた。
「申し訳ございません。生憎でございますが、蓑は在りません」
娘は断言した。
「そうか。あい、わかった」
「ですので、どうか雨があがるまでどうぞこちらでお寛ぎくださいませ」
「かたじけない」
「いえ」
娘は品よく会釈し、店の奥に下がって行った。
侍も一礼して、額の雨滴を手で拭う。
「良かったら、これを」
湯呑みと団子と手拭いの乗った盆を、娘はそのまま侍の傍らに置く。
「雨宿りのお供に」
「……じゃが、わしは」
「心配は無用でございます。お代はいただきませんので」
「しかしそれでは」
娘は品よく微笑み、手拭いをどうぞと手渡した。
手拭いもこれまた娘の着物同様に、山吹色をしている。
「かたじけない」
侍は一礼して娘から手拭いを受け取り、それで雨に濡れたところを拭いていった。
それだけで何だか蓄積した疲労までもが、その手拭いに拭い去られていく心地がした。
湯気のあがる湯呑みを持ち、ずずずと啜る。
「ほう。これは梅茶か」
塩味がいい塩梅だ。
何とも体に沁みわたる。
「ほう。こちらは桜か」
団子のうえに薄紅色の桜餡が乗っている。
仄かな桜の香りが鼻腔を擽る。
外の激しい雨に対して、何という心地よさであろうか。
茶も団子も実に美味であった。
淡緑に薄紅色に山吹色。
「まさに春色じゃ」
侍はそう呟き、満足気に何度も頷く。
「お口に合いましたでしょうか」
娘が侍の傍らに立ち、尋ねる。
「大変に美味でござった」
「それはようございました」
娘は満足気に微笑んだ。
「しかし、ここまでしていただいてお代を払わぬという訳には」
侍が懐から財布を取り出そうとするのを、娘が制した。
「本当にお代は結構なのでございます」
「しかし、ここは茶屋でござろう。お代を貰わぬと商売にはならんでござろう」
「こちらは茶屋ではございますが、商いをしているわけではござりません故……。それに」
侍は訳が解らぬと首を傾げて訝った。
「蓑をお貸しできないので、せめてもの償いと労いの品なのでございます」
「労いというのは有難いが、償いと言われるとなぁ。こちらが恐縮してしまう」
「いえ。蓑が在らぬ事は、心苦しゅう事でござりますゆえ」
娘は俯いている。
「いや。むしろ簑など在らんで良かった」
娘が顔を上げた。
「こんな美味なる春を堪能できたのだからな」
「お侍さま……」
「それに腰を落ち着けゆっくり休んだおかげで、長旅の疲れも随分和らいだ」
侍は首を回し肩を揉みながら上下させた。
「まことに恩にきる」
「有り難き幸せでございます」
娘はゆっくりと淑やかに一礼した。
「しかし、この雨いつ止むことか知れぬな」
侍が雨を眺めて呟き、長い溜め息をつく。
「その心配は無用でございます。雨は、もうすぐ小雨になって、完全にやみます」
娘はそう断言してから微笑んだ。
こんなに激しく降る雨がやむものかなと訝っていた侍は、しばし雨を眺めた。
すると暫くして、娘が告げた通り小雨になり、ゆっくりと雨音が幽かになる。
そして雨はすっかりと止んだ。
ぽたぽたと雨滴が落ちるのみとなり、茶屋のなかに沈黙がひろがる。
「……まさか。本当にやむとは」
侍は驚いた顔でそう言い、娘を見る。
娘は品よく微笑むばかりである。
まぁ、偶然であろうと侍は考え直し、無理やり自分を納得させた。
「いやいや。大変世話になり申した」
「いえいえ」
恐縮する娘。
侍が立ち上がると、娘は着物の袂から一枚の手巾を取り出した。
そして広げてみせる。
手巾に挟まれていたのは、山吹の花であった。
「お土産でございます」
「みやげとな」
「はい。御守りに忍ばせて、いつも懐にお持ちいただけましたら、幸いでございます」
「御守りに?」
「はい。御守りでございます」
「さ、さようか。じゃあ有り難くいただくとしよう」
山吹の花を挟んだ手巾を、侍は大事そうに布財布にしまった。
娘は安堵の表情を浮かべて、また微笑んだ。
侍も微笑み、鼻の頭を掻いた。
すっかり雨上がりの爽快な空気が周りを包んでいる。
侍は姿勢を正し、娘にお礼と別れの挨拶を告げて一礼した。
娘も幽かに潤む瞳で恥じらいながら会釈し、最後に微笑み別れを告げた。
侍の遠ざかっていく後ろ姿に憂いの表情を浮かべる娘。
「お達者で」
遠くで小さくなりゆく侍の背中にそう告げて、娘は茶屋のなかに戻っていった。

晩春の妖風が幽霊の如く通りすぎていく。
春霞に包まれるなか、山吹の花のみが揺れていた。


                                                       ─ 完 ─

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