【物語】 通り雨

「ひなか過ぎてや夕時雨」
侍が茶屋で雨宿りをしていると、見知らぬ女が隣に座って呟いた。
侍は戸惑いながらも、黙して茶をすする。
「通り雨、でございますね」
女がまた呟き告げる。
「何故、通り雨なのでございましょう」
通り雨を眺めながら女が続ける。
「もしや、俄か雨ではすまぬ事情があるのやも」
女が侍の顔を見る。
侍は漸く女が自分に話しかけていた事に気づき、曖昧な返事をする。
「お侍様もそうなのではございませぬか」
侍が女を見る
女も目を逸らさず、真っ直ぐ侍を視る。
「通り雨同様、至極迷われておられるご様子。躊躇いの形相が濃く顕れておりまする」
侍が湯呑みをがたんと置く。
女は怯む事なく続ける。
「通り雨は貴方様の心の迷いを映し、また己の心も曝しておるのです。だからこそ、通り雨は降ったりやんだりを何度も繰り返すのでございますよ」
「それがどうしたというのじゃ。雨の事情など、拙者には関係ござらん」
「本当にそうでございますかな」
探るような目で女が侍の刀を視る。
侍が刀に手をやる。
「そなた、先ほどから訳の解らぬ事を話しておられるが、まるで意図が解らぬ。拙者に話したい事があるなら、はっきりと申してみよ」
ならば、と女が侍ににじり寄る。
「忠誠心は立派なものでございますが、忠義を通すのと恩義に報いるのは別でございまするぞ。どうか今一度お考え直しくださいませ」
女の予期せぬ言葉に、侍は心のうちを読まれたと云わんばかりに驚愕する。
「そなた……何者じゃ。忍びの者か」
侍は女に向き直り脇差しの鞘に手を置く。
「貴方様を御守りしたい一心で参った者、とだけ申し上げておきます」
侍は息をつき、心を静まらせてから先を促した。
「主君に恩義があるのは解りますが、だからと言って明らかに悪の道に堕ちた者に忠義を尽くして何になりましょう。都合よく利用されて捨てられるが関の山でございます」
「承知のうえじゃ」
女が信じられぬとばかりに詰め寄る。
「何故でございますか」
「大義の為じゃ」
「それは己の心を殺してまで成さねばならぬものなのですか。己を犠牲にしてまで貫く忠誠に、護り抜く価値など本当にあるのですか」
侍は黙したままだ。
「貴方様は本当に其れで後悔はないのですか」
女のその言葉を聞くやいなや、侍が胸のうちを心痛に告げた。
「悔いが残らぬ訳がござらん。親友を斬らねばならぬのじゃからな」
女は唇を噛みしめ、耐えきれずに顔を逸らす。
「酷すぎまする」
「あぁ。まことに酷じゃ」
「主君は其れと知って命を下されたのですか」
女が辛苦に問う。
「当然じゃ。拙者がやらねば、罰にはならぬからな」
「一体どちらの罰なのです。其れでは貴方様の方が、よっぽどお辛いではありませんか」
「拙者は一度、主君を裏切っておるからの。その見せしめであろうよ」
「……なんと憐れな」
女が悲愴の表情で俯く。
「軽蔑してくれて構わん」
侍はそう雨に呟き自嘲する。
「いえ、ただただ痛ましく思います」
沈痛な面持ちで女が俯く。
「……通り雨、か」
侍が懐古の表情で雨を眺める。
親友との追憶か、それとも……。
「そなたはどっちだと思う」
急に水を向けられ、女が顔を上げる。
「罪を背負い消えぬ後悔のなか生きるのと、恩義に報いず忠義を破り、武士の道を捨てて生きるのと」
「武士の身分を捨てられるのですか」
「武士道に背く道を行くのじゃ。もう武士では居れぬまい」
「……そんな」
女に戸惑いの色が浮かぶ。
女が険しい顔つきになり、逡巡する。
「迷う者を増やしてしもうたようじゃな」
「いえ。やはり私は罪なき道を」
「そんなものはござらん」
「それでもやはり過った道には進んで欲しくありません。私は貴方様の幸ある道を守りたいだけなのでございます」
女は真剣な眼差しで必死に訴えかけるように告げる。
「すべては貴方様を一心に想っての事なのでございます」
女の懸命な告白に感動しつつも、不思議だとばかりに侍は怪訝な表情で女に尋ねる。
「何故、そなたは其処まで」
女は俯いたまま応えない。
曖昧な笑みで答えをはぐらかす。
しかし、侍にはおおよその検討はついていた。
が、女の気持ちをくみ、敢えて追求するのをやめた。
「通り雨は、拙者がどちらの道に進むのを望んで、降っておると、そなたは思う」
「通り雨も私と同じ想いかと、存じます」
「……そうか」
「はい」
侍が女を見つめる。
女と重なる影に、侍の胸には愛しき懐かしさが帰来していた。
「なぁ」
「はい」
「そなたは、朝顔と桔梗ならどちらが好きじゃ」
女の顔が一瞬はっとして、一度瞑目してから花の名を告げた。
「私は朝顔の方が好きです。特に薄桃色の朝顔が」
「……なるほど。そうか、薄桃色の朝顔か」
ふたり、愛しげに眺めた庭の薄桃色の朝顔。
──私は紫より明るい桃色の方が好きなんです。
愛しき笑顔と声が、侍の心のうちで響く。
「貴方様を一心に想っての事なのです」
女が最期とばかりに、侍に再び告げた。
「わかっておる」
「……」
「心配をかけてすまない」
「……いえ」
「しかし、通り雨とは誠に厄介な雨じゃが、逆も然りよの」
侍が雨を優しく見つめる。
「誠に有難い雨でもあるようじゃな」
「……はい。そうですね」
女も侍に倣う。
やんでも、またすぐ降りだす可笑しな通り雨は、やはり侍の足留めを望んでいたのだろう。
どちらに進んでも罪と罰の在らぬ道はない。
ただ例え幽かでも、侍の幸せと希望の道を切に願う想いからの事象だったのだろう。
侍が意を決したように告げる。
「斬っても地獄、斬らぬも地獄。ならば、誠に斬るべき者を斬るのみよ」
その顔には、清々しささえ感じられた。
「俄か雨ではなく、通り雨であらねばならぬ意味は、充分にござった。拙者には覚悟する刻が、どうやら足りておらなんだようじゃ」
侍が笠を被り、立ち上がる。
女も併せるように静かに立ち上がった。
「恩を仇で還す事にはなるがな。悪を罰するは、罪あれど此れ、正しき道なり」
「それでは……」
「あぁ」
女も侍の意を必死で受け止める。
「通り雨にも限界はござろう」
「……行ってしまわれるのですね」
「あぁ」
「どうかくれぐれもお気をつけて」
「かたじけない」
「お達者で」
女が涙を拭う。
侍が小声で呟く。
「相変わらずじゃのう」
「えっ」
「いや、なんでもござらん」
女が今生の別れと侍を見つめる。
侍も愛しげに女を見つめる。
侍が意を決して告げる。
「決断の時じゃ。さらば」
侍は真っ直ぐ前を見据えて、女に別れを告げた。
侍は小降りの通り雨のなか、勢いよく歩きだした。
侍の姿には、もう迷いはなかった。
「清之助さん……」
女は愛しき名を呟き、侍を見送る。
侍の足はもう留まる事はなかった。
通り雨の迷いも、漸くなくなったようである。


                                                               ─ 完 ─

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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