【物語】 柳に幽霊

枝垂れ柳の下に影の薄い幽霊のような女が濡れたまま佇んで川を眺めていた。
男は放っておけずに思わず話しかけてしまった。
「あの……ここで何を」
濡れ髪が枝垂れ柳のように顔に垂れ下がり、顔の半分が隠れてしまっている。
女はまるで感情を喪ってしまったように無表情である。
「あの」
女は口の端を奇妙にあげて応えた。
「幽霊になってみましてん」
「あ……柳に幽霊。なるほど」
女が薄気味悪く嗤う。
「心中……しそこないましてん」
幽かに聞こえる声で女が告げる。
「あのひとはとうとう来なんだ」
「……」
「怖じ気づきましたんや」
「……」
「……なるほど。そうでしたか」
「あぁ、恨めしい。恨めしやぁ」
一気に女の顔が怨恨の色に深く染まる。
そう怨み節を唱えながら、女は身を投げたらしい川に紙の塵を散らせている。
川は静かにその女の情念を吸い込んでいく。
紙の塵を散らせ終わると、女がまた嗤いその後深い溜め息をついた。
「……阿保や」
「……」
「ほんまに阿保すぎや」
顔が濡れていても、女が泣いているのは判った。
「人間なんて……いや、あやかしや幽霊もみんな何かしら阿保なもんですよ」
女は俯いたままで笑みながら呟いた。
「あやかしや幽霊もですかいな。あんさん、おかしな事言うおひとやな」
「まぁ、みんなそんなもん言う事です」
「……そう、やろか」
「みんな何かしら阿保な事繰り返しながら生きてるんや思いますよ。少なくとも、貴女だけじゃないです」
男の言葉は妙に確信めいていた。
女は数秒、男を真っ直ぐ見つめた後に徐に呟いた。
「あんさんの言う通りかもしれへんなぁ」
女が晴れやかな顔で笑った。
「みんな、阿保な事繰り返しながら生きていくんやわ」
「……」
「死に損ないの幽霊みたいになってもな」
「幽霊も、悪くないもんですよ。きっと」
「せやなぁ。しばらくは幽霊みたいにでも、性懲りもなくただ生きてみるんも悪ないわな」
「そうですよ。徐々に人間を取り戻していけばいいんですよ。しばらくは人生を浮遊してみてください」
「ゆらーりゆらーりゆらゆら」
女が青白い両の手の甲を胸元で垂らして、幽霊のように震わせる。
女は人間らしく豪快に笑った。
「どうやら、晴れたみたいですね」
「雨は降っておまへんなぁ。柳に雨は叶いまへんでしたなぁ」
「貴女自身が雨だったんと違いますか?」
「私が、雨ですかいな。また可笑しな事言わはりますなぁ」
「さっきまでの貴女がです。でももう晴れたんですから、こうしましょう」
女が怪訝な顔で小首を傾げると、男はにこりと微笑んで枝垂れ柳に指先で触れて、呪文のような言葉を呟いた。
その刹那、微風にもかかわらず枝垂れ柳の葉が涼風の簾のように靡いて、女の全身を纏いながら通りすぎる。
すると、みるみる間に女の濡れた髪や着物が乾いていった。
女は茫然と立ち尽くしたまま、その心地好い風に吹かれている。
枝垂れ柳の葉が、優しく女の身と心を撫でていく。
まるで抱擁されているような快感に包まれる。
やがて、枝垂れ柳の揺れが静かになり、微風にさわさわ揺れるのみとなった。
女は夢見心地が覚めて、瞑っていた目をはっと開く。
男は枝垂れ柳にくちづけして微笑んでいる。
女は髪と着物に触れた。
完全に乾いていた。
女の顔に垂れ下がっていた髪は、それこそ柳髪となり艶を纏いながら後ろに綺麗に流れ、女の端正な顔が露になっていた。
着物も生き生きと息をするように、自然と靡いている。
「完全に晴れましたね」
男はそう告げて、満面の笑顔で微笑んだ。
「……あんさんは、一体」
女は驚きの表情を隠せない。
男は再度微笑んで、枝垂れ柳を指さした。
女は、はたと気づく。
ようよう見れば、男は青柳色の着物を身に纏っていた。
「あんさん……まさか」
柳の幽霊、と言いかける前に一陣の風が吹き、男は跡形もなく消えた。
霞む間もなく……。
「幽霊とちゃいますな」
女は微笑み、枝垂れ柳を仰ぐ。
「あんさんはきっと……」
女はお礼の意を込めて、枝垂れ柳の艶やかな葉に血色を取り戻した唇をそっと……。
「また、阿保な事してしまいましたな。堪忍やでな。ほんま、おおきに」
女はくすりと笑って、枝垂れ柳に背を向けて家路へと帰っていった。
月影が優しく女の帰路を照らし続けた。


                                                               ─ 完 ─

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