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消えればいいと思う感情

物心ついたときから思っていたこと。

ネガティブな感情は消えればいいのに─────

そう思って、怒りや悲しみや不安や妬みは無かったことにしてきた。
イラッとくる瞬間があれば、「そんなことは思ってはいけない」と怒りに蓋をしてきた。
悲しみも、不安も、妬みも、その他も同様に。


どこで学んだのかは分からないけれど、ネガティブな感情を抱くと"バチが当たる"と思い込んでいた。特に相手がいる場合。
こんなことを相手に思ってしまっては失礼だ、とネガティブな感情を封じ込んで何を言われてもニコニコしていたわけである。

そんなはずはないと今なら分かるけれど、当時は真剣にそう思っていた。それが今から1年前くらいの話で、本当につい最近のこと。


例えば人に愚痴ることや、誰かのことを悪く言うことはとても悪いことだと思っていた。ときに欠かせないものであるにもかかわらず。
自分の感情を人に話すことは恥ずかしいことだと思っていた。そんなことはしてはいけないと思っていた。非常に大事なことなのに。


だから私は、大人になってもまだ自分の感情を自分で抱えられないままでいる。人に感情を聞いてもらった経験がほとんど無いので、自分で処理するやり方も分からないのである。


これがいわゆる、愛着の理論でいう「協働調整」や「自己調整」のこと。
ざっくり言うと、人に一緒に感情を抱えてもらうことを協働調整、自分で感情を落ち着かせるのが自己調整という。
さらにいうと、赤ちゃんの頃に「オギャー!」と泣いて母親になだめてもらうこと、これを自動調整という。

これらを人は段階的に

自動調整<協働調整<自己調整

というふうに、ステップを踏んでできるようになる。

私の場合は自動調整のみクリアしており、協働調整の段階でつまづいている。つまり、協働調整ができていないということは自己調整もできないということになる。


一年前に主治医から心理教育を受けた時には愕然としたものだ。
まさかこれが大事なものだとは全く思っていなかったから。
思えば、親にも友達にも自分の気持ちを話すことをしてこなかった。それが当然だと思っていた。そして今になって初めて気がついたのだった。

私の今の状態は、愛着や発達障害、トラウマなどが複雑に絡み合った結果だと考えている。

封じ込めてきた感情は当時の状態のまま保存されている。表現されなかった気持ちを他の人格たちが表現してくれているのだ。

感情というのは人間から切っては切り離せないものである。
それを私はようやく学んだ。


それでも…知識として頭にはあっても、感情とは厄介だと思うし、以前の自分のようにネガティブな感情は消えてなくなってしまえばいいのにと願うこともある。

相手に失礼なことは思ってはいけないと頑なにブロックがかかっているので、思った時点で「そんなことは思ってはいけない」とやはり自分に禁じてしまう。
どう思おうがそれ自体は自由なのに、それすらも禁じると感情の行き場がなくなる。

溜まった感情は無くならないので、私が表現しない限りは他の人格が表現することになる。
すると、他の人格に対して迷惑だと思う。つまり自分に対して迷惑だと思う。
他の人格を責める=自分を責めることに繋がる。
これは非常に辛い。

思ったこと、感じたことは事実として認めなければならない。それすらも認めないと他の人格が〜云々の話になってしまうのだ。私の場合。

認めた上で、どうするか考える。
本人に直接伝えるか、人に相談するか、ノートにでも書き込んで発散するか。それとも別の何かに打ち込むか。

ネガティブな感情は消えない。見ないふりをすればするほどどんどん溜まっていく。大きくなっていく。
厄介だけれども、これがあるからポジティブな感情も存在するわけだ。
人間というのは不思議なもので、ネガティブな感情を無視すればポジティブな感情も感じられなくなってしまう。いやなものを見て見ぬふりすれば喜びも見えなくなってしまうということ。
喜びを感じたければいやなものもしっかりと感じなければならない。そういう仕組みになっている。

今回は感情に関しての理解が深まればと思い、まとめてみた。似たような状況にある方の参考になれば幸いである。

また、自分に対しても頭でだけでなく、早く本当の意味での理解に達することを願って。

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