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26歳になりました。

近況報告① NPOの職員としてシェアハウス運営などしてます

NPO法人中之作プロジェクトの事業の一環として、シェアハウス『コウノヤ』を運営してます。

「公」「港」「乞」の3つの「コウ」をコンセプトに、地域のコミュニティの中で開かれたシェアハウスを目指してます。元々空き家だったおうちを自分たちの手で直しつつ、6月には近隣の住民の方にお弁当販売もやったりとかもしてます。

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あとは同じ中之作地区内にあるカフェ『月見亭』の庭と畑をいじったり、

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NPO主催のイベント運営などもしてます。

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近況報告② ライティングの仕事もやってます

NPOスタッフを本業にしつつ、ライティングの案件もいただいていたり、

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紙のigoku第10号より

最近はしゃべりの機会も増えてきました。 

ありがたいことに継続的に個人単位の仕事を受けられています…🙏🏻お仕事振ってくださる皆さまに感謝しかありません。


最近の気づき① シェアハウスが想定外の反応を得られていること

NPOの職員として働き始めると同時に、さっそく一軒の空き家の利活用を託され、シェアハウスとして運営している。自ら住みつつ、ワークショップを開きながら手直しを進め、なんだかんだで人が集まり、現在は入居予定も含めると満室御礼。このシェアハウス『コウノヤ』に集まってきてくれたのは、主に地元・いわき市内の20〜30代の若者。ほとんど広報もしていない中でここを見つけ出して集まってくれた。感謝しかない…🙏🏻

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しかしなぜ同じいわき市内実家があるのにわざわざシェアハウスに集まるかというと、要するに同年代の若者のコミュニティがなく家族の中に縛られてまぁまぁしんどいという事情があるみたい。なんというか、これこそ地方のリアルという感じがある。

特にいわきは東京との微妙な距離の近さもあって、大学進学と同時に首都圏に出ていってしまい、そのまま帰ってこないという例が多いらしい。めちゃくちゃ単純化すると、高校出て地元の工場で働くか、東京の大学に行くかの二択になり、そのどちらでもない人は必然的にマイノリティになるという構図のようである。『コウノヤ』に集まるのは、地元でマイノリティである若者+移住者という感じ。(むろん、移住者も極めてマイノリティ性が濃い属性。)

『コウノヤ』は、そんなマイノリティ集団でも地域社会の中で自らの役割を見つけ、その存在を社会に開いていきましょうやというノリでやっている。6月にはご近所のお年寄り向けにお弁当の販売会もやったりした。(8月にも開催予定)コウノヤに入居予定の管理栄養士の石島彗夢さんににメニューを考案してもらい、僕が近所のお宅一軒一軒を回って販売会開催のお知らせをしたところ、当初予定していた販売数の倍のお弁当が売れてビビった。なんでもやってみるに越したことはないと思った瞬間。

「シェアハウス」というと若者の内輪の集まりという感じがどうしても出てしまうが、そこをあえて地域に開くことで、老若男女さまざまな人が存在する社会の中で生きていく感覚を体得できる場所にしていきたいと思っている。社会の分断が叫けばれて久しいが、『コウノヤ』が一つの解となればいいなと思う。


最近の気づき② 自分が「福島への移住者」になってきていること

先々月くらいから「福島への移住者」としてトークイベントに出たり、取材を受けたりという機会が続けてあった。まだ福島に来てから1年と数ヶ月だけれども、公に「よそもの」としての発言を求められることが多くなった。これについては後々書くけれども、こうした機会を通して「福島への移住者(しかも20代で)」という立場で色々しゃべるというのは、こんなにもしんどいことかと、改めて痛感した。とにかく、これについては後の文章を読んでもらいたい。


最近の気づき③ いろんな人に見守られていること

つい先週くらいの出来事だけれども、諸々と考え事が積み重なりすぎてしまった挙句、ついついFacebookに「生きるの疲れた」投稿をしてしまったことがあった。僕的には空気に向かってつぶやいた一言だったのだが(いや、Facebookに投稿したということは誰かに聞いてほしかったのだけれども)、完全に予想外に多くの方から反応をもらい、ちょっとした騒ぎになってしまった。正直、SNSで「死にたい」とかいうのはしばらく前まで日常茶飯事で、あんまり反応されることもなかったので、逆に僕がびっくりしてしまった。(反応くださった方にはご心配おかけしてすみませんでした…)

ただ、この一年と数ヶ月色々と動いてきた中で、多くの人に見守ってもらえるようになったのだと感じて、なんというか、それだけでもこの間あちらこちらと動き回ってきてよかったなと思った。ぶっちゃけ「もはや生きてても意味ねーな」と感じることは多々あるのだけれども、それでも周りの人達に生きる意味を与えていただいてなんとか生きているのだと思い、「まぁもう少し頑張ってみるか」という気持ちになれました。いつも本当にありがとうございます。


最近の気づき④ 地元である信州がいかに恵まれた地域であったかを思い知ったこと

こんな情勢ではあるけれど、7月末の4連休と8月頭の週末で長野に帰る機会があった。わりとたっぷり時間をかけて長野県内の各地を回ったけれど、やっぱり長野には色々「ある」なと感じた。世界的なファッションデザイナーの企画展、都内の店舗に引けを取らないような飲食店をはじめとした個人店の数々、圧倒的な大自然、そして歴史を感じられる街並みなど… それぞれに文化的なものを感じたし、これを綿々と引き継いできた先人たちがいるのだと思いを巡らせた。こうした風景は思わずいわきのそれと比べずにはいられなかったし、その上でやはり最後は地元の風景を守っていくのは地元の人間でしかないんじゃないかと感じた。26年生きてきた中の19年+1年という圧倒的な時間を過ごした地元に、再び挑戦してみようという気持ちが、この時改めて湧き上がってきた。

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長野県立美術館のMame Kurogouchiの企画展


課題感① 「課題の現場」で生きるのは端的にしんどい

この一年と数ヶ月は、ずっとなんらかの「課題」と向き合ってきた。福島が抱える震災や原発事故、それにコロナにまつわる諸々はもちろん、医療や福祉、貧困、家庭の問題、空き家などなど… 課題が多すぎるし大きすぎて、とてもじゃないが自分にはどうしようもできないと感じてしまう。そして、それぞれの課題に関わる人それぞれの意見があり、たいていの場合にはそこに大小の隔たりがある。僕から見るとどう考えても思慮不足に見えたり、時に差別的とも思えるような意見や主張も散々聞いてきた。日々こうした環境で生きるというのは端的に骨が折れる。もう何も考えず好きなことだけしていたいと何度も思った。

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さらに、こうした課題の現場というのは、当事者に寄り添えば寄り添うほど、真剣に解決したいと思えば思うほど、その現場から抜け出せなくなり、最終的に共倒れに陥るリスクが潜んでいる。要するに、一対一のガチで課題に向き合うほど共依存の関係に陥ってしまうということだ。

もちろん、だったら仲間を集めて向き合えばいいじゃないかと思われるだろうけど、魅力発信先行でわかりやすさが求められる社会において、一緒に課題に立ち向かう仲間を集めるのは容易でないことだ。こちらが課題の解決に勤しんでいる間に、あちらでは勝ち馬に乗れた人達が意気揚々と魅力を発信し続け、同時に自分の価値もガンガン上げている。この差を目撃してしまうと、あまりにも居た堪れなくなってしまう。


課題感② 「何も言えなくなる問題」を再認識

そして、課題の中で、ローカルの中で、生きようとすればするほど、そのコミュニティから抜け出せなくなり、何も言えなくなる感覚を何度もおぼえた。いわきに来た当初は、当事者や土地の風景が語る震災や原発事故の生々しさを前に、「自分がここで何かを言うことはできない」と感じていたが、一度それを乗り越えると、また別の「何も言えなさ」が現れてきた。これはいわきに限らず、他の地域でもよくあることなのかもしれない。

ローカルでの出来事は現代的な価値観に照らし合わせると(あるいは時代とか関係なく一般常識から考えても)かなり微妙な価値判断を迫られることも多い。それこそがローカルの良さでもあるのだろうけれど、それでもどう考えたっておかしなことはある。こういう時に、僕のような外から来た若輩者が声を上げて指摘するというのは、想像以上にエネルギーを要する(とわかってほしい切実に)。それでも、いや、やはりこれは言っておかないとダメだろうなと思うことは勇気を振り絞ってなんとか声にする。

ただ、残念なことに、こちらが指摘するなり、へそを曲げられてしまったり、聞き流されてしまうということが何度かあった。僕としてはその度に「ああ、ここで何を言っても無駄なんだな」と正直に感じとることしかできない。(もちろんへそを曲げたり聞き流さざるを得ないような事情があるのだろうけれども、その"事情"の陰で無いものとされてしまっている声に耳を傾けないというのは端的に不誠実だと思う)

そんなこんながあったのちに、上で書いたような「福島への移住者」としての発言を求められる機会が何度かあった。正直、かなり厳しかった。「魅力はなんですか?」「その中で感じた課題は?」もちろん仕事なのでなんとか要求に応えられるよう発言する。しかし、この言葉は果たしてちゃんと届くのだろうか… 一つ一つ慎重に言葉を選びながらも、どうしても発言するたびに不安や無力感を覚えてしまった。

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課題感③ 「今自分がここにいる意味」とは?

こうした状況を前に、僕はどうしても「果たして自分が今ここで課題の現場に立ち、諸々抱え込んでいる状況は適切で、意味があることなのか?」と考えてしまう。20代の残りわずかな時間、自分のキャリアはもちろん、プライベートでも大きな決断をしなければいけない時が迫っている。その中で、縁もゆかりもない福島の地で、こうして種々の大きな課題に時間を費やすのは、果たして"自分にとって"「いい時間の過ごし方」なのだろうか…?

もちろん、この土地に来たのは自らの判断があってこそで、その上でこうやって色々言ってしまうのは、単に覚悟が足りなかったからという部分がデカい。一方で、今ここにいることで無用にすり減り、余計な軋轢を生み出してしまうのであれば、自分はここにいない方がいいのではないか… どうしてもこんな風に考え込んでしまう。

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課題感④ 数歩先すら見通せない状況で健康的にいられるか?

さらに、生憎世の中はコロナやら何やらでまあまあ大変な状況でもある。先にも書いたようにコロナを巡っていろんな意見が飛び交い、僕にとってはその状況だけでも正直かなりしんどい。年上の人に面と向かって「バカな若者がコロナを広めている」と言われたこともある。勘弁してくれ。お前らがちゃんと社会を作って来なかったせいで若者世代の未来が奪われてるんだよ、と言いたくなる。今の状況は僕には耐え難い。コロナはまぁ仕方ないとしても、せめて他に抱えている荷を下ろしたくなる。


今後① まずは健康的に暮らせるよう環境を整えることに注力します。

例年の自分の状況からして、このまま行くと秋口にはまたメンタルの落ち込みが来る気がする。なので、とりあえず今は一つずつ目の前にある仕事を進めつつ、なるべく心理的な安定が得られる環境を整えていきたい。いままでは「根がヤンキー」とか言って多少無謀であっても、やるしかないと自ら決め込んで色々やるようにしていたが、同じ挑戦をするにしてもなるべく心理的負荷が少なくなるように、ちゃんと段取りをしながら物事を進めるようにしたい。決して何かを諦めるということではなく、ようは、うまい具合に物事を進め、恒常的に一定の成果を出せるようにする。たぶん今までは波が大きすぎた。恐らくまだ少しは残っている"若さ"の力も信じつつ、まずは自分を大切に生きていきたい。

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今後② 少しずつ地元でも自分の現場を見つけていきます。

その上で、ちょっとずつ自分の現場を福島から地元の長野へも広げていきたい。上にも書いたように、長野に帰った時に「この土地を守っていくのはやはりこの土地で生まれた人(=この土地に無償の愛を注げる人)でしかない」と感じた。長野には代々先人たちが注いで来た無償の愛の痕跡がたくさん残っている。それを次の世代に引き継ぐ仕事を、長野ではできればいいなと思っている。

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一方で、いわきとの縁をブッツリ切って長野に帰るつもりでもない。今までいわきでやってきたことを改めて整理し、次の人に繋いでいく務めも当然果たさなければいけないし、できる限りいわきと長野を往復しながら、そこで価値を生み出せるようにもしたい。地元に主軸を置きつつ、いわきでは改めて「よそもの」としての関わることで、今まであり得なかったものの見方を持ち込んだり、凝り固まった何かをほぐす役割を果たしていきたい。

とりあえず、今勤めているNPOのスタッフとしての任期が9月末で終了する。今のところそこからの予定はほとんど立っていないのだけれども(大丈夫か) 、この一年間と数ヶ月でできたご縁の中で、自分ができることを一つ一つやっていきたい所存です。未熟者ではありますが、改めてみなさんに生かされていることに感謝しながら、ちょっとずつ報いていければと思っています。


今後③ 改めて「自分は何がしたいか」を考える

去年の3月に銀行を辞めてから今まで、見るもの全てが新鮮な日々を過ごさせてもらった。地域の中で生きることで、自分と社会のつながりを感じられたし、大人になってからいちばん「生きていること」を感じられた期間でもあった。生きることに本質的な意味はないのだけれども、それでもコミュニティの中で生かされている。この意味をもっと肯定的に捉え、なるべくそれぞれが穏やかに暮らせる世の中になればいいなと思うし、そういう世の中をつくるための仕事をしていきたい。

自分が長野の、安曇野の、明科に生まれ、こうしていまいわきにいる意味を考えながら、少しずつ人生を肯定し、楽しみながら生きていけるよう、この先も色々やっていきます。みなさま、どうかよろしくおねがいします。

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