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いわきに来て半年。振り返りとその先について。③〜いわきで再発見した自らの当事者性〜

つい先日のこと。とある方が僕が一年前に書いたnoteを読んでくださり、感想をくれた。

そのnoteを読んでいただくとわかるのだが、一年前の僕は、まだ前職の会社を休んでいて、メンタル的にも思考的にもこじらせていた。今読み返すといろいろと恥ずかしいことも書いてある。

正直、「読んだよー」と言われたとき、「あちゃー読まれちった…汗」と思っていたのだけど、すぐ後のメッセージで、その方が「実は僕も…」と口を開いた。聞いたところ、ご自身も数年前にうつ病になり、仕事を休んでいたらしい。実際にうつになるとわかるのだけど、自分がうつになったことを他人に告白するのはなかなかエネルギーが要る行為だと思う。でも、告白できた途端、スッと肩の荷が降りたような気持ちになることも僕は知っている。だから、僕が書いた記事がうつの経験を口にするきっかけとなったことは素直に嬉しかったし、こうやって少しずつ「実は僕も…」と言える環境が広まっていくといいなと思った。

今回の記事は書こうと思ったあと、「いや、やっぱやめようかな…」と何度も思い留まり、書くか書かないかかなり悩んだ。けれど、こうした出来事もあって、ついに書くことを決めた。


いわきに来て2ヶ月半。ベッドから起き上がれなくなる。

いきなりだけど、そういうことがあったというお話。前の会社を半年休んだ時に「うつ病」の診断を下され、通院していたのだけど、実はいわきに来てからも、まだ本調子ではない。

4月。未踏の地だったいわきに、ほぼ手ぶらで乗り込んだ僕は、今までとは全く違う環境の中で、これまた今までとは全く違う仕事を始めた。そんなワクワクと新鮮さに包まれた状況の中で、しばらくはメンタル的にも順調に過ごせていた。アホなミスを繰り返したり、新しい環境に逆に戸惑うこともあったけれど、そこまでガックリ落ち込んだり、環境の変化によるストレスが体調に表れることはなかった。今思うと、ちょっとハイになっていたのかもしれない。

ところが、いわきに来て2ヶ月半ほど経ったころだった。梅雨に入って6月も下旬の月曜日の朝、突然布団から起き上がれなくなってしまった。うつと診断される前からのことだけど、日照時間が少ない梅雨の時期や、気温が下がり始める秋口には、寝込むまで行かないにせよ、だいたいメンタルが落ちる。それが今回の場合、とにかく手足が鉛のように重い。トイレに行くのもしんどい。久しぶりのこの感覚。ボーッとして何も考えられない。

とりあえずこの状況で無理に仕事に行っても手がつかないのは見えていた。「今日は体調が悪いので休みます」と連絡を入れて1日休みをいただくことになった。

「あーあ…休んじゃった…」敗北感が全身を支配した。その日は一日布団にうずくまり、日が沈むのを待った。食事は…とっただろうか。こういう時はだいたい家にある食材を食べられる時に食べてなんとか凌ぐ。ポテチとかチョコとかで済ませてしまう時もある。そもそも食べようとしてもあまり食欲がない。当然ながら顔を洗ったり風呂に入る気力もないので、起きて布団で一日を過ごし、暗くなると、寝られない不安を覚えながら目を閉じる。「明日は行けるだろうか…」不安な夜を過ごす。

翌朝、浅い眠りから目を覚ます。まだ体が重い。風呂にも入っていないので体がベトベトで最悪な気分だ。時計を見ると出なければいけない時間まではまだ余裕がある。「もう少し待ってから考えよう…」しばらく目をつむる。時間が過ぎる。当然だけど、一日かかってなんともならなかっただるさがそんな短時間で好転するはずがない。それでも朝は「ここで行かなかったら終わりだ…」というような強迫的な心理になる。かえってメンタルを消耗する。

結局、その日も行けなかった。「もうダメだ…」と思った。「仕事を辞めて実家を離れて友達も捨てていわきに来たのにこんな体たらくか…」「もうこの世からいなくなってしまった方がマシなのでは…」みたいな思考になっている。書いていてつらい。その後は少なくなっていく食糧とにらめっこしながら、ひたすら回復を待つしかない。

「息を吸って 命を食べて 排泄するだけのサルじゃないと言えるかい?」(by ASIAN KUNG-FU GENERATION)

「言えません…(死)」

みたいなことをずっと考えている。何もかもおしまい、あー終わった終わった。(以下、無限ループ) 

これで三日間くらい過ごしただろうか。食糧も尽き、かなり厳しいところまでいくのだけど、「このまま死ぬか、ボロボロの状態で外に出て買い物してくるか」みたいな究極の選択をし、そこで振り切ってなんとか外に出ることができた。

あくまで僕の場合だけど、一度外に出られるとだいぶ気持ちが楽になる。買い物から帰ってくると、おもむろに散らかりきった部屋を片付けたり、皿洗いを始めたりすることもある。こうなると、長く暗いトンネルの出口が見え始める。

結局、この時は2,3日で仕事に戻ることができた。ただ、昨年とは環境を一新してもう大丈夫だと思っていたメンタルが、まだまだ万全の調子ではないことがわかってしまった。(ちなみにこの後、案の定9月の終わりころにも同じような状況になっていた。)


うつ、発達障害。当事者性の発見。

さすがにこんな状況が頻発されては困るので、念のため精神科にかかることにした。

昨年のこともあったので、もはや精神科にかかる心理的ハードルはかなり下がっていた。まず、「いわき 精神科」でGoogle検索をかける。あるあるだけど、精神科をやっている病院はだいたいGoogleのレビューが低スコアだ。そして、ちょっと評判のいいところに予約しようとすると、すでに予約がいっぱいでだいたい初診は受け付けていない。なるべくハズレを引きたくないので評価の高い病院を予約しようとするのだけど、何度も断られてメンタルを消耗する。「一年前もこんな感じだったなぁ…」と軽くバッドに入った。それでもなんとか見つけた中規模の病院を予約できた。

そして迎えた初診の日。今回の診察ではうつだけではなく、もうひとつ日常的に心当たりがある症状があったので、そちらも診てもらうことにした。

発達障害だ。

今やネットでは「ADHD」の文字が氾濫し、時にネタ的に扱われることもある。発達障害について調べていくと、「あぁ、これ俺もだわ…」と思い当たる節が数多くある一方、「発達障害だと思ったらただのクズでしたw」みたいなまとめ記事も目にしてしまい、「あぁ、やっぱただのクズなのかな…」とも考えてしまう。かなりファッショナブルに名前だけが氾濫してしまっているので、診断を受けるのはなんとなくうしろめたくもあった。それでもきっと、この「いかんともしがたさ」のようなものに「名前」が付けばそれだけでも楽になるなと思い、診断してもらうことにした。

発達障害は所要時間2〜3時間ほどの心理テストみたいなものにより、その傾向の有無が判断される。計算の速さを計測したり、語彙力を確かめたり、図形を完成させたりと、様々な項目をこなしていく。テストは臨床心理士の方と一緒に進める。運が良かったのか、僕のテストを実施してくれた臨床心理士の方はとても丁寧な方で、非常にスムーズにテストを終えることができた。

それから二週間ほど経ったころだろうか。テストの結果が出た。「ADHDとASDの傾向がある」という診断だった。元々心当たりがあったので「やっぱりかー」というのが正直な感想だった。そして、「ADHDだけでなくASDもか…」とも思った。

ADHDに比べてASDは耳慣れないという人も多いかもしれない。ちょっと前まではいわゆる「アスペルガー」と呼ばれていた発達障害で、日本語にすると「自閉症スペクトラム」となる。

(ちょうど僕と同じような境遇の方がASDについてわかりやすく説明している記事を見つけたので、紹介する。ちなみに僕は言語理解のIQだけが飛び抜けて高く、それ以外は全て平均値くらいだった。)

僕はずっと自分のことをなんとなくコミュ障だと思っていたのだけれども、もしかしたらそれはASDのせいだったのかもしれない。僕と喋っていてなんとなく「話通じないなー」と感じた方も少なくないんじゃないかと思う。(ご迷惑おかけしてます…) 僕としては一生懸命話そうとしているのだけれど、その一生懸命さが募れば募るほど自分でも何を喋っているかわからなくなってしまう。笑っちゃうようなことなんだけれど、割とこういうことでめっちゃメンタルを消費してしまう。ADHDのいわゆる「不注意」と呼ばれる傾向も相まって、他の人が簡単にできることも僕にはとてもハードルが高い、ということらしい。

診断を受けてからしばらく、僕はこの「発達障害の診断を受けた」という事実をどう扱えばいいか悩んでいた。僕は無駄にプライドが高い方なので、自ら診断を受けに行ったのに、その事実を受け止めるのになんとなくためらいがあった。また、ネット上で様々な人が診断の有無にかかわらずADHDを自称しているという状況も、文字通り僕が障害を受け入れるための「障害」となった。だから、診断を受けてから今までは日常でも今まではあまり障害のことは口に出さず、あくまで「普通」であるかのように振る舞おうとしていた。しかし、隠そうとすればするほど、いかんともしがたさはますます募り、一人で生きづらさを抱え込むことになっていった。


障害は「笑えない」…?

そんなこんなで「障害とともに過ごす」ようになった中で、目に留まったニュースが二つあった。

一つ目はこちら。

もう5年も前の記事だけれど、俳優の栗原類が発達障害を告白したというニュース。

僕が記事を読む中で最も印象に残ったのが、以下の文だ。

さらに、栗原さんは自身が発達障害であること知ったからといって「“笑っちゃいけない”とは思わないでください」とファンに呼びかけた。
「僕が発達障害者であっても、そうでなくても僕は僕だし。
僕の個性が人を笑わせられるほど面白いのであれば
それはコメディ俳優を目指している僕にとっては本望です」。

栗原さんは子供の頃にADD(注意欠陥障害)と診断されたそうだ。つまり、発達障害を告白する前も栗原さんは障害を抱えていた、ということだ。栗原さんは、"発達障害を告白することによって"「自分のことを笑ってもらえなくなるのではないか」と不安に感じていた、ということがよくわかる一文だ。

そしてもう一つが蛭子さんの記事。

こちらは今年の記事。蛭子さんが認知症を公表した、というニュースだ。この記事の中にも印象に残った文がある。

「認知症と診断されたからといって、オレの中で何かが変わったということはありません。いきなりすべてわからなくなったわけでもないし、オレはオレのまま。いつもどおりの毎日が続いているような感じなんですけどね」

言わずもがな認知症は徐々に進行していく病気だ。診断されると医学的に「認知症」ということになるけれども、診断が下されたから突然物忘れが多くなったり、徘徊し出したりというものではない。蛭子さんが言うとおり、「認知症と診断されたからといって、何かが変わるということはない」のだ。

しかしながら、やはり蛭子さんも病名を公表することで周りの目が変化してしまうことを懸念していたのではないかと、この文を読むとそう思えてしまう。

そういえば、大学の友人とNetflixを見ながらたわいもない時間を過ごす中でこんな会話があった。その時見ていたNetflixの番組では、蛭子さんが普段と変わらない「ボケっぷり」をかまし、出演者の笑いを誘っていた。見たとおり、そこには「いつもどおり」の蛭子さんがいた。しかし、番組を見終わったあと、ある友人がこんなことをつぶやいた。

「蛭子さんは認知症公表してからは笑えなくなっちゃったよね。」

僕はこの言葉を聞いて「あぁ、そうか」と思った。病気や障害を表に出すと、「笑えなくなっちゃう」のか、と。

全く悪気のない言葉だったろうし、この発言を責めるつもりはない。だけど、僕はこの言葉を聞いた瞬間、「きっとそういうもんなんだな」と了解した。このあと、僕はますます自らの病や障害を表に出すことをためらうようになってしまった。「僕も『笑えない』存在なんだ」と思うようになった。

栗原類も蛭子さんももともと障害や病を持っていたのだけれど、上のニュースが出る時点まではそれを公表していなかった。公表しない限り、障害や病はないものとされ、栗原類ならそのネガティブな性格が、蛭子さんならそのボケっぷりが「ネタ」となり、視聴者の純粋な笑いを誘うためのフックにすることができる。

しかし、障害や病を公表することで、その個々人のフックともなっていたユニークさが、急に「配慮」の対象へと変化してしまう。「栗原類のネガティブさは障害のせいだったかもしれない…」「蛭子さんのボケは認知症からかもしれない…」そう思うと僕たちは急に、その人が持つ「個性だったもの」を笑えなくなってしまうのだ。

○○○

思えば僕たちは小さい頃から「障害」から引き離された場所で生きてきた。公立の小中学校では養護学級が設けられ、子供の頃にすでに自閉症などと診断されていたクラスメートは養護学級に所属していた。

養護学級に入っているクラスメートは、普段は何事もなくみんなと同じように過ごしているのだけど、少なからずなんらかのトラブルを起こしていた。ただ、小学校の低学年くらいだと、まだ「障害」というものの存在が理解できない。なんとなく「ちょくちょくトラブルを起こしている子が、入学と同時に『ようごがっきゅう』というところに入った」くらいの認識だったと思う。

しかし、成長の過程で僕たちはこの世の中に「障害」というものが存在することを学び、「ようごがっきゅう」が何であったかも知ることとなる。まさにこの頃から、「養護学級にいる友達」が「障害を持つ友達」へと変わっていく。「障害を持つ友達」に対しては「そうでない友達」に比して、「特別な配慮」が必要だということも教わる。「障害を持つ友達」を子供心に笑ったりからかったりしようとするものならば、先生からこっぴどく叱られ、ひどい時は学級会議が開かれたりする。

そんなこんなを繰り返していくうちに気づけば「障害を持つ友達」と「それ以外の僕ら」との距離はどんどん広がっていく。子供心からすれば、「障害」は「特別な配慮」が必要なものというよりは、なんとなく「触れると面倒なもの」に変わっていき、「笑えない」ものになっていく。

大人になった今でも、僕たちはこんなふうに「障害」を認識し、「配慮」や「同情」というオブラートで本音を覆いながら、なるべくその存在に触れることがないよう距離を取るようにしている。(ということが、上の栗原類や蛭子さんの記事で示唆されているのではないか。)


「同情」よりも「共感」してほしい。

そういえばこの前、ブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読んだ。今、本屋に行くと店頭で平積みされている話題の本だ。

この本の中で、「同情」よりも「共感」が大切(超ざっくり)ということが書いてあり、僕も激しく同意した。
(以下は、この本に書かれていることの受け売りでもある)

上で書いたような、小中学校で学ぶ「障害」との向き合い方は、いわば「同情(=sympathy)」とも呼べるようなものだった気がする。

どう‐じょう〔‐ジヤウ〕【同情】 の解説
[名]他人の身の上になって、その感情をともにすること。特に他人の不幸や苦悩を、自分のことのように思いやっていたわること。「同情を寄せる」「同情を引く」「被害者に同情する」
(出典: https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%90%8C%E6%83%85/ )
sym‧pa‧thy
 1 [plural, uncountable] the feeling of being sorry for someone who is in a bad situation
(出典: https://www.ldoceonline.com/jp/dictionary/sympathy )

「同情」の辞書的な意味は上のようであるらしい。この語には以下の2つのポイントがあると僕は考える。

①「同情」を寄せる相手は「不幸」や「困難」(=bad situation)を抱えている(と「こちら」からは見える)
②そうした「不幸」や「困難」を抱える相手に対して、そうでない立場から想像を巡らし、あたかも「他人の身の上」にいるかのように振る舞い、「思いやっていたわる」(=being sorry)。

上に書いたような教育を受けた僕たちからは、障害を抱える人はなんとなく「不幸」や「困難」を抱えているように見えている。そして、「不幸」や「困難」の下にある人に対しては、そうでない僕らの立場から想像を巡らし、配慮する必要があると教わった。まったくもって正しいことのようだ。しかし、どうだろう、これだと「障害」はただただつらいだけのものになってしまってはいないか。

「障害」というワードからは容易に「不幸」や「困難」というワードが連想される。それは子供の時からそういう教育を施されてきたからだ。でも、障害の中にも日常で感じる幸せや喜びが必ずある。簡単に同情を寄せられるよりも、いつもどおりの生活の中の面白おかしいことや、楽しいことからはじめようや、と言える方がよっぽど生きやすい世界なんではないだろうか。

さて、一方の「共感(=empathy)」はどうだろう。

きょう‐かん【共感】 の解説
[名](スル)他人の意見や感情などにそのとおりだと感じること。また、その気持ち。「共感を覚える」「共感を呼ぶ」「彼の主張に共感する」
(出典: https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%85%B1%E6%84%9F/ )
em‧pa‧thy
 [uncountable] the ability to understand other people’s feelings and problems
(出典: https://www.ldoceonline.com/jp/dictionary/empathy )

たしか『僕はイエロー…』の中には、「共感」は「片足突っ込む」ことだと書いてあった。

「共感」は、すでに表明された「他人の意見や感情」(=other people’s feelings and problems)に「そのとおりだと感じる」(=understand)ことだとある。つまり、「同情」とは違い、他人の気持ちを想像する作業は必要ない。その代わりに、当事者が意見や感情を表に出すことが必要となる。

非当事者の「想像」というアプローチで完結してしまう「同情」よりも、当事者からの「意見」や「感情」というアプローチによって「理解」まで踏み込むことができる「共感」の方が誤解を生みづらく、当事者が抱える苦悩や困難が伝わりやすい。一方で、その引き換えに、まず当事者が心を開き、意見や感情を表明する必要がある。当事者にとってはなかなか勇気のいることだ。

だから、共感を生むにはまず、当事者が抱える苦悩や困難を表明しやすい環境が必要なのではないかと、僕は思う。

共感ができる環境を広められれば、想像と現実とのギャップが埋まり、当事者への理解が深まる。そうすれば、当事者が抱える困難や不幸ばかりではなく、日常の喜びや幸せにもきっと遭遇することができるだろう。ここまでくれば、障害に対する「触れたら厄介」とか「笑えない」という印象は徐々に薄れていくんじゃないだろうか。

「共感」を生みやすい環境を作るやり方はいろいろあるだろうけど、冒頭にも述べたように、僕は当事者である僕自身が病や障害を告白していくことで、ちょっとずつそうした環境が作れるという実感を得た。なかなか勇気がいることだったけれど、僕がこうして書いた記事が、またどこかの誰かの重い口を開くきっかけとなればいいなと思っている。

一方で、当事者でない人にこそ、この「関わりづらさ」に「片足突っ込んで」欲しいとも思う。苦悩や困難を抱える人を軽く扱えと言いたいのではない。少なくとも「かわいそうな人たち」と決めつけないでほしいのだ。障害や病を抱えていたとしても、その人なりの喜びや楽しみは必ず存在する。僕は苦悩や困難を理解する前に、まずそうした喜びや楽しみにフォーカスすることで当事者に関わる方法は全く構わないと思っている。

先日炎上した、cakesのホームレスを扱った記事に対する能町みね子のツイートだけど、僕は当事者に対してここまで潔癖でなくてもいいと思っている。

もちろん、書き手を名乗るのであれば、少なくとも本来この手順が必要であることをわかった上で、例えば1→4→3→2というようなパスを読み手に辿らせることで、結果として課題を意識させる、という設計までやらなければならないと思う。一方で、今回の記事は(こんなことを僕が言うのもアレですが)手軽に「ライター」を名乗れる風潮の中で、その「ライター」が書いたインディペンデントな記事が、安易に「狙いすぎ」たcakesによって偶発的に取り上げられてしまったために、このような騒動になってしまったのだと思う。

ただ、誰でもインターネットで意見表明ができる世の中で、当事者に関わろうとしたすべての人が、この能町の手順を丁寧に踏まなければならないとしたら、ほとんどの人はリスクを恐れて早い段階で思考を止め、関わるのをやめてしまうのではないだろうか。

あらゆる当事者、特に性的マイノリティーを取り巻く状況などはここ10年ほどで大きく変化した。こうした状況自体はとても好ましいことなのだけれども、マイノリティーへの関心がそこまで高くない多くの人にとって、この状況を随時フォローしていくのは相当困難なことなのではないかと思う。繰り返すが、当事者を雑に扱えとか、理解を諦めろとか言うわけではない。当事者に対してあまりにも潔癖になってしまうことで、結果的に、当事者は関わりづらい存在のまま、無かったこととされてしまう、ということを言いたいのだ。

○○○

あっちへ行ったりこっちへ行ったりしながらダラダラと書いてしまったけれど、僕はこの記事を何よりも自分のために書いた。とにかく、病や障害はこの先ずっと僕の隣に居続けるのだけど、それを隠すことも遠ざけることもできない。だから、この記事を書いて、みんなと状況を共有することで少しでも楽になりたいのだ。

たかが名付けひとつがなんだ、名前がなくなったことがなんだ、と、ここまで書きながら逡巡してきた自分がバカバカしくも思えてくるが、それほど「名前」というものは力を持っているということを改めて痛感する。「病気を自分のアイデンティティの全てにすると危ういよ」なんてことは、よく言われるアドバイスであるし、僕も同じようなことを直接・間接に他者に向けて言ったことがあるが、当事者からすると、そう簡単なことではないのである。嗚呼、じんせい。

まったく、「障害」の名前が付くことや、公表するかしないかでここまで考えてしまうのは「バカバカしくも思えて」くる。けれど、ほんとうに「それほど『名前』というものは力を持っている」のだ。

診断が下された(=名前がついた)ことにより、今まで抱えていた「いかんともしがたさ」がなんであるかがわかった。ただ、その代わりに、「名前」の扱い方にここまでくよくよと悩むことになってしまった。

でも、こんな時間をこの先もくよくよと続けるのはただただつらいことだし、そんなことをしているほど人生は長くない。だからこそ、こんな文章を書いた。

そして、冒頭に書いたように、この記事が誰かが「実は僕も…」と口を開くための助けになれればと思っている。ぜひともそうあってほしい。僕がこうして書いた文章でも、ちょっとずつ生きやすい世の中にする一助となればいいなと思っている。

全てがガラッと良くなるとは思っていない。それでもちょっとずつ、「実は僕も…」と口を開ける環境が広まっていくといいなと思う。

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