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「やっかみ」と「うしろめたさ」

お久しぶりです。くぼたです。

「1週間に1本記事を出す」という約束を早々に破ってしまい、しばらく更新のないまま日々が過ぎてしまいました…

いま、4月からの社会復帰に向けて、長野県の一番北にある湖のほとりのゲストハウスで、ちょっとしたお手伝いをしながら居候させてもらってます。

今回は、そんな環境の中でいろいろ考えることを、松村圭一郎『うしろめたさの人類学』を参照しながら「やっかみ」というワードを織り交ぜつつ、綴っていこうと思います。



モヤモヤの正体って結局何なんだろう?

『100日後に死ぬワニ』が死んだ。途端に書籍化、有名アーティストとのタイアップのアナウンス。なんだかモヤモヤする。

街の本屋が、喫茶店がAmazonの、スターバックスの台頭で閉店した。なんだかモヤモヤする。

田舎育ちの僕は、大学の東京生まれの同級生みたいに、海外に留学に行ったり年に何度も旅行に行ったりすることはできない。なんだかモヤモヤする。

こうしたモヤモヤを感じる人は僕以外にもたくさんいるはずだ。

モヤモヤしたまま終わらせたくないから、この文章では「やっかみ」と「うしろめたさ」という二つのワードを使って、どうしたらなるべくおだやかにモヤモヤを解消できるかを考えていきたい。


「やっかみ」を感じずにはいられない状況が拡大している

周知のように、現在の社会では資本主義の発展・技術革新により、個人化・階層化が極度に進行した。

社会的な地位や経済的優位性が個人の能力に100%帰結してしまう一方、生まれた環境の差がその後の一生をほとんど決めてしまう構造はなかなか改善せず、その状況をひっくり返すことが当事者だけの力ではもはや想像すらできない。

こうした状況は、不利な状況の人間が有利な状況の人間をねたみ、うらやむ、「やっかみ」の感情を助長する。

この「やっかみ」をいつまでも抱えこむことは決して幸福なことではない。

他方、「やっかみ」には「うしろめたさ」を起動させる力がある。

以前、高卒の地元の友達と飲み会をしていたとき、たわいもない仕事の話の中で「同じ仕事内容なのに大卒の給料の方が高い」という愚痴を耳にしてしまったことがある。

僕はそのとき、自分のことを言われているわけでもないのになんだか申し訳ないような気持になってしまった。

自らへの「やっかみ」を感じた人は、ふつう、「うしろめたさ」のような感情を覚えるのだ。


「うしろめたさ」を感じられる環境が縮小している

一方、前項に書いたような社会的状況の下で、恵まれた環境に生まれた人たちが「やっかみ」を持つ人と接する機会がどんどん奪われている。

例えば、社会的・経済的に恵まれた環境にあるといえる首都圏在住の人たちが、"同条件で"恵まれないといえる地方各地と、最も頻繁に接するのは、スーパーに売られた農産物を購入するときや、テレビやインターネットで"よく映えた"田舎の自然や人情を目にするときだろう。

そういった"商品"は極度に均質化され、交換の対象にされている。このようなモノから、それを消費する都会の人々が田舎で暮らす人との"差"を感じることは容易でない。


上記の状況下で分断が進行している

ここで再び『100日後に死ぬワニ』のモヤモヤを振り返る。

事の顛末はこうだった。

Twitterで無料で楽しめていた"死を語る美談"が、最も期待と注目を集める物語のクライマックスの前後で、"広告マン"と思しき人たちの手によって急激に市場連理に回収されていく---

この状況に多くの人が「やっかみ」を感じ、また、その「やっかみ」を否定する人も現れた。


これはどういう構造の下で起きたのか。


広告業界は就職市場において花形の職業であり、しかも、市場原理に忠実な商材である広告を扱う。
こういった構造の下で広告マンが恵まれない環境下にある人たちの「やっかみ」を目撃する機会はそう多くないだろうし、仮に目撃できたとしてもうまく反応できないのではないだろうか。

少なくとも、今回の場合は"広告マン"はじめ、『ワニ』のマネタイズに関わった人たちは「やっかみ」に対して間違いなく鈍感だった。

一方『ワニ』は、突如あらわれた無名のイラストレーターが描くTwitter上のフリーのコンテンツとして、一般大衆に広く受け入れられた。
更に、"死"という市場原理ではとても語り切れないテーマを持ったコンテンツでもあった。

おそらく作者も意図せぬうちに、『ワニ』はおよそ市場原理とは相いれないものとなり、作者からの"贈り物"として一般大衆に受け入れられた。

そうしたバックグラウンドの中で、(電通社員であるかどうかは別として)広告に携わる人間の関与がありつつ、"死を扱うフリー素材"の『ワニ』が急激にマネタイズ、すなわち市場原理へと回収されていく過程に、多くの"一般大衆"が違和感を覚え様々な形で「やっかみ」を表明した。

と、ここまでなら、一般大衆vs鈍感なエリートたちという単純な対立構造になるのだが、それでは話は収まらなかった。

つまり、"一般大衆"に見えた人たちが同じ"一般大衆"に向けてその「やっかみ」を否定しはじめた。

僕の周りにも「そういうもんだからあきらめてる」とか「いろいろ騒ぎすぎて作者がかわいそう」などと「やっかみ」を無効化し、対立を避け、見た目の平穏を望む人が何人かいた。

彼らは広告マンと同様に、市場原理の中でに柔軟に生き「やっかみ」に対して鈍感になっているのかもしれない。

または、「やっかみ」を感じながらもそうした自分を積極的に肯定することもできない中で、諦めを感じてしまったのかもしれない。

いずれにせよ、こうした状況は「やっかみ」が増大し、「うしろめたさ」が感じづらくなっている社会の中で、分断を固定化しかねない極めて不幸な状況だ。

では僕たちはどうしたらこの不幸な状況を克服できるのであろうか?


「既存の境界線をずらして越境行為をする」

ここで松村圭一郎氏の『うしろめたさの人類学』(ミシマ社,2017)を参照する。

(今現在の社会状況に何らかのモヤモヤを抱えている人はぜひ読んでほしい。本当に肩の荷がスッと降りたような感覚になる。)

その中では「既存の境界線をずらして越境行為をする」ということが推奨されている。

この言葉を引き続き「やっかみ」と「うしろめたさ」というワードを使って僕なりの解釈を示していきたい。


「やっかみ」を感じる者がそれを表明し、共感を広げること

まずは、どんな抑圧的な状況下でも「やっかみ」を感じたのであればそれを表明し、共感を促すことがはじめの一歩だ。

つまり、ずるいなーと思ったら「ずるい!」と言うこと。これを「まあそういうもんだし仕方ないよね」となってしまっては不均衡な状況を黙認することになってしまう。

もちろんただただ「ずるい!やだ!」というだけでは何の説得力も持たないし、言い方によっては不必要に他者を傷つけてしまい、不要な反感を買いかねない。

だからこの時は慎重かつできる限り論理的にその気持ちを表明する必要がある。

東京五輪のマラソンと競歩の会場変更にからんで、なぜかあがった札幌をディスる声。#札幌dis のハッシュタグに対して、北海道の魅力を #札幌discover をつけてポジティブに発信する動きが起こりました。

(#札幌discoverは「やっかみ」の表現に成功したすばらしい事例だと思っている)

極めて理不尽かもしれないが、「やっかみ」を表明しないことには「やっかみ」は解消できない。

「やっかみ」は「うしろめたさ」を起動する力がある。だからこそ、どんな不利な状況に置かれていても、その状況を変えようとするには「やっかみ」を表明していくことが不可欠だ。


「うしろめたさ」を感じたら、贈与をしよう

「やっかみ」を目撃してしまった「やっかまれた」側の人間はもはや「うしろめたさ」を感じずにはいられなくなる。

「うしろめたさ」を感じたなら積極的に贈与をしよう。

贈与のツールは世の中に溢れている。
金銭的な寄付でもいい。産直市場で野菜を買うことにも贈与的性質があるだろう。
ときにありがた迷惑とされるような行為をあえてするのも、贈与に含まれるだろう。バスを降りるときに「ありがとうございました」というのは、運転手に感謝の気持ちを贈与することに他ならない。
あるいはコミュニケーションの中に軽い冗談を織り交ぜるのも、相手にツッコミどころを与えるという意味で贈与と言える。

また、松村氏は以下のようにも言う

「働く」ことは、市場での労働力の交換だと説明される。この「あたりまえ」の理解が、労働が社会への贈与(会社への贈与ではない)になりうることを見えなくする。-『うしろめたさの人類学』p.179
誰になにを贈るために働いているのか。まずはそれを意識することから始める。「贈り先」が意識できない仕事であれば、たぶん立ち止まったほうがいい。-同 p.179

つまり、日々の労働を交換価値だけで捉えるのではなく、贈与という観点から捉えなおすこと。これが「境界をずらす」はじめの一歩なのだと。


「やっかみ」と「うしろめたさ」の連鎖が「うしろめたさ」を否定する人を振り向かせる

ただ、先ほども書いたように「やっかまれた」にもかかわらず「うしろめたさ」を感じない、あるいは黙殺する人が少なからずいる。

そうした人には「うしろめたさ」を拒絶できるだけのバックグラウンドがあるはずだ。

とても理不尽なことではあるが、僕らはそのバックグラウンドを崩していくことでしかそうした状況は変えられない。

ではどうやったらそのバックグラウンドを崩せるか。

それは、「やっかみ」を表明し「うしろめたさ」を起動させる連鎖を止めないことだ。

答えになっていないようにもみえるが、この共感の連鎖によって確実に「既存の境界線がずれる」ことにつながる。

徐々に境界線がずれ、贈与という"社会的価値"で物事が語られることが多くなることによって、"市場価値"によってしか物語を語れなかった人の感情が、文字通り揺れ動くはずだ。


革命を期待せず、自らの手で変化をもたらす

上に書いたことを実践していくのは非常に厄介だ。

そもそも環境的に不利なのに、なんでそれに加えて行動しなければならないんだと思ってしまう。

だが、静かに革命を期待するのはあまりにも不健康だ。
それではいつの間にか諦めのモードに入ってしまいかねない。

面倒なことだからこそ、小さく始めればいい。やり方は上に書いた。

そして徐々に大きな波へとしていけばいい。波の作り方は行動し始めればいつの間にか体得できてしまうのだろう。

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