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「かあさん!もういちど、僕を、にんしんしてください」 : 身毒丸

寺山修司による戯曲『身毒丸』 寺山修司による戯曲『身毒丸』は、しんとく丸と名付けられた少年が、見世物小屋によって買われた母・なでしことの関係性に苦悩する、その様子を見せ物小屋的な・おどろおどろしい演出をもってして表現している。 ラスト、崩壊した家庭の中で、しんとくはなでしこと向き合う。その最中に彼がこぼした「お母さん!もういちど、ぼくをにんしんしてください」という号哭は、この作品を象徴するものである。 ——鬼子母神は、自らの子を愛し、慈しむ一方で、他人の子を攫っては食ら

    • あいつらが簡単にやっちまう30回のセックスよりも - トレイン・スポッティング -

      あらすじ 「未来を選べ」 スコットランドで暮らすヘロイン中毒の若者、レントンの人生は、停滞していた。友人で映画オタクのシック・ボーイやスパッドとともにヘロインに溺れる日々。 違法薬物の類はやらない“まとも”な友人トミーの制作した自家製ポルノ(いわゆるハメ撮り)を鑑賞し、「自分に足りないのは異性との関係だ」と思い立ったレントンは、クラブでひとりの少女をナンパする。彼女がまだ学生の身分であり、彼女と肉体関係を持つことは犯罪にあたるということを、レイトンが知ったのは、翌朝のこ

      • 天にまします我らの母よ -ボーはおそれている-

        No.01 「母親という神」 ラストシーン、ボーは母親に対する数々の不誠実な行いのために、「有罪」の判決を受け、暗い水の底に沈められる。これが「最後の審判」のメタファーであることは明白であり、疑いようがない。 曰く、最後の審判は、以下のように定義されている。“最高神が降臨し、過去から現在にかけて、生きていたありとあらゆる人間の魂を選別する。殺人や婚外性交渉をはじめとした禁忌を犯しながら、悔い改めなかったものは陰府に落とされ、それ以外の人間は神の国に送られる。” 例えばキリ

        • 悪魔でもなく、ましては天使でもない、ただの人間-映画「月」について-

          2016年に発生した「相模原障がい者施設殺傷事件」を、皆さんはご存知だろうか。当記事は、それをモデルに製作されたとしている映画「月」の何が問題であるかを論ずるとともに、本作に対する社会の反応から、「障がい者差別」の実態について述べたものである。 本編を観ないまま、批判を行うことに対しては少しばかり躊躇があったのだが、昨今の流れの中に、(当事者として)どうしても看過できないものがあったので、筆を取った。どうかご容赦いただきたい。 まず、本作のモデルとなった「相模原障がい者施

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          信じぬ者は、救われず。「哭声-コクソン-」

           イエスキリストが十字架にかけられた理由の一つとして「彼がサマリヤ人であったから」というのがある。サマリヤ人は当時、異教徒や異邦人の血が混じっていることを理由に、律法を重視するユダヤの人々から軽蔑されていた。  サマリヤ人を、彼にとっての同胞を、長きに渡って蔑み、冷遇してきた自分たちにまで、深い慈しみと愛をもって接する "サマリヤ人"のキリストが、ファリサイ派の人々の目には、ひどく気味悪いものとして映ったのだろう。  また、それだけではない。差別的な言動を、意識して繰り返す輩

          信じぬ者は、救われず。「哭声-コクソン-」