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物語のシナリオは我が手中にあり

人生にいくつかの扉があるとして、「いってきます」と行き先に向かって進むために扉を開けるか、「さようなら」と去るために扉を開けるか。

わたしは圧倒的に後者だった。

会社を辞めて自分でお店を作ったのも「会社員のままだとお金が足りなくて困るから」だったし、そもそもシングルマザーということもあり常に経済的な問題は隣り合わせで、そんな中でどうにか諦めずに進もうとしたのは、「親がシングルマザーというせいで子どもの選択肢を無くしたくない」という思いがあったからだった。

いつも「こうなったら困るから」「これが嫌だから」を理由に選択をしてきた。「こうなりたい」「こうしたい」と前向きな動機で決めたことはほとんどない。

そんなやり方でも進めてよかったとは思うが、嫌なことを避けようとするばかりに、嫌なことばかり見つけてしまうのだ。「ここにも嫌なことがあったぞ。あっちはどうかな」と探し、見つかれば指差し確認して観察する。よく見るためにわざわざ嫌なものに近づいてしまうこともあったし、巻き込まれることも少なくない。そしてドロドロになって這い出てきて「嫌なことの正体が何かよくわかったから、距離を取ろう」とようやく離れる。我ながらいったい何をやっているのだ。

人は見ている方に進んでしまう。自転車に乗るのが下手な人が、電柱を避けようとして電柱を見すぎて寄っていきぶつかってしまうように。そして、避けるためとはいえ、嫌なものばかり見ていると嫌なものとばかり関わるようになり、世界は嫌なものでできているように見えてくる。

以前、臨床心理学を専門とする東畑開人さんが、イベント登壇の際にこんな話をしてくれた。

過去の嫌な経験から、場所や人が変わってもまた同じことが起こるのではないかと警戒し、つよく意識するから、無自覚にも自らそちらに進んでしまうことが大いにある。本当は起こってほしくないはずが「きっとまた同じことが起こるだろう」と、願うのと同じ構造で、「ほらやっぱり思った通りだった」という結末に向かって物語を進めてしまう。

それはループものの映画と同じで「ああ、また同じだ」と何度も繰り返す。抜け出したいのに抜け出せない負のループ。なんでわたしだけこんな目に合うのだろうか。ただし、そのシナリオは誰かに用意されたものではなく、実は自分で書いている。書き換えるのもまた自分しかいないのだ。

(ここで会場の各所から悲鳴が聞こえる。「ひぃ、うそでしょ、自分で書いているなんて……!」)

「なぜかいつも嫌なことが起こる」と感じたら、「わたしってそういう星の元に生まれたのね」と諦めるのではなく、まずは、そのシナリオを自分で書いていると自覚する。

そして、そこから抜け出すには、突然180度やり方を変えようとしてもうまくいかない。何度も繰り返し失敗しながら、ほんの5度ずつやり方を変えてみる。うまくいく部分を残しながら、5度ずつのシナリオ変更を続けていると、気がついたら抜けられていたという時がくるはずだと。

負のループのシナリオを自分で書いているなんて怖すぎる話だが、あまりに心当たりがありすぎて、きっとそうなんだろうなと思った。本当のことはだいたい怖い。

わたしの場合、過去に嫌なことや困ることがたくさんあって、それを避けるために頑張ってきたのはたしかだが、その成功体験から「嫌なことを一度受け入れてガマンし、そこから逃げるために進む」という歪んだ設定でシナリオを書いていたのだ。ひぃ。

わざわざ嫌なことを探して近づいてしまうのは、進むためには「困難の克服」がないといけないと思い込んでいたからで、そういうやり方でしか進んだことがなかったからだ。

客観的に見れば、当然、わざわざいったん茨の道を選んで遠回りしなくてもいい。直接行きたいところに行っていい。とても簡単なことだ。本当に、自分のことは自分ではぜんぜんわからない。

シナリオを書き換えるべく、まずはそのおかしな設定を変えようと考えた。

神よ、わたしたちに
変えられないものを受け入れる心の平穏を与えて下さい。
変えることのできるものを変える勇気を与えて下さい。
そして、変えることのできるものとできないものを見分ける賢さを与えて下さい。

ニーバーの祈り

薬物依存者の回復施設 ダルクのプログラム内で唱えられていることで知ったこの言葉は、考える際に大きな指針となった。

もともとは、自分の置かれた環境や状況を「嫌だけど、変えられないものは仕方がない」と諦め、受け入れて、その環境の中でどうやるかを考えて行動してきた。それは間違っていないし、「仕方がない」で止まらずに「ではどうするか」と諦めずに考えることができてよかったと思う。

変えられないものは諦め、変えられる部分は諦めず考えることができたということだ。

その経験から、嫌なものの中にいいところを探すのが得意になり、問題解決の能力もついた。その代わりに、直接ほしいものをほしいと願うことや、自分がよろこぶことを選択するのが苦手になってしまった。

シナリオの設定を変えるとしたら、変えられるものと変えられないものはそれぞれ何か。

過去の経験は変えられないが、「いつものやり方」になってしまった悪いクセは変えられる。得意や能力は変えなくていい。

だとしたら、得意なことや能力はそのままで、「自分がほしいものをほしいと認め、自分がよろこぶことを選び、そちらに進む」という設定をすればいいのではないか。

やり方を5度ずつ変えると言っても、今までできなかったことができるようになるのか。不安だったし、どんな人に会いどんなことが起こるかはあらかじめ知らないので、何をすればいいのかわからない。

しかし、日々を過ごしていると、なにかの選択をするときに、つい以前の設定で進めそうになると「あ、これは古い設定のクセが出た」と気がつくようになった。「以前のわたしならついこっち(困難を含む方)を選ぶけど、設定を変えたんだった」と。この自覚こそが、負のループ回避の唯一の入り口なのだ。

新しいやり方で進むのは勇気がいるし、なにより慣れない。それでも「そういう設定だから」と頑張って歯を食いしばってでも「ほしい方、よろこぶ方」を選ぶ。もちろん選んだからと言ってすべてが思い通りにかなうわけではないので、ほんとにこれでいいのかなと思うこともあるが、「5度ずつ、5度ずつ」とくり返し何度でもやってみる。

「ほしいものをほしいと認め、自分がよろこぶ方を選ぶ」が少しずつできるようになると、自然と嫌な場所や人から適切に離れることができるようになる。これは、何を選ぶか決めずに、ただ「嫌な場所を選ばないようにしよう」とだけ決めても、きっとできなかったと思う。

はじめのうちは違和感だらけのやり方にも、だんだん慣れてくる。やってみた結果いいことが少しでもあると、選ぶのを躊躇しなくなるのだ。悪いクセをなくすには、新しい良いクセをつけ上書きするしかないのだなと身を持ってわかった。

今でもときどき慣れ親しんだ悪いクセが顔を出すこともあるが、もうそちらを選ぶことはないだろう。選んでもいいことがないとよく知っているので。

茨の道でスキップし、傷だらけで「これも悪くないですよ」などと言っていたのに、光の射す明るい道を堂々と歩けるようになった(と言ってもまだ端っこしか歩けないけど)。

おそらくシナリオの設定は書き換えられた。そう思えるようになるまでにザッと2年はかかった。

今まで、何かをやっつけるように先へ先へと進んできた。それはそれでよくがんばった。そこで得たものもいいこともたくさんあった。だけど、途中でその「苦労に立ち向かい乗り越えるシナリオ」の設定を変え、もう何もやっつけなくてもいい、楽しくてうれしい、自分をよろこばせる物語に進むことができて本当によかった。

これから先も何が起こるかはわからないし、思い通りにいかないこともあるだろうが、シナリオの設定は我が手中にあり、折々の選択の仕方や進み方は自分で決めていいのだと思うと、怖くはない。いい物語にしてやるぞと意欲が湧く。

先に進もうとする、変わろうとするのはどんな人でもすべて尊いし、どんな一歩も無駄になることはないと思う。だけど、もしも歩き回ったその先で、どこに向かうのかわからなくなったときは、自分の物語の設定を確認し、シナリオを見直してみるのもいいかもしれない。それは何度でも自分で書き換えられるので。

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この記事は、「ひふみ」、映画『異動辞令は音楽隊!』、noteで開催する、「 #一歩踏みだした先に 」投稿コンテストの参考作品として、主催者から依頼をいただいて書きました。


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