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ヒマラヤ7000m峰への挑戦と挫折⑧C2設置とわだかまり

「1997年長崎県山岳連盟サトパント峰学術登山隊」の挑戦と挫折の記録を投稿しています。
 
本格的登山活動が8月8日から始まり9日キャンプ1(C1)を設置、14日C2を設置し最終局面が近づいてきました。。
私はC1入りしたものの高山病は回復せず12日BCに戻り、ここからの報告内容に殆ど関わっていません。
今回のブログ投稿で、改めて登頂断念記を読み直しましたが、登山活動の全体像が今一つはっきりしません。登攀リーダーからの報告がないのです。
この登山隊の性格を如実に物語っています。
高体連所属の隊員からの報告をもとに行動表を手書きしながら、動きを追ってみました。細部不明もありますが、その概要が少し見えてきました。
25年前の記録です。

8月12日(曇りのちみぞれ)C1完全休養日

9時30分体調不良の2名はBCに下ります。
C1にはロイと高所ポーター1名に隊員6名が滞在。午前中はミーティング。
午後からはそれぞれテントで過ごしています。
私はBCに下っていますが、二人で下った記憶がなく、意識朦朧とした下りだったと思います。氷河上をさまよっている夢を見たことがあります。無事BCに戻っただけでも良かったのでしょう。
BCの隊員はMU隊員・KB隊員に私の3名となり登攀の戦力外となってしまいました。

BC風景

8月13日(晴れのち曇り夕方みぞれ)C2設置5,800m。

C1上部の写真はありません。帰国後は遠征の話をすることもなく写真交換など機会はありませんでした。この投稿をしながらMO隊員が撮影しただろう写真をみたいと思っている昨今です。

先発隊、KU・ロイ・高所ポーターの3名で出発。(KU隊員の報告要点)
岩場までは雪が締っており順調に進む。
ところが岩場が凍っており昨日の倍の時間がかかる。ザック30kgの重さも堪える。
雪田に出た時は正午を廻っていた。雪の状態は最悪。C2前の急な登りは腰まで埋もれて、はいつくばって登った。
100mほどを30分以上もかかった。こんな苦しい思いは初めてだった。
ようやくC2に到着した。
疲れた身体に鞭打ち雪を固めてテントを張った。
後発隊からの連絡でコンロない夜を迎えることになった。
残ったテルモスのお湯と行動食を流し込んだ。
たどたどしい英語で、ロイと日本とインドの違いを話し合った。結構通じるものである。
疲れと共に登攀リーダーへの不満が高まる。中心となるべき人が動かない。
 
後発隊(MO隊員の報告要点)
7時45分、FJ・MO・MK隊員・登攀リーダーの4名で出発。
9時45分、氷河終了の岩場で登攀リーダー判断でMK隊員をC1に下らせる。
岩場は決して難しいものではなかったが高所の影響か判断が鈍っている。
足元がいつ崩れてもおかしくないと慎重に進む。
先発隊のルート工作がしっかりしており有り難い。
11時20分、岩場が終わり氷壁が始まる。
陽が高くなり氷が溶け落石が起きる。
12時30分、氷壁が終わり雪田にでる。
ホットしC2は直ぐだと思ったが甘かった。
雪がすっかり腐って、一歩ごとに股までめり込む。
14時、5,600m地点でC2までは無理と諦める。
C2にいるKU隊員と連絡をとり途中デポのテントをC1に下る高所ポーターに持ってきてもらった。
コンロは後発隊がもっており、C2の2名には一晩火のない夜を強いてしまった。

8月14日(晴れのち曇り夕方みぞれ)上部ルート工作

KU隊員の報告要点
午前中は晴れて気温が上がり、午後から悪くなる天気のパターンが続いている。 
C2手前のMO隊員がコンロを持って上がって来る。
責任の強さに感謝しながらお湯を沸かし朝食を摂る。
C2手前まで下って荷揚げを手伝う。雪が締っており往復1時間でC2に戻る。
C2手前から登って来たFJ隊員とロイの3名でルート工作に出る。
5ピッチ進んだところでフィックスロープが無くなりC2に戻る。
この時点でナイフリッジは越えられると信じていた。
FJ隊員の体調が良くない。
15時C1のS隊長と交信する。
登攀リーダーは明日休養し明後日ビバークしながらアタックをかけると提案した。
S隊長は3連泊になる恐れがあるビバークは禁止と決断したが、お互いの調整はつかないまま交信は終わった。
 
MO隊員の報告要点
5時30分、C2に届ける火器と食料を持って一人出発する。
凍った雪を踏んで6時15分C2到着。昨日なら数倍はかかっただろう。
先発の二人は笑顔で迎えてくれた。
朝食後、昨日の幕営地に戻りC2に荷揚げし10時10分再度C2入りした。
この夜、自分が登頂を狙うか意志表示しなければならなかった。
こんな話をロイとしていると「今年のサトパントは、シブリンより難しいだろう。」と言った。すっと気持ちが決まった。もしこの遠征が「シブリン学術登山隊」だったら、私は参加したかは怪しい。すっぱり諦めてサポートに廻ろうと決めた。
夕食後、登攀リーダー・FJ隊員・ロイの3名でビバークアタックをかけることになった。

8月15日(晴れのち曇り、夕方雪)休養か不明

KU・MO隊員からの報告では前日決まった登攀リーダー・FJ隊員・ロイの3名でのアタックがはっきりしません。
S隊長の意向に反して登攀リーダーは自分の意見を通して休養したのか。
動かなかった登攀リーダーからの報告はなく、真相は不明です。
 
KU隊員の報告要点
昨日、私とMO隊員の役割は終わったと言う内容の登攀リーダーの発信に自尊心が傷つく。そこで朝早くにMO隊員と昨日の最高到達地点へ行き、お互いの写真などを撮る。
午前10時、C1と交信する。S隊長に明日はC1に降りたいと申し出るが、C2に留まりアタック隊をサポートするよう指示された。
ちょっと感情的になっていたようである。
 
MO隊員の報告要点
登頂を諦めたKU隊員と私は、せめて昨日のルート工作の最終点まで行こうと二人で出掛けた。
C2に上がってからは、高山病の症状もなく体が軽い。皮肉なものだ。
7時10分に出発し、8時30分、5,900m地点で、それぞれ生徒から貰った旗を持ったりして記念撮影をした。
C2に帰ると、ロイが今日はインド独立50周年記念日だといってはしゃいでいた。日本は敗戦した日だが、郷に入っては郷に従えである。皆でお祝いした。

次回もKU・MO隊員からの報告を基に最終局面を投稿予定です。




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