見出し画像

高齢者の方々に整えてもらった認知の歪み

育休中、積極的に色んな活動に参加する事で自分の考え方や価値観をアップデートさせてきた。

しかし、受け身にも自分の認知が整えられてきた感覚があり、そこにも感謝しているので、育休が終わる今のタイミングで書き留めておく。

高齢者の方々の赤ちゃんへの眼差し

育休中、昼間からスーパーや病院に赤ちゃん連れで出入りするようになった。
はじめは、変な気分だった。
いつも仕事をしている時間帯に、のんびり買い物や用事を済ませる事ができる罪悪感があったからだ。

そんな時、知り合いでもなんでもない高齢のおばあちゃんに声を掛けられる経験を何度もした。

皆、赤ちゃんを抱えた私に、

「まぁ、可愛い!お願い、お顔見せて!」

と寄ってきてくれる。

自分の子どもを可愛いと言ってもらえるのは、悪い気がしなかったし、暇で話し相手のいない私としては、その日初めて言葉を発する機会でもあった。

「うちの子はもう結婚もしないから孫の顔が見れなくて…」
とか
「あぁ、何年ぶりかしら、赤ちゃんを見るのは…」
とか
ちょっとした雑談もした。

おばあちゃんたちは、皆、赤ちゃんが大好きだった。(人によると思うし、赤ちゃんが好きだから話しかけてきたわけだが)

若い学生さんや同世代の方々から話しかけられる事もあるといえばあるが、私は圧倒的に80オーバーのおばあちゃん達に話しかけられる事が多かった。

認知の整え

正直、独身の頃から子育てママに良いイメージは持ってなかった。

赤ちゃんはうるさいし、
甘やかして泣き止ませようともしないし、
子どもが生まれた喜びに、
毎日幸せをかみしめているくせに、
大変だからと不都合な所は権利を主張してくる。

独身の時に、自分が結婚できるイメージを持てず子育てママ層に勝手に嫉妬して、その嫉妬を正当化するかのように、子育てママへの偏見は作られ、認知は歪んでいったと思う。

自分自身が結婚し、出産し、
子育てママ側の世界に来て3年。

こんなにも自分や自分の子どもがこの世界に歓迎され、愛されていると教えてくれたのは、自分が住む町の先住民のおばあちゃんやおじいちゃんだった。

同じくらい小さな子どもを抱えたママ友同士での支え合う社会は当たり前と言えば当たり前である。
そこには利害関係がしっかりあるから、
お互い助けてもらいたければ、
こちらからも、
あちらからも、
双方に助け合う姿勢がいる。
地域で生きるということは、
つまり、そういう事だ。

しかし、それとは違って、
もう二度と会わないかも知れないし、
すれ違っても気が付かないかも知れないような、同じ町に住む高齢のおばあちゃんから、ただただ赤ちゃんを慈しむ心から話しかけてもらえるという行為は、私にとってはgiveされた経験だ。

もちろんおばあちゃん達は、
暇つぶしに赤ちゃんが見たかっただけかもしれないが、
それでも、純粋に赤ちゃんを慈しむ心がなければ、見知らぬママさんに話しかけたりしないだろう。

特にお金が動いたりする大層な話ではないが、
私の心は動いた。

自分はこの町に住んで、
子育てしていってもいい存在だと、
感じさせてもらえて、
それが嬉しかった
んだと思う。

歪んでいた認知は、溶けていった。

少子高齢化の社会、
未来を創る子どもや子育て世帯、その保護者は比較的光をあててもらえるような空気感は出てきたが、
逆に増えていく高齢者は、医療保険や年金を中心に、予算の分配が多すぎると批判する対象になりがちだ。

政治参加する高齢者に寄り添った政治では、
数で負ける未来を担う子どもたちが割を食う事になるので、私自身、高齢者を悪者扱いしそうになる。

しかし、
血の繋がりもなく、
特段、分かりやすい直接的な利害関係のない中、愛を持って、生まれてきた赤ちゃんにエールをくれる高齢者の方々は沢山いる

そういう愛のある高齢者の方々を一括りにして不平不満を言うのはよくないし、
本人の意思とは関係なく歳を取り、社会に助けてもらわないと生きていけない立場になった高齢者の方々への存在を認めた上で、色んなことを考えていかないとなぁ、と思わされました。

お金が動く経済の循環だけでなく、
思いやりが世代を超えて循環していく優しくてあたたかな社会を持続可能な形で見出していけたらいいな、なんて思わせてもらいました。

赤ちゃんの可愛い笑顔も世界を救うけれど、
しわくちゃのおばあちゃんの優しい笑顔だって、世界を救うこともある!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?