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恩師からの人生で最初で最後の年賀状

2024年1月1日。
初めて恩師から年賀状が届きました
恩師からの年賀状に喜ぶのも束の間、
そこには、「闘病中のため、年賀状での挨拶は今年で最後とさせていただきます。」と書かれてありました。

ここ数年、透析を受けているのは知っていました。

鈍感な私でさえ、不吉な気持ちに気が付いて、即座に恩師にメールし、最短でいつ会えるかアポイントメントの約束を取り付けました。東京と大阪間、時間もお金もかかりますが、即決で動きました。

恩師とは?

恩師とは、大学時代のゼミの教授です。
自殺予防」という暗いテーマを扱います。
いのちの電話のプロフェッショナルです。

出会いは、当時、心理学やカウンセリングに興味があり、何より私自身、体育会の部活動でコテンパンの鬱状態だったので、実生活にも役に立つ内容かと思い、先生のゼミに飛びつきました。

ゼミの面接では、私が猫かぶって真面目な優等生を演じ、まんまと騙された先生は、私に別の教授を紹介しようとしました。  

「僕のゼミは君みたいな優秀な子が来るようなゼミじゃないから、もっといい先生を紹介するよ」

今となれば、その言葉を後悔したのは、先生の方なんじゃないかな。笑

とりあえず、内定をもらえるようにその場で説得し、なんとか先生のゼミに入りました。
それからは、部活動や授業の空き時間を見つけては、先生の研究室に入り浸り、ちょっといい挽きたてコーヒーをいただきながら、自分の悩みを打ち明ける相談カウンセリング部屋として使わせてもらい、ソファでは仮眠を取ることさえありました。

私は優等生とは程遠い、問題児です。
上京して一人暮らしだった私は、先生のことを第二の父として、甘えて、懐いて、慕っていました。
追い返されたことはなく、自分のことを受け止めてくれる唯一の大人でした。

※私以外にも先生を慕う学生は沢山おり、研究室が相談室になることは多々ありましたので、問題児には変わりありませんが、割とこのゼミでは普通の光景ではありました。

自殺予防ゼミで学んだこと

大学を卒業して10年経つので、専門知識はほとんど忘れました。
覚えていることは、私の学年のゼミ仲間はあまり仲良くならなかったこと。

たまたま同学年のゼミ仲間は、本命ゼミに落ちたギャル系と私を含む地味系で構成され、第一志望でこのゼミにきた学生はほとんどいませんでした。だから、お世辞にも雰囲気はよくありませんでした。

先生に相談するも、一蹴。
「ホント、今年は不作のはずれゼミだったね。例年とは全然雰囲気違うよ。いつもはアットホームな感じなんだけど、今年の、この学年の、この空気はどうしようもないね。君は誰とでも仲良く友達にならなきゃダメなの?悪いけど諦めてくれ。なんとかしようとしても無駄。僕が「自殺予防」というテーマでゼミ生を集めたのが失敗だった。僕はこれに懲りて来年は明るく「家族」をテーマにゼミ生募集するよ。」

家族」がテーマだったら、先生のゼミには入ってないと思うから、人の巡り合わせって本当に面白いな。

人間関係は、無理な時は無理。
どうあがいても無理。
誰が悪いとかじゃなく、そういう時はある。
誰とでも仲良くなりたいと思うのは勝手だけどら、そうはいかないのが人生。

ゼミではそんな事を学んだ気がします。

恩師から学んだこと

卒業して10年。
毎年、なんらかの連絡を取ってきました。
卒業後、実際に会った事も3回くらいはあったと思います。
嬉しい報告は、結婚と出産くらいで、あとは、学生時代と変わらず、鬱々とした気分で愚痴や相談をしてきました。
ホント、私専用のいのちの電話ボランティアをしてもらってました。

noteでシェアできそうな学んだ内容を5つに絞ると以下の通りです。

①「仕方ない」は被害者が納得して初めて使える言葉。

同じ日本語でも被害者にかけてはいけない言葉があると学んだのは恩師のおかげです。
「仕方ない」では済まされないから悩んでいるのに、「仕方ない」を押し付けてしまっては、もう本当に被害者の方は行くところがなくなってしまうから、相手の立場に立って物事を考えると、使えない言葉があると教えてもらいました。

「言っても仕方ないじゃん」
「終わったことだから仕方ないじゃん」

こういうことを決して言わない先生だったから、心置きなく相談できてたんだよな。

②万能薬はない。

1つの環境条件を変えたら、全ての環境条件が変わる。そして、それは元に戻せない。
現状が辛くて逃げても、現状の良かったことも手放すことになる。
都合よく辛い部分だけ切って取れない。
その全てのリスクを理解した上でリスクテイク(実行)しなければならないと学びました。

心理面だけでなく、転職とかにもそのまま使える実用的な理論だなと思います。

③結婚は、誰もが一度は貧乏クジひいたと思うもんだよ。

先生は20代の院生時代に、当時の彼女(今の奥様)と結婚したそうで、タイミングは、彼女のお父さんが病気だったことがあったみたいです。
36歳になるまでずっと子宝にも恵まれず、当時には考えられない奇跡が起きて子どもができたようですが、確かに、結婚は、誰もが一度は貧乏クジ引いたと思うもんだとしたら、なんだか世界は面白いですよね。

幸せに見えるあの人も、この人も…。
それなのに、うまくいく秘訣は…。

人生にも繋がる話ですね。

雑談から学んだ事も本当に沢山ありました。

④君から頑張ることを取ったら何が残るの?

頑張り屋の私にくれた問い。

「もっと適当に生きようよ」っていつも励ましてくれました。
それでも頑なに頑張ろうとして、そのくせ愚痴も多いから、
もはや、君は傷病休職でも何でも取って鬱になって休んでろ」と言われたこともありました。

頑張りすぎてしまう私には、痺れる一言です。

そして、まだこの問い「君から頑張ることを取ったら何が残るの?」の明確な答えは出せていません。
私から頑張ることをとったら、ただの腑抜けかもしれないと思ってしまいますが、先生は、ただの腑抜けなんかじゃないからこの問いを私にくれたのです。
死ぬまでに見つけたい答えです。

⑤左利きみたいなもんだよ。

皆には簡単にできて、自分にはできないこと。それは、左利きみたいなもので、できない人の数が少ないと、社会では生きづらいのです。
でも、本人が悪いわけじゃない。
たまたま、マイノリティだっただけ。
苦手な右手を使って、「もっとうまく!もっと上手に!」と言われても、できないもんはできない。
堂々と左手を使って、自分らしく生きればいい。
左手なら使えると気付けばいい。
左手でもいいんだよって認めない社会のほうが問題だ。

そう教えてくれました。

そして、大事なのはここからです。
誰か他人に対して、「何でそんな簡単なことができないの?」という態度で責めてはいけないという事です。

自分がたまたま右利きで生まれてきて、何不自由なく生活していると、この世界には左利きがいるということを忘れてしまいますが、一定数、左利きの人はいます。
これは、利き手の問題だけではなく、あらゆる個性能力にも通ずる理論です。
そういうことに気が付いて、気遣える人になりたいと思わさせてくれたのは、先生のおかげです。
自分にも、他人にも優しくありたいと体感的に分かっていても、ここまで言語化できるようになったのは、左手の理論があるからです。

存在承認

学んだことは知識ではなかったんです。だから卒業して10年も慕い続けたんだと思います。

学んだというより受け取ってきたことは、存在承認(愛情)かなと思います。

相手の存在を認めて、
受け止めてあげること。

それをやって見せ続けてくれた先生。

先生から学んだことを自分なりに還元していくとしたら、自分が先生にしてもらったような存在承認を自分以外の誰かにしていくことなんだと思います。

恩師と実際に会ってきて

先日、実際に、恩師と会ってみて、少し痩せてしまった75歳のおじいちゃんになってましたが、10年前と変わらない瞳の奥の輝きは健在でした。

透析を続けている以上、体調なんかいいわけないし、体調については、決して根掘り葉掘り聞きませんでした。

会えた喜び。
一緒に過ごす時間。

それを共有できれば、お見舞いの目的は達成されたようなものです。
先生がとても嬉しそうにしてくれたので目的達成、大成功です。
会いに行って本当に良かったです。

自分が辛い時、支えてくれた恩師が今、辛いなら、今度は自分が助ける番です。

自分が辛い時、自分に注目してくれるだけで心が救われた事。
自分が辛い時、話を聴いてくれるだけで心が軽くなった事。
自分が辛い時、自分のことを大切に扱ってくれたと感じるだけで生きる希望を持てた事。

全部、先生が私に教えてくれた事でした。

受け取った愛情が沢山あったので、
私も今、愛を持って対応したいのです。

帰り道、バス停に見送るまでの間、「先生じゃなきゃ卒業して10年も関わり続けなかったですよ。あの時、買い被られて違うゼミに行かされそうになったけど、行かせなくて良かったでしょ?」そんな笑い話をしていました。

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