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格差と資本主義と幸せと

違いを目の当たりにする瞬間

アフリカからの留学生と話してて「そのパソコンいいね」って言われた。誰に買ってもらったの?と聞かれて両親が入学祝いにくれたよ〜というといいわね〜って言ってくれた。彼女はパソコンを持ってない。両親はすでに亡くなっていて今は奨学金で留学している。

そんな時に複雑な気持ちになる。うちらは友達だけどバックグラウンドが全然違う。その話題にどういうテンション感で触れて良いのか戸惑う。それをかわいそうっていうのもなんか違うかなとか思って。

ザンビアの孤児院に滞在していた時、毎日一緒に遊ぶし、踊るし、歌うし、真面目な話もするし、うちらは友達だった。けど、ふとした瞬間に「学校に行きたいけどお金がないから行けない」って聞いたとき、私が生きてきた環境とは全然違うんだよなって思う。そしてなんか申し訳ない気持ちになるけど、そんな気持ちになってること自体も申し訳なく思う。ややこしいけど。

私はこれから半年間留学する。奨学金は成績が悪いから取れなかった。
留学にかかる費用を全部自分で賄うからバイトを頑張る!と意気込んでいたけど、結局アフリカでチャレンジしたいことが多すぎて予定してた金額だけだと足りない。親にそのことを伝えたら、じゃあ出世払いだと思って出してあげるよって言ってくれる。その時また複雑な気持ちになる。そんな環境に自分が置かれていることを本当にありがたく思うと同時に、どこかでチャレンジしたくてもできない人がいる中で自分は何にでもチャレンジできる状況にあることを後ろめたく思う。人と比べることは嫌いだけど。

どんな物差し

日本で生きていると、自分は資本主義の考え方に染まってしまっていたなあと思う節がある。発展することは私たちの生活を豊かにしてくれる。けど、発展しすぎると本当の幸せがなんなのか見えなくなる。ザンビアに行って幸せをたくさん感じたからこそ、そのザンビア社会がどんどん発展して今の日本みたいになる日が来たら悲しいなと思う。
経済的には発展していないことによる良さがあって、そこに私が魅了されたからそう思ってしまう。一概に先進国、途上国ってまとめてしまうのも違うかなと思うけど、途上国にしかないものがたくさんあるように感じる。

アフリカ的幸福を唱える団体のイベントに参加した時、アフリカの村の良さを感じて村の暮らしに誇りを持って生活している人もいれば、便利な暮らしになりたいと思っている人もいるということを聞いた。
私は便利な暮らしが良いよな〜と思うけど、世界から村の暮らしがなくなるのも悲しいと感じる。自分の暮らしに誇りを持って愛している状態!が、資本主義の中でどう生き残って欲しいけど、どうしたら良いのだろうか、

平等にチャレンジできる環境

とはいえ、挑戦したい気持ちになった時に、自分が置かれた環境によってい挑戦できないという状態は問題だと思っている。だから学校に行きたい!っていう人がいれば学校が行けるような仕組みを作りたいし、夢が叶得ることができるようなサポートがしたいと思う。
ただ、誰がどんな夢を抱くのかはそれまで生きてきた中でみた世界から生まれるもので、周りか植え付けるものでもない。。


なんかすんごくまとまってないけど、私はこんな感じのモヤモヤを抱えています。汲み取ってくだちゃい。

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