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心のケアという名の暴力性について

精神科で苛立ちや不安を相談するだけでは、その場限り宥め(なだめ)られているだけで、根本的な解決にはつながらないのではないか?
むしろ、話したことで辛い過去を思い出し、いつまでも気分が晴れないのではないか?


…とある性被害に関する取材を受けている最中、ぼくはそんなことをひたすら考えていた。取材で話している最中に過去のことを思い出してイライラしてしまったからだ。

日本の精神科でも同じことがいえるのではないか、と思ったので簡単に書き出してみました。
殴り書きになっていてゴメソm(_ _)m

精神科では現実問題の解決はできない

処方された薬を溜め込みOD(オーバードーズ)する患者は、狭い部屋で何度も同じ話をさせられ、医師から宥められ、話をしても逆に辛い過去を思い出すだけで解決できなかったことに心が荒廃してしまったのだと、ぼくにもやっと理解できた。
過去の悩みを打ち明け『(話を聞いてもらっているのに)怒りやモヤモヤが収まらない感覚はなにか』ひたすら考えた。

ちょうどそのころ、ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』と『精神疾患とパーソナリティ』を読んでおり、《メタ病理学》について解説されている章をみつけた。

《メタ病理学》とは、器官的疾患と精神的疾患の両方に対処できるという医学的な考えかたで、その一つとして有名なものが前頭葉ロボトミー施術。この施術は精神的疾患を器官的疾患の治療として行うものであり、21世紀では患者の意思の権利を守る観点から禁止されている。

日本の精神科・心療内科も似たような性質を孕んでいることに気づかされる

とくに薬ばかりを処方する精神科では、ものの10分ほど話を聞いて、気持ちが落ち着く(意識が朦朧とする)薬を処方する。

医師も仕事だから友人以上に仲良くなって話を聞くのが難しいのは当然だが、それで薬ばかりを処方するのでは精神的疾患を器官的疾患の治療として行うロボトミー施術の野蛮さと大差ないでのではないか?

妄想ではない現実世界で、現実の被害に遭ったことを話している当事者がそうして一時的に宥められ、薬を処方され、一時的に苛立ちや不安が取り除かれても根本的な解決にはつながらない。その後また過去の辛かった日々を思い出してしまって病院に通うのでは意味がないし、やがて薬のせいで過去の辛かった日々をつづる気力すらなくなるのは残酷以外の何者でもない忘却であり暴力ではないか?

セラピーという名の暴力は実在していた

驚かれるかもしれないが、PSYCHO-PASSの世界観のように「鎮静する相手を誤った治療」は日本の福祉と精神科にも実在していた。

2000年〜2006年、ぼくが大分の児童養護施設にいたころの話しだ。
精神疾患を抱えた児童が毎日暴力を振るって児童養護施設の職員も手をつけられない状態が続いていた。問題のある児童には、ぼくも毎日暴力を振るわれていたが、児童養護施設の職員は怒るだけでなにも対策を講じなかった。
問題のある児童の行動は日に日にエスカレートしていき、ついにはカッターナイフを振り回すようになった。児童養護施設の職員が対処できないため、ぼくは施設の電話から警察に110番通報したところ、翌日学校を休まされて精神科に連れていかれた。

ぼくは、手のつけられなくなった児童を施設の電話から警察に110番通報しただけ。そう言った。

本来、精神科に連れていかれるべきは問題を起こした児童であるべきはずなのに、問題を起こした児童は翌日何事もなかったかのように学校へ行き、ぼくが精神科に連れていかれていろいろと聞かれた。施設の電話から110番通報したのは衝動的な行動だったかもしれないが、生命を脅かす存在となった児童を職員が止めきらないから通報しただけで、なにが悪いというのだ?
それから精神科で意識が朦朧とする薬を処方された。児童養護施設では、こうした問題児と馬鹿な職員によって間違ったことが絶えず起きている。
児童養護施設の職員が問題児に対処できず、鎮静する相手を間違えたからセラピーという名の暴力が現実のものとなったのだ。
まるで、PSYCHO-PASSの世界だ( ˊᵕˋ ;)

そんなまやかし治療を心のケアだの、心理療法だの、メンタルヘルスだの、癒やしだの、セラピーだのと謳っている日本はどうかしている。こんなことを文章にはっきりと書き起こせる時点で精神科は患者の精神を逆撫でして金を貪る被害者ビジネスの詐欺師ではないか…と思ってしまう。

内的現象を正しく自覚したうえで、現実的に受容できるよう取り組む姿勢が大切

精神科に相談しても薬ばかりが処方されるだけで解決には至らなかったため、アクセプタンス(受容)についての考察を進めた。

一般診療の精神科では、主に担当医が複数回にわたって話を聞き、症状にあわせて薬を処方して何度も通院を繰り返すのが通例だが、過去の嫌な記憶を忘れるのではなく、創造的な方向へと価値を転換し、過去の体験としてこれからに活かすことが可能であれば、また過去の体験をオープンに語れる社会であれば、病院の狭い個室で話を聞いてもらう必要はないため、『被害者を被害者たらしめずに済むのではないか?』 そんなことを考えて実名で取材に応じるようになった。

実際の暴力被害に遭った『被害者を被害者たらしめる行為』とは、病院の狭い個室でいつまでも同じ話をさせ、 意識が朦朧とする薬を処方し続け、被害者を語らぬ亡霊にしてしまうことだと思う。大切なのは、事実を事実として受け止めて受容し、被害の本質を語れる場を設けて次の世代の抑止につなげることではないか?そうしなければ、被害者はいつまでも被害者のままで決して報われることはない。

だから、自らの体験をオープンに受容できるよう、ぼく自身もアクセプタンスを実践した。過去に児童養護施設であった性被害のことについてAV女優という職業上の立場から語ったり。トランスジェンダーとして配慮を受けながら埋没して生きるのではなく、自分の存在の一要素として受容し、個性として活かすことに決めてから苦痛に感じることはなくなった。

啓発・啓蒙活動も執筆活動も、その幸福の源は活動そのものとバランスのとれた主体化(自己実現)なのかもしれない。なので、過去の体験について語るときも好奇の目を向ける社会ではなく、被害者の誰もがオープンな活動家になれて報われる社会になることを願っています。

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